高校2年・秋
失敗たい焼きとミントの匂い
ボウルからクリーム色の生地をお玉ですくい取り、焼き型に流す。
かんかんに熱した鉄の表面がじゅわっと小気味良い音を立てた。
「ねえ桃~」
「うん、何かなエマ」
流しこんだ生地にデッシャーで餡を落としているとエマが尋ねてきた。ウェーブがかったブロンドヘアが私の鼻先で波打つ。顔が近い。
「なんでお家の庭でたい焼き焼いてるの~?」
「たぶんね、今までのはIHで焼いてたからダメだったと思うんだ」
「出た~責任転嫁~」
餡に生地をかけて型を閉じればたい焼きの素の完成である。この工程を四回繰り返し、庭に居る全員の分を用意。
四つの型をバーベキューコンロに乗せて、あとは焼きあがりを待つのみ。
使わなかった残り一本の焼き型を午後の陽光に掲げる。たちまち腕が震えだしたので即下ろした。鍛えるべきかもしれない。
「たい焼き作りも始めて五日目。散々辛酸を舐めてきたけど失敗続きは今日でおしまいよ。このコンロで焼いたならイケるはず。私は遠赤外線の力を信じる」
「過去の失敗を道具のせいにするあたりすっごい桃だよね~。なんかもう絶対ダメだと思うけど~。あと庭で火起こすのって自治体的には大丈夫なのかな~?」
「これくらいなら市の条例には引っ掛かりませんよ。大々的な催しなら届出が必要ですが」
「ほら、
「どういたしまして。ちなみにこのコンロの遠赤外線は弱いですよ。炭ではなくガスですから」
黒縁メガネの奥で藻永さんの目が糸のように細められる。丸い顔つきも相まっていつもながら菩薩のような面持ちだ。近年ますます後退しつつある前髪が秋風に揺れていた。
数年ぶりに納戸から引っ張り出したコンロを囲んでいるのは私とエマ、その妹のシャロン、私の後見人の藻永さん。常日頃からスーツを着ている藻永さん以外は楽な私服である。
二学期になって最初の休日、私は三人に練習中のたい焼きをふるまうはめに陥っていた。焼いている現場に来られたのが運のツキだ。そこまで隠す気もなかったけど。
適当なタイミングで焼き型を引っくり返す。なおここで言う適当とは適切というニュアンスではない。純然たるテキトーである。
半ばやけくそで焼いているけれど何も手を抜いているわけではない。
単純に、いつ引っくり返せばいいのかてんでわからないのである。
(金属限定でいいから透視スキル欲しいな……)
などと妄想してみる。あるいは焼きあがり通知機能でもいい。しかし両目は視力さえ微妙だしこの鉄器は便利家電ではない。
「そろそろかな」
根拠のない余裕を醸し出して職人オーラを演出してみる。呆れた様子のエマの傍らで、幼いシャロンが期待のまなざしで私の横顔を見上げていた。やにわに罪悪感が湧いてくる。齢九歳の少女の星のような瞳を裏切りたくはない。
遠赤外線(弱)の力を信じて、コンロの火を止め、焼き型を開けた。
ぷわんと甘い香気が立ち昇る。
「いい感じじゃないですか」
藻永さんが目を丸くする。当の私にも信じがたかった。
艶やかな琥珀色の皮目に整然と並ぶ鱗が麗しい。食品サンプルさながらの端正なビジュアルにほれぼれしてしまう。お爺さんの品には似つかないがこれはこれでイケるんじゃなかろうか。
火傷しそうに熱いたい焼きを紙皿に移して三人に配る。
自分の分も用意して、みんなでいただきますの後、かぶりついた。
「……お、おいしくない!」
「これはまずいですね」
「というか生焼けギリギリっぽいね~」
「ん……」
私、藻永さん、エマ、シャロンの忌憚ない感想が順繰りに出る。
試作五日目のたい焼きの味は全会一致でダメダメだった。
食してすぐ歯にこびりつく生地のねばついた食感がいやらしい。続けて鼻を抜ける卵と乳の臭さに脳天をぶち抜かれる。痺れた味覚にボディーブローのように効いてくる粉っぽいざらつき。砂を噛んだような舌触りもいつまで経っても消えてくれない。
既製品の餡だけがおいしい。こんな生地に包まれてしまってはもはや可哀想にも思えてくる。
私はしゃくに障るまずさのたい焼きを飲み下し、頭を垂れた。
「うん、でも今回のは過去ワーストワンの出来でした。もっと罵ってほしい」
「では年長者の私から。小学生の頃に作って失敗した甘酒を思い出しました。なぜ傷んでない材料から発酵臭が出るんでしょうね? 懐かしい」
「玄米モードで白いご飯炊くとこんな歯触りになるよね~。味の決め手は酸っぱくなった牛乳?」
「ふたりとも米ベースの腐った感想? あと牛乳は昨日買ったんだけど。……シャロンちゃんはどうだろう?」
「…………」
「答えづらい質問してごめんね……」
黙ってうつむくシャロンの姿が精神的に一番堪えた。小さい子がまずいおやつに悲しむさまほどつらい光景はない。それが自作ならなおのことだ。
「どう考えても焼き時間短いよね~。桃、レシピとか見なかったの?」
「桃さんは大物ですからね。既存の規格には囚われませんよ」
「あ~わかり~藻永さん理解者~」
「ちょっとアンタら失礼すぎない? いやネットのレシピとかも見たけどいまいち正解に見えなかったんだよ。それに焼き時間は――」
私なりの言い分を陳述しようとしたとき、それは唐突に訪れた。
「おった――――――――――――――――――――――――!!」
閑静な住宅地に轟いた絶叫に四人で顔を見合わせる。
声のした方向を見やる。具体的には我が家の敷地前、距離にすれば五メートルもない。
庭と道路を隔てる生け垣の隙間から人の目が覗いていた。
その、まつ毛の長い目と目が合う。
「……」
「……」
ふっと隙間から瞳が消える。生け垣の前から離れたらしい。
背筋を駆け抜ける猛烈に嫌な予感はほどなく的中した。
ピンポーン。
インターホンが鳴った。四人の視線が交錯する。
「エマ出てよ。同じお客さんでしょ」
「意味不明だよ~。桃が家主なんだから桃が出なよ~」
「じゃあ藻永さんだ。きっと仕事柄やくざにでも逆恨みされたんだよ」
「私に用があるなら事務所か私の自宅に訪れるでしょう。桃さんが家主なのですから桃さんが出るべきです。これも社会勉強です」
「この後見人……」
割と私を矢面に立たせる方針の藻永信一郎さんである。肝心なときは守ってくれるけど今回は肝心ではないのか。
居留守を決めこもうかと思ったが先ほど相手と目が合っている。逆上させて暴力に訴えられたらこちらはひとたまりもない。今は相手もインターホンという最低限の礼節を弁えているし、穏便に事を進めるには現段階で応対するのがベターだろう。
そもそも相手とて単に素っ頓狂な大声を上げていただけ。
まさか警察沙汰にはならないでしょう。甘い見込みで門扉に向かった。
「あーっと、ゴメンくださーい。さっきはデカい声出してすんません」
声音で想像はついていたけど、門前に立っているのは女性だった。
第一印象は、カッコいい人。マニッシュなパンツルックの二十代。
「えーっと、どちらさまでしょう……?」
おずおずと彼女の前に進み出る。自ずと見上げる形となった。
色素の薄い切れ長の瞳にすらりとしたシルエットの体躯。女性らしからぬ長身を包むワイシャツは黒曜石めいた黒。背中までの赤みがかった髪はざっくりひとつに束ねられている。
頭ひとつ分の身長差の間で再び視線が重なる。
清涼感のあるミントの匂いがした。なぜか心臓が高鳴った。
「急に押しかけてすんません。ジブンが柊さんやね」
「は、はあ」
女性は独特のイントネーションで話す。関西なまりだろうか。
「あの焼きゴテ、アタシのやねん。返したってや」
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