駆ける日々と彼女の隠しごと
日々は飛ぶように過ぎていった。
栗須さんはその後も週に二度、土日の午後は私の家でたい焼き作りの練習を見てくれた。基本中の基本である小麦粉のふるい方・水への溶き方から、製菓製パンの材料店で揃えた粉による生地の研究。そして当面の課題である、焼き型を用いたたい焼きの焼成。廃棄がもったいないので練習には期限切れの材料を使った。家の床下収納でこんこんと眠っていた代物である(もちろん食べられるだけは食べた)。
「焼き型一本、たい焼き一枚を十全に仕上げられるのは当たり前や。五本並行で焼けへんかったら文化祭の客は捌ききれん」
栗須さんはそう言って私に五本同時に焼くように指示した。
彼女が客の役で注文する。それを受けて私は機械のようにたい焼きを次々に焼いていく。
当然のごとく管理が厳しい。コンロのどこに置くかによって焼き型への火の当たりも違ってくる。今どの型がどこまで焼けているのか充分に把握しきれない。おまけに彼女の注文も個数と間隔がまちまちで予想できない。現場では常に起こるという、来店の波を想定した訓練だった。
大量の焼き置きを作る考えは私にも栗須さんにもない。たい焼きは焼いて一分以内が旬、五分までが食べ頃なのだ。保温器を使うにしても見込みで焼きすぎて余らせるのは避けたい。
毎回陽が傾く頃には頭も身体も疲労困憊になる。そんな私を見かねてか栗須さんはたまに食材を買ってきて手作りの夕食をふるまってくれた。カレー、餃子、ラザニア、回鍋肉。いずれも小技が効いてておいしい。そして一人前の量がすごい。とどめに辛い料理が本当に辛い。未知なる家庭の味だった。時おり同席するエマと藻永さんもその辛さに吃驚していた。
よう食ってよう休め、と告げて栗須さんはバイクで家を去っていく。
遠ざかる背中を私はいつも見えなくなるまで目で追い続けた。
シャワーを浴びてベッドに寝転ぶと全身が鉛みたいに重い。手首はカイロでも巻いているかのようにずっと熱を発している。
目蓋を落とすとすぐ眠気が訪れるが、決まってまた起き出した。
寝間着のまま庭にコンロを出して、あと一時間だけ、と言い聞かせる。
はやる気持ちを抑えきれず、私は朝も夜も焼き型を振るった。
学校での生活も変わった。江津さんと話す時間が増えた。エマとミウミウと囲んでいた昼食の席に彼女も加わった。「いつの間に仲良くなったの~」とかエマにからかわれたが無視した。
土曜午前の時間が空いた日は彼女も製餡を手伝ってくれた。サワリをひとりで監視するのは根気が要る。話し相手がいると助かった。
先日は一緒に隣町に出かけた。栗須さんが多忙で練習予定が立ち消えた日の出来事だ。
服を見てカフェで時間を潰して、最後は映画を観に行った。涙もろい江津さんはベタな恋愛映画でもまたよく泣いた。おかげで私も少しもらい泣きした。文化祭明けに彼女の家でレンタルBDの観賞会をする約束もした。
日曜は家業の手伝いで忙しいらしい。文化祭で展示する古本カフェの準備も水面下で進行中だという。
「そういえば古本カフェって何するの?」
と今さらながら質問すると、
「古本を売ってお茶とお菓子を売るのよ」
ラーメンライスってどう食べるの? ラーメンとご飯を交互に食べるのよ。そんな感じの回答である。喫茶併設の古本市ということで一応納得したけど、その場合客の回転が悪くなる懸念が鎌首をもたげる。確認するとたい焼きだけテイクアウト、古本だけ購入の客は別口で並ばせるとのこと。それもう半分たい焼き屋だよね……とはあえて口に出さなかった。
残暑と共に蝉の声も消えて、暦は十月を迎えた。
皮の味に進展はさしてない。粉を選び直しては配合し、比率を変えてはまた選び直す。一歩進んで戻る繰り返し。代わりに焼成時に黒焦げと生焼けを出す数はぐっと減った。
餡の味は精度を増している。じりじりとくりすやに詰め寄れている。
時間の流れを早く感じる。
一学期より数段密度が高い。
同じような毎日なのにやたら忙しなくてくっきりとしている。いつだって神経が昂りっぱなしで、目に映る景色、匂い、味、肌に覚えるすべてを鮮明に感じられる。
夏まで四十から六十で推移していた心身のメーターがしばしばゼロから百まで振り切れる。幼い子どもみたいな生き方だ。体力が尽きるまで全力疾走、尽きた途端パタンと寝落ちする。後先考えずに動けるだけ動く、そんな生活がすごく楽しい。
黄色く染まったイチョウの枝葉を揺らして秋風が吹き抜けていく。
生地を焼き、餡を練るたびに着実に技術が上がっていく実感。
一晩眠るごとに、細胞ごと生まれ直しているような錯覚。
夢に向かってひた走る日々を、私は初めて経験していた。
**
美傘駅から都心方面に電車で揺られること二十分。
生地の研究の際に粉を買う製菓製パン材料専門店――
「モモモモー! これ見てこれドライピーチだって! うわあテンション上がる! 干からびたモモモモだー!」
「江津さん、あのナメた生き物何発くらいはたけば正気に返るかな?」
「抑えて、あの子はあれで正気よ。私はこの前ふりかけ扱いされたわ」
「ふりか……ああ、ゆかり……」
文化祭を一週間前に控えた土曜の午前十時。私は図書委員の製菓班と福里商店に買い出しに来ていた。スーパーで安く売っていない材料はここでまとめて仕入れるのだ。
「洋菓子班は何作るの? クッキーとか?」
「ええ、他にはパウンドケーキと、フィナンシェかマドレーヌくらいかしら。喫茶といってもメインは古本だし、軽くつまめる焼き菓子程度よ。でも赤羽根さんの指導があれば他のカフェには引けを取らないはず」
「あれで飲食店の娘だからねえ。手伝ってるの見たことあるけど、お客さんの前ではまともなのに……」
ミウミウこと赤羽根美羽は隣町に住むパン屋の娘でもある。パン屋は地元密着型のベーカリーで味も折り紙付きだけど、ミウミウはパティシエの道に進むと公言してはばからない。親との軋轢とかではなく、単にお菓子のほうが好きだかららしい。
「おっ今あたしの噂したー? 照れるなあ、でも質疑応答はあたしに直接ね! アポは要らないしスリーサイズ以外ならなんでも答えるよ!」
「じゃあ体重と体脂肪率をば」
「いかなる単位法を用いてもあたしの質量は測れません。かしこ」
突然の真顔で返されてしまった。広い店内を練り歩きながら別の質問を適当に探す。
気が付くといつもの癖で小麦粉売り場の棚の前まで来ていた。六段ある棚いっぱいに多種多様な粉の袋が積まれている。どれも乳白色で見た目にはさしたる差異はない。
ついでに家用のも補充していこうと袋に腕を伸ばす。
「あたっ」
突然、静電気でも流れたみたいに手首がぴりっと痺れた。
慌てて手を引っこめる私をミウミウと江津さんが訝しげに見る。
「あっそうだ。ミウミウ、薄力粉と強力粉の違いってなんだろう?」
舌を回して恥ずかしさをごまかす。そのうちネットで調べようと後回しにしていた疑問だった。そうしたリソース的な余裕はたい焼きの練習に費やしていた。
私が唯一知っているのは、薄皮のたい焼きは基本的に薄力粉で焼くという情報のみ。初回の栗須さんによる指導の際に教えてもらったことだった。
バイオレット、ファリーヌ、エンジェライト、ポラリス、特宝笠、エクリチュール――こうした一種類の薄力粉だけによる生地は一通り試した。しかし決定的に食感が足りない。パリッとは焼けるしどれもおいしい。けど、くりすやの皮の内側にあった独特のモチモチ感が出ない。
ブレンドして比率を変えてみても同様の結果が返ってきた。
(もしかすると、くりすやは薄力粉以外の粉も混ぜていたのもしれない)
その疑念は否定できなかった。これまで思考の外に追いやっていた、強力粉や他の粉が鍵を握っている可能性は考えられる。何しろ薄力粉オンリーというのはあくまで『基本的に』だ。つまり応用もあるということ。
ならばまずは、今まで目を向けてこなかった粉の特性を知らなければならない。
「ふむ、いい質問だねモモモモ君! 違いはずばりグルテンの量さ」
「グルテン?」
「モモモモはたい焼きの生地作るとき、粉と水をさくさくって混ぜない?」
首を縦に振る。ダマができないように、しかし同時に混ぜすぎもしないように。切るように溶くのが生地のコツだと栗須さんに幾度も聞かされた。
「グルテンというのは小麦特有の面白いタンパク質でね。小麦粉に水を加えてこねると生まれる粘りの元なのさ。パンやうどんの生地がうにょーんって伸びるのもこのグルテンの力。で、小麦粉はグルテンの生成量が多い順・性質が強い順に、強力粉・中力粉・薄力粉って分類されてるの」
「グルテンのパワーが強いから強力粉、薄弱だから薄力粉と」
「そうそう! 強力粉の生地は食べ物に弾力を出すのが得意でね。だからパンや中華麺やパスタ、餃子の皮なんかに使われる。でもうどんは中力粉が基本ね。強力粉じゃ固くなりすぎるから」
ミウミウが棚の下方を指差す。積まれた中力粉の品種名に『うどん粉』とただし書きがされていた。
「じゃあ薄力粉は?」
「クッキーやケーキ、つまりお菓子が主戦場。歯切れのいいサクッとした焼き生地、ふわふわで柔らかいスポンジは薄力粉でない限りありえない。あと天ぷら粉とか、揚げ物の衣も薄力粉がよく使われるよ。あたしはツクシの天ぷらが大好き」
「私は芋天。江津さんは紫蘇?」
「紫蘇だけどなんでわかったの?」
「ほらそこのふたり私語は慎め! 今度モモモモの奢りで野菜天丼食べに行こう! 他にも全粒粉とか浮き粉とかセモリナ粉とか色々あるけどそれはまた別の話。以上、未来の天才パティシエール・赤羽根ミウミウ先生の粉講座(基本編)でした。はい拍手!」
わーきゃーぱちぱちー。鼻高々のミウミウに江津さんとふたりで拍手する。
実際ためになった。ただ言われた通りにこなしていた生地作りの工程を頭で理解できたのだ。座学を疎かにしていた過去の自分を少し反省する。
生地に薄力粉を用いるのも、粉と水を混ぜすぎないのも、いずれもグルテンを形成しすぎないため。たい焼きの皮にサクサクした食感をもたらすためだった。
「ねえミウミウ、試しに強力粉だけでたい焼き焼いたらどうなるかな?」
「うーんとね、ムッチムチになる。しっかり生地を練れば練っただけムッチムチに。そして膨らむ。すなわちバンプアップ。お前しばらく見ないうちにずいぶん鍛えたな……見違えたぜ……って感動することうけあいよ」
「うん、私筋肉フェチじゃないんだよね。お菓子には薄力粉以外のふたつは使わないのかな」
「いやいやそれもまた視野が狭い! パイ生地は中力粉ベースが多いし、和菓子ならどら焼きの皮に強力粉をブレンドしているお店もあるよ。皮がモッチリして美味しいんだって」
和菓子、皮、強力粉、モッチリ。
欲しかった表現がスパスパッとストライクゾーンに飛びこんでくる。やはりくりすやの皮の秘訣は薄力粉以外に隠されている。気がする。
「ありがとうミウミウ、すごく参考になった。今度たい焼き持ってくるときは塩昆布もセットで付けるよ」
「やったー! でもさー、粉のことならユカリンだって詳しいんじゃない? そりゃあたしの叡智はスゴいけどたい焼きは専門外ですし。同じ粉もの仲間に訊くほうが早いよ?」
ぴくっと江津さんの肩が震えた。
呼称が気に食わないのだろうか。今に始まった話でもないが。
「江津さんが詳しいのは餡だよ。たしかに手伝ってもらってるけど生地は江津さん担当じゃないし。でも餡に関しては絶対ミウミウより博識なんだから」
「そうじゃなくて、ユカリンだっていつも『コハナ』のお手伝いしてるじゃん! でもそういえば最近あんまし見かけないね。文化祭の準備で忙しいの?」
「コハナ?」
その単語が耳に引っかかった。
かすかに聞き覚え、というか見覚えがある。人名でも地名でもない。ほんの些細な、電車の中吊り広告ほどの記憶の引っかかり。
江津さんはきゅっと唇を引き結んで沈黙を保っている。伏せられた瞳がこのひと月で何度か見た色合いを帯びていた。
触れたら破れてしまう薄絹のような感情を湛えたその目。
私はその目を見つけると、なぜだか息が苦しくなってしまう。
「……江津さん、コハナって何? バイト先?」
尋ねたらきっと彼女は苦しむ。
けど、このまま彼女を放置したら私は確実に後悔する。
そんな漠然とした予感があった。
「あれ、モモモモ知らないの? ほら、美傘駅のモールの――」
「大判焼き屋よ」
「えっ? 回転焼き屋じゃないのユカリン?」
そこは今川焼きだろうとかそういうお約束はどうでもいい。
「今まで内緒にしていてごめんね」
ふっと小さく息を吐いて、江津さんが肩の力を抜く。
軽く天井を仰ぎ、眩しげに目を眇めてから私と向き合う。
彼女はこともなげに、あっけらかんと笑って自分の秘密を告げた。
「うちの家、大判焼き屋をやってるの。結構人気店なんだから」
それは私にだってひと目で見て取れる、空元気の笑顔だった。
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