甘い結晶と友達の笑顔

 それからは江津さんが語る和菓子にまつわる蘊蓄うんちくを聞いたり、今までの手順をメモにまとめたり、漫画を読んだり、道具をいじったり、サワリの底を泳ぐ小豆とにらめっこしたりして時間を過ごした。

 蘊蓄の中では大納言小豆の由来の話が気に入った。いわく、昔の侍は殿中で刀を抜けば切腹だった。しかし太政官が次官・大納言の官位の者は刑を免除された。これになぞらえ、煮ても胴割れを起こしづらい大粒の小豆を大納言の名称で品種化したという。なお諸説ありだとか。

 粒が大きくて割れにくい小豆。香りや味の良さ以上にその性質をなぜか好ましく感じた。つぶし餡が嫌いなわけではない。けど、後の工程に移ってもできるだけ豆の形を崩したくない。鍋底で膨らんでいる小豆を見ながらひとり心に思った。

 休憩時の江津さんは、はじめはソファで少女漫画を読んでいた。私も自前の漫画を読んでいたけど何度目かの交代時に、どちらからともなくお互いの本を交換しようという話が出る。彼女が読んでいた漫画はパートナーを失ったフィギュアスケーターの再生の物語。私はすっかり心奪われて、肩を叩かれるまで交代の時間に気付けなかった。

 私がサワリの前にいる間は彼女も夢中で漫画を読んだ。私が持参したのはタイムトリップものの青年漫画だ。守備範囲は違うが趣味は合うらしい。今度映画でも観に行ったら楽しいかも。そんな考えが脳裏をよぎって、ふるふると小さく頭を振る。

 いつしか最後の番を終えていた。借りた漫画も読み終わっていた。

 目蓋が重い。全身がぬるま湯じみたまどろみに包まれている。昨夜は遅く今朝は早かった。寝てていいよ、という江津さんの声に抗えずソファに背を沈める。

 キッチンからカウンターを通して素朴な豆の香りが広がっている。

 なんだか嬉しいような、懐かしいような、泣きじゃくりたくなるような。

 わけもなく胸の奥がきゅっとなる、そういう不思議な雰囲気だった。


「――さん――ゆず――」

「煮あがったわよ、柊さん」


 ゆさゆさと背中を揺すられて目覚める。


「私と間違えるなんてかわいい。それと、柚子好きなの?」


 どうやら寝言を言っていたらしい。

 和やかに微笑する江津さんに私は言葉を返さなかった。

 ふたりでサワリの前に移動して、菜箸で小豆を小皿へと取る。少し冷ましてから指で潰す。破れた皮の中身はねっとり柔らかい感触に仕上がっていた。


「ん、オーケー。最後はここから蓋をして三十分蒸らすわ」


 江津さんがサワリにガラス蓋を乗せる。これによって熱が均一に行き渡り、豆がふっくらと煮えるらしい。煮えムラ対策にもなるんだとか。


「ここからさらに三十分待つんだね」

「長丁場だって言ったでしょ。でも残る作業は餡練り――この生餡に砂糖を合わせるだけよ。蒸らしている間に今回使う砂糖の説明をするわ」


 そう言うと、彼女はシンクの下の収納から袋を取り出した。色違いの三つの袋が立て続けにキッチンに並べられる。


「え、江津さん。これ全部砂糖?」

「その通り」


 色も大きさも異なる三種類の結晶が小皿に盛られる。化学の実験みたいになってきた。


「くりすやで使用していたのは三温糖、中双ちゅうざら糖、氷砂糖。餡の味が最大限引き立つバランスで配合されていたわ」

「普通の砂糖は使わなかったんだ?」

「一般家庭にある上白糖、製菓の定番であるグラニュー糖は使わなかったみたいね。生餡に入れる前に砂糖自体の味を確かめてみましょう。勉強になるから」


 それぞれの砂糖の入った小皿とスプーンを両手に渡される。

 まずは三温糖から舐めてみた。普通の白砂糖を薄茶色にしたようなしっとりとした結晶。黒糖っぽい独特の風味があり、濃厚な甘味とコクが広がる。

 続いて中双糖。ざらざらとした石英のような四角い粒。三温糖より濃い黄褐色だけど心なしすっきりした味。ざらめの一種らしいが煎餅にまぶされた物とはちょっと違った。

 最後に氷砂糖。これは知っている。氷によく似た半透明のブロックだ。小学校の頃に乾パンと同梱の物を食べて以来である。見た目通り雑味のないあっさりした甘味で後味が良い。


「お爺さんは自分で考えて、試して、三つの砂糖を選んだんだよね」

「小豆も皮もよ。店主さんだけじゃない、プロの料理人は誰だってそう」

「そう考えるとすごいよね。同じ料理でも幅があって、その人の正解はひとつしかないんだ」

「本当にね。その上でプロは常に正解を更新し続けるの」


 口の中で氷砂糖を転がしながら残りの粒をつまみあげる。キッチンの窓にかざすと太陽の光に透けてきらきら光った。

 くりすやのたい焼きのあんこは、小豆も砂糖も大粒なのだ。

 小豆は膨らみ砂糖は縮む。ふたつの粒がひとつに融けあって宝石のような餡が結実する。理屈こそ飲みこめていないけれど、直観的に腑に落ちるものがあった。この材料ならあのあんこになる。それは確信めいた予感だった。


「江津さん、製餡頑張ろうね。私も生地と焼き、もっと頑張る」


 視線を氷砂糖の光に固定したまま決意を口にする。

 視界の隅で江津さんは驚いたように目をぱちくりさせていたけど、やがてその顔をほころばせた。


「――もちろん!」


 それは出会ってから初めて見る、江津さんの満面の笑顔だった。




 蒸らしを終えてサワリの蓋を開けると、水面に小豆の一部が浮いていた。

 さらし布を張ったザルに小豆をあげて軽く水気を落とす。これでまずは砂糖も塩も加えていない餡、生餡が完成した。

 空になったサワリにブレンドした砂糖と水を入れて弱火にかける。木べらで混ぜてざっくり砂糖を溶かしたら生餡を再投入。豆からも残りの水分が出てゆるゆるのお汁粉っぽくなった。

 軍手をはめて一気に火力を上げる。

 フル火力まであと一歩の強火。ここからはスピードとテクニックの勝負だという。

 かき混ぜず、鍋底の部分のみを焦げないよう木べらで撹拌する。川の字を描くように、切るように、手前から奥、奥から手前に。嘘みたいな速度で焦げつきそうになる鍋に隙間を与え続ける。しかし豆は極力壊さない。一秒も油断できないひととき。

 強烈に甘い匂いが噴煙のように湧き立ち鼻腔を支配する。

 暑さも相まって汗が吹き出す。黒い水面がぶくぶく泡立つ。爆ぜて灼熱の汁が飛び散る。地獄の釜みたいな様相になってきた。


「あっつ! 熱い! 跳ねる! 煮汁が!」

「ガマンしなさい! 私も傍で見てるかぎゃっ! 肩が、肩が燃えるー!」

「江津さんはっ! なんで! 肩出しの服なんて着てるの!」

「だ、だってあつっ! 家に来る友達に見栄張りたい日だってあるの!」


 彼女の口からぽんと飛び出した単語に数瞬思考が止まる。

 慌てて集中を取り戻すも耳の奥で音が反響している。


 ――友達。友達でいいのかな。

 もうひとりくらい増えても大丈夫か。


「うおー! こうなりゃヤケだ! この軍手が餡で燃えるまで焼き尽してやるー!」

「だから焦がしちゃダメだってばー! 意味わかんないしー!」


 私たちはぎゃあぎゃあ騒ぎながら餡練りの工程を突き進んだ。


「柊さん仕上げに塩! 塩ははっきりさせる! すべてを!」

「すべて!?」


 煮汁がとろみを帯びてきたので最後に塩をひとつまみ加える。

 ややゆるい状態になるまで煮詰まったタイミングで火を止めた。


「自然経過で水気が飛んで餡が締まるから、練り上がりはゆるいくらいでいいの……」


 剥き出しの肩で息をしつつ江津さんが工程完了を告げる。私もさすがにくたびれていた。期末テスト全教科分に相当する集中力をこの十分に費やした。

 餡をステンレストレーに移しかえてラップを張り、粗熱を取る。


「柊さん」

「こ、今度はなに……ちょっと休憩しない……?」

「完成よ」

「完成?」

「あんこができたの」

「マジで?」

「マジよ。さっき餡練りで終わりって言ったでしょう?」


 すっ……と江津さんが両手を上げる。ホールドアップの体勢である。


「最近は手を首の後ろに回すスタイルのほうがよく見かけるよ。あれえっちだよね」

「違うわよ! もう……ほら」


 くいっくいっと手首を前後に振る江津さん。そこでようやくピンときた。


「「イエーイ!」」


 声が重なり、軽快な音が鳴る。

 ハイタッチ。

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