はじめての製餡と人生ゲーム

 江津さんとの約束の土曜日、前腕の筋肉痛で目が覚めた。


「痛た……」


 上体を起こす拍子にベッドに手をつくと腕がミシっと軋んだ。起き抜けの痛みに歪んだ顔が薄暗い部屋の姿見に映る。

 筋繊維の一本一本がピアノ線みたいに張りつめている。特に手首。図書委員にたい焼きをふるまって以後ハイペースで焼いていたのが祟ったか。


(まあ主に食べていたのはお昼のエマとミウミウなんだけどさ……)


 疲労のせいか身体も重い。物理的に重くなった可能性には目をつぶる。

 慎重に服に袖を通し、軽く身支度を整えて家を出た。


「行ってきま……あ」

「あっ」


 門扉を挟んで人と鉢合わせる。

 ウォーターサーバーのおっさんだった。

 去年来た時と同様、上はネイビーのジャケットで下はチノパンだ。彼は即座に背筋を伸ばして人当たりのいいスマイルを浮かべた。


「おはようございます! 水って知ってますか?」

「一応知ってます。間に合ってます」


 ぺこりと一礼して右向け右。私は足早にガレージに向かった。


(セールスならせめて九時から十七時の間に来てくれ。断るけど)


 ロックを外した自転車にまたがり、すいっとアスファルトの路道に出る。おっさんはいなくなっていた。新手の幻覚だったのかもしれない。


「行ってきます」


 明るんできた空の下、長い坂道をゆったりと下っていく。うっすら色づき始めたイチョウに銀杏が鈴なりに実っていた。独特の異臭はまだ発していない。

 早朝の清涼な空気を肺いっぱいに吸いこんで駅に向かう。鳥の鳴き声と自転車の走行音に混じって蘇るのは、数日前に電話で話した栗須さんからの声援だった。


『ええんとちゃう? ジジイに追いつきたかったらジジイみたく場数を踏むのは必須やで。がんばりやー』


 一丁焼きのたい焼きで文化祭に出店することになりました。今度の土曜は同学年の子とその準備をします。ごめんなさい。

 そんな突然のキャンセルの連絡を栗須さんは快く許してくれた。土日はたい焼き作りのいろはを指導してもらう予定だったのだ。修行(?)初日から、それも先約に割りこむ形で断ってしまった。その罪悪感と、一気にゴールまでの路をショートカットできるかもしれないドキドキが胸中で渦を巻いている。我ながら身勝手なものだ。

 餡のレシピの件は伝えるか迷ったけどひとまず伏せておいた。まだ本当にくりすやの餡を再現できるかはわからないし、下手に吹聴して江津さんに迷惑をかけたりしたくもない。もしできたのなら明日の修行で結局は知られてしまうけれど。


(でも栗須さん、文化祭に参加することについてどう思っただろ?)


 なにせ彼女と店をやる誘いを断った上での出店である。表向きは朗らかでも内心、気を悪くしていてもおかしくない。いずれ改めて謝ろうと心に決めて、自転車のペダルを踏む。

 江津さんの自宅は美傘駅に面した大通りの端にあった。

 消しゴムを組み立てたような造形の垢抜けた白い一軒家。この付近はマンションが多いけど不思議と景観に溶けこんでいる。

 インターホンを押すとほどなくして江津さんが玄関扉を開けた。


「おはよう。朝早くからお疲れさま」

「おはよう。自転車で二十分くらいだけどね。こんな近所だと思わなかった」


 江津さんはオフショルのトップスにスキニーデニムを合わせた姿。飾らない軽やかさと大人っぽさを両立したスタイルだった。家では万年Tシャツの私やエマにない意識の差を感じる。

 江津さんの先導で廊下からリビングへと案内される。広々としたダイニングには高級そうな絨毯が敷かれていた。テーブルとテレビの他には座面の広いカウチソファが置かれている。部屋の日当たりも良く、横になったらすぐに寝入ってしまいそうだった。


「親は夕方まで仕事で家には私しかいないから。気にせずくつろいじゃってちょうだい」

「ありがとう。ご両親、休日なのに忙しいんだね」

「ええ。本当に」


 ふっと江津さんの面持ちが照明を落としたように陰る。何の仕事をされているのだろう。


「さて、じゃあちゃっちゃと始めましょうか。柊さん、暇潰しの道具は持ってきた?」


 気を取り直した感じで江津さんがくるりとこちらに向き直る。私は背負っていたデイパックを片手に持ち替えて揺らしてみせた。中には適当な漫画と文庫本が数冊入っている。


「それなりに長丁場だから覚悟してね。その分見返りもあるから」


 キッチンカウンターに移動するとずらりと器具一式が並んでいた。

 顔ほどもある底の丸い銅鍋にガラス蓋とステンレストレー。ザル、木べら、すくい網、さらし布巾。計量カップに菜箸に小皿。シンクに置かれたボウルには小豆とひたひたに注がれた水。おまけに軍手まである。果たしていつ手にはめるというのだろうか。

 初めて見る光景に圧倒されつつ江津さんとエプロンを着用する。

 なんとなく顔を見合わせて笑った後、製餡が始まった。


「早速だけど江津さん。小豆ってあらかじめ水に漬けておくの?」


 ボウルの中の小豆を指差す。生の小豆より膨らんでおり表面もかすかに張っていた。何かの生き物みたいにも見える。


「ご名答。一晩漬けておいたわ。吸水工程は流通する豆が古かった時代の名残で、やらないほうが煮えムラが出ないし旨味も落ちないって説もあるけど。くりすやの店主さんは今でもやっていた。柊さんにはそれで充分でしょう?」


 当然頷く。お爺さんがしていたならあらゆる道理に勝る。


「くりすやで使用していたのは北海道産の大納言小豆。吸水前に確認したけど割れや石豆はほとんどなかった。選穀の技術の進歩と、あとは国産ブランドの力かもね」

「いしまめ? せんこく?」

「石豆は未成熟な豆のこと。選穀はそうした石豆や細かいゴミを取り除く作業のことよ。次回はこれより安い豆を買って自分でチェックしてみましょう」


 専門用語を挟みながら下される指示に従って手を動かす。

 まず小豆をザルにあけてから鍋に移し、たっぷりの水を注ぐ。江津さんいわくサワリと呼ばれるこの銅鍋をガスコンロにかけて、沸騰するまでしばし待つ。


「お湯が金色になってきたよ。きれい」

「そうね。これからどばっと捨てるわよ」


 煮汁の色は徐々に深くなる。緑茶、麦茶、ウーロン茶といったふうな変遷を辿っていって、代わりに小豆の色が薄くなる。細かいアクの泡も湧いてくる。

 沸騰したら折を見て、アクの浮いた煮汁をシンクに茹でこぼす。もうもうとあがる芳しい湯気を顔に浴びながら不安を漏らす。


「江津さん、なんか旨味とか栄養とかも抜けてる気がするんだけど……」

「ええ。ビタミンB群、ポリフェノール、水溶性植物繊維……身体に優しい成分の数割は処理場を経由して海に還るわ」

「もったいないなあ」

「黒豆の煮汁なんかは風邪のとき喉に効くから飲んだりするけど。まあ、宝石を研磨するようなものよ。きっぱり諦めましょう」


 ここまでが渋切りという工程。豆から渋味とエグ味を抜いて、餡の個性を決めるプロセスらしい。回数を重ねるとさっぱりした味になるが旨味も飛ぶとのこと。

 茹であがった小豆を乾かないうちに手早くサワリに戻して、今度はかぶるくらいの水で煮る。水は多くても少なくてもダメだという。

 サワリを火にかけたまま頻繁に、少しずつ水を足す。さほど出ないが適宜アクも取り除く。


「最初の吸水時間もそうだけど。煮る時間は豆の種類、鮮度、鍋、季節によっても変わってくるわ。指の腹で潰して中に芯が残っていなければ炊きあがりよ」

「くりすやでの目安の時間とかは?」

「私が店主さんに教わったときはだいたい二時間強だったわ。これは九月の新豆だから短くしたほうがいいと思うけど……」


 とはいえ今から二時間通しでサワリを監視するということだ。

 私の顔から色々読み取ったか、江津さんが苦笑する。


「最初の二十分はふたりで見張りましょう。それからは適宜交代」

「了解です」


 気泡も出ない程度のとろ火でじんわりと柔らかく熱を通す。

 長い長い時をかけて、壊れぬよう、弾けぬよう豆を煮詰める。

 一粒一粒に火を灯すように。




「そういえば柊さんって、一学期の打ち上げにいなかったわよね。用事でもあったの?」


 天気、ニュース、最近見たネットの動画と通りいっぺんの雑談ネタが尽きて、間が持てなくなったところで江津さんがふいに呟いた。

 他クラス合同の打ち上げ会。あの夏にはそんなこともあった。卒業でもないのに男女問わず多くの生徒が出席したらしい。つくづくうちの学年はみんな仲が良すぎると思う。


「いや、特には。フツーに欠席したけど。何かあったの?」

「なんだか意外だなって」

「意外?」

「柊さん、別に人と関わりたくないってタイプの子には見えないから」


 ――親しい友人もいるし人付き合いも決して悪くはない。

 ――交友関係は広く、図書委員や他のクラスの子にも名前を覚えられている。

 ――どちらかと言えば明るいタイプで、ちょくちょく冗談だって言う。

 江津さんはそう私を評する。以前からずっと司書室の隅でそんな柊さんを見てきた、と。

 私は彼女と知りあってからまだ一週間しか経っていないのに。


「……ごめんなさい、不躾なこと言ってるわね。自分が見た範囲だけで勝手に他人をあれこれ決めつけて……忘れてもらえると嬉しい」

「ううん、大丈夫。それに私の場合、みんな友達って呼べるほどの仲じゃないよ。知られてるし知ってるだけ。会えば話すけど、いわゆる顔見知りってやつ?」


 カラカラと笑ってみせるも江津さんはちょっぴりしゅんとしてしまった。口にしてから自分の発言を後悔するクチなのかもしれない。親近感が湧く。


「あのね江津さん、私、人生ゲームって苦手なんだ」


 お茶を濁してもよかったが、江津さんを見ていたらフォローしたくなった。

 あるいは単に、私の口が話をしたがっただけかもしれない。

 私が他人に対して線を引いて接しているのは事実である。


「人生ゲーム?」

「江津さんは好き? 人生ゲーム」


 少し考えて江津さんが答える。


「数えるくらいしかプレイしたことないけど、どちらかと言えば好きかも。なんていうのかな、積み上げる感じが。今と違う人生を気軽に試していけるのも楽しいと思う」

「私も積み上げるのは好き。就いた職業で賞を取れたとか、結婚して子どもが生まれたとか。けどそれ以外になるとなんかダメ。積んだものが崩れる、あの感じが」


 水道からカップに水を汲んで、サワリにほんの少量を注いだ。

 ずっと火の近くにいるせいか、こめかみから汗がにじみ出してくる。


「怪我したり、家が火事で燃えたり、UFOにアブダクションされたりする。当たりのマスもクルーズに行ったり宝くじに当たったりでさ。全部が全部そうじゃないけど、イメージしづらい足場マスは幸せじゃない。どんなにお金があっても、私はリゾートに別荘なんて建てない」

「……不条理を楽しむっていう側面もあるんじゃない?」

「うん。子どもでも大人に勝てるし、よくできてていいゲームだよ。でも私にはダメなんだ。それでなんだっけ、ええっと」


 にへらと口の端を上げてみる。


「人間関係も、そんな感じ?」


 意味不明な例えになってしまったかもしれない。


「柊さんは理想が高いのね」


 凪いだサワリの水面を見つめて、江津さんはぽつりとそうこぼした。

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