第3話

 道というには頼りないくらいの斜面にできた段差のような空間を、足元と斜面を交互に見ながら進む。

 幸いなことに、ひどく痣になったり擦り剥いたりはしていない。ただ、体中についた土と草の汁が汗と混ざって青臭いにおいを放っている感じがする。

 さっきまでしつこく追ってきていたおーい、という声はもう聞こえてこない。自分が枝葉をかき分ける音だけがやけに大きく響く静けさに、かえって緊張を煽られるみたいだった。


 桜と二人で見た白い花の咲いた木を斜面の上に探して、もうどれだけ歩いただろう。

 歩いた距離を思うたび、見過ごしたのではという不安にお腹が締め付けられる。

 満開の花が咲いたそこそこの大きさの木は、藪に遮られていてもなんとか見えると期待したのに。


 斜面から今いる道に降りた後、しばらくは姿を隠すため、なるべく物音もたてずに這うようにしてそこから離れた。

 もう大丈夫だろうというあたりで携帯を取り出して、電波が通じているのがわかったときは思わず携帯を胸に抱きしめてしまった。

 念じながらかけた電話が通じ、なんとか無事を確かめあった後、目印として唯一思い当たったあの木のところでおち合おうと約束して通話を切ったのだった。


 そういえばとマップアプリを起動してみたところ、現在地のピンはなぜか神社の境内を指していた。

 実際の位置とピンがずれることはよくあることで、ただそれだけのことなのか、異常なズレなのか、私に判断はつかなかったけれど、桜との通話で薄まった不安がまたその影を色濃くするのを感じた。


 息苦しい焦りにすり減らされながら歩くうち、ようやく藪の隙間から大きな白い影が見えた。

 屈んだり背伸びしたりして見る角度を変え、確かに見えると確信すると、がくりと膝に手をついて長い息を漏らしてしまった。


 約束の木を目指して斜面を登る。恐る恐る藪の中からあたりを伺うと、目の前で開けている視界に違和感を覚えた。

 木を囲む空間が記憶より広い気がする。まるでちょっとした広場じゃないか?

 その中心の木に向かって立つ後ろ姿が見えた。鈴なりに咲く花のむせるような匂いがここまで届いている。


 がさがさと藪から抜け出す私に気づいたのか、ちりん、と音を鳴らしながらゆっくりと桜が振り返った。


 土と汗にまみれた姿で桜の前に立つのが気恥ずかしくて、視線をそらしたまま歩み寄る。

 汚れひとつなく白い足先が目に入った。一緒に山中を走り回ったはずなのに、桜は綺麗なままだ。

 これからどうするか早く相談しなければいけないのに、うまく言葉が出てこなかった。

「ミオちゃん」

 私の名前を呼ぶ声の、背筋をそっと撫でられるような響きに反射的に顔を上げた。

 白い肌に色づいた唇が微笑みを浮かべている。その上の目が、私をじっと見つめている。


 目があった瞬間から、まるで磁力で繋がれたみたいに視線を外すことができなくなった。桜の唇の微笑みがきゅうっと深くなる。

 私と目を合わせたまま、彼女の体が反転を始める。体のねじれを追うように頭も回って視線が途切れると、ゴムがちぎれたときみたいな震えを感じた。


 振り向いた桜は背を伸ばして花房のついた枝を掴む。軽い手首のひねりひとつで、その枝は音もなく折り取られてしまった。

 袖をひるがえしてまたこちらを向くと、おもむろに私の手をとり、ひやりと乾いた手のひらで包み込むようにしてそれを握らせる。


 意図を掴もうと送った視線が、再び桜に囚われた。

「踊って」

 私の手を包んだままの桜が言った。力を込めて握られているわけでもないのに、頑丈な鎖で縛られたみたいだった。

 枝を握らされた手が胸元まで引き上げられる。群れ咲く花の隙間から、笑みに細められた目がまだこちらを覗き込んでいる。鎖が、手から胸へと繋がったのがわかった。


 桜の腕から、かすかに押すような力が伝わると、私は自然と後退してしまう。

 距離が開き、じきに手がほどけても、私を縛る繋がりは保たれたままだった。


「踊って」

 桜の願いが聞こえる。

 枝を握った手が持ち上がっていく。繋がった鎖は重く、しかしずるずると胸から伸びた。

 濡れたように光る唇が動いている。さ、さ、げ、て。

 

 掲げた手が頭上高くで打ち振られる。


 ばさっ、というむなしい音がした。

 私が持っているのは鈴ではなくて、ただの枝だった。

 じわじわと顔が熱くなり、桜の顔が滲む。私の腕は力なく下がり、顔はうつむいた。




 祭りが中止になると聞かされたとき、私の心には拍子抜けしたという程度の白けた思いしか湧かなかった。

 むしろ世間の重苦しい雰囲気と生活の大きな変化に気を取られて、お祭りと舞については、ろくに思い出しもしないままに日々は過ぎた。

 マスクが蒸れてつらくなったころに桜から送られてきたメッセージで、そういえば今日はお祭りの日だ、と気づかされた。


 お祭り中止なんて残念だね。ミオリちゃんと一緒に踊れなくて悲しいよ。

 いつかまた一緒に踊りたいね。一人でだけど、踊ったから見てね。


 そういうメッセージに、動画が添付されていた。

 再生すると、自宅の庭らしき場所を背景にマスクをしていない桜の顔が大きく映る。

 撮影が開始されたか確かめるように視線が少しさまよう後ろで、車が近くを通る音が入っていた。


 こちらを見る顔が真剣な表情になった。その瞳から感じる何かの熱に、思わず目が吸い寄せられる。

「私の舞、見ていてね」

 そう言って画面から離れていく桜が、稚児舞の衣装を来ているのに気づいた。

 彼女の母も祖母も舞手の経験者で、その時の衣装が残っていると言っていたから、それを着ているのだろう。


 緋袴と白い千早姿で、桜が画面の中央に立つ。

 一呼吸おいて深く礼をし、顔をあげた彼女はどこか遠くをあおぎ見るような表情をしていた。

 大きくゆっくり、すうっと腕を差し伸べると、視線の先に向かって手を打ち振る。


 シャーン、という音がした。

 小さな鈴たちがいっせいに鳴り響く、澄んだ音色だった。


 足を踏みならし、袖をひるがえし、そして鈴を打ち鳴らす姿に惹きつけられて目が離せない。

 伸びやかな手足で、くるり、ふわりと舞う桜の美しさにぼうっと見惚れてしまう。

 あいまに鳴る、シャーン、という鈴の音が彼女の動きの冴えと響き合って、神々しさすら感じられた。


 最後にまた一礼し、やりきった高ぶりを浮かべてこちらを見る桜と同じように、私の頬も興奮に熱くなっていた。

 画面の中の彼女が足取り軽く携帯に向かって歩き、指を画面に伸ばす。

「ミオリちゃんが踊ってるのも見せてね」

 そういって動画は終わった。


 一瞬前までの胸の高鳴りは嘘のようにひいていき、後には戸惑いだけが残っていた。

 私も踊るの……?


 携帯を手にしたまま自分の体を見下ろすと、その手足の短さが目につく。

 一度気づいてしまえば、これまで意識していなかったのが不思議なくらい不格好な私がそこにある。

 どうして今まで気がつかなかったのだろう。呆然としながら、この動画を自分の部屋で、一人のときに見て本当によかったと思った。


 でも結局、子供が舞手をつとめている繋がりから、桜の親から私の親の元へと動画はすでに届いていたのだった。


 そうなると、私の動画も撮らないと、という話になった。

 だけど、私が踊りたくない、というよりも踊っている姿を人に、誰よりも桜に見せたくないと思っている理由はうまく説明できそうにない。


 桜の舞を見たうえで私にも動画を撮るよう促す両親の様子からは、あの凄さが感じられているとは思えない。

 かといって、私自身のみっともなさを言いたてるのもなんだか子供じみているし、父母にも悪いことのように思えた。


 両親には時間稼ぎのように生返事だけして自室で再び一人になる。

 手の中でいつもより重くなっているみたいに感じる携帯を操作して、気づけばあの動画ファイルを表示していた。

 またこれを見て何になるというのだろうと思いながら再生ボタンを押す。


 桜の顔と車の音、真剣な彼女の言葉。袴姿の桜が腕を掲げる。打ち振られる鈴の音。

 そこまで見て、あれ、と思った。桜は鈴を持っていない。


 袴と千早を着ただけで、鈴や冠といった小道具は身に着けていなかった。

 それなのに、桜の身振りにあわせて鈴が鳴る。


 最初は映像を加工して後から鈴の音を載せたのかと疑った。

 音をミュートにして頭から再生してみる。

 顔、真剣そうな様子で口を動かす桜、腕が掲げられ、シャーン。


 パントマイムのようなものか?

 実際には小道具がなくても、舞があまりに真に迫っていて、私の脳を錯覚させているのかも。

 鈴を振る寸前、溜めを作るように動きを止めたところで目を閉じた。鈴が鳴る。


 桜がどこで鈴を鳴らすのか、まぶたに焼き付いているみたいに思い描ける。

 暗闇の中で、ただ桜だけが美しく舞い、シャンシャンと鈴の音を鳴り響かせていた。

 実在する音なのか、私の頭が作り出しているに過ぎないのか、もう分かりようがない。


 部屋のドアをたたく音がして、父が私に呼びかけた。

「美織、どうせならお祭りの当日のうちに撮っちゃったほうがいいんじゃないか。準備もあるし、暗くなる前にやっちゃおうよ」

 ぼうっと熱を持った頭では、断る口実は何も出てこなかった。

 かわりに、父にも鈴の音が聞こえるか訊ねてみようかという考えが浮かぶ。でももし、音なんかしないよと言われたら桜の舞が色褪せてしまう気がして、口には出さなかった。

 

 リビングでは広げた舞の装束を前に、母が途方にくれたような顔をしている。

「ああ、美織。衣装着て踊るでしょう?」

 そう言ってスマホを操作して何やらしている。


「今、着付け方調べてるからちょっと待ってね……はー、お義母さんにもっとちゃんと教わっておけばよかった。油断してた」

 確かに去年までは衣装は祖母に着せてもらっていた。脇で母も見ていたはずだが、あまり真面目に覚えようとしていなかったのかもしれない。そういう私自身、衣装を着せながら説明してくれた祖母の言葉をろくに覚えていない。


 その後、父も加わって、分かりやすい着付け方の情報を探し、それを見つつ記憶を探ってなんとか着付けてもらった。

 撮影の準備が整ったときには、もう皆が疲れていた。まだ外は明るいものの、時間帯としてはすでに夕方と言っていいころだ。


 自分の携帯を親に渡して、落ち着かない気持ちで私は庭に立っていた。

 桜のように、カメラの向こうへ語りかける気にはならなかった。


「じゃあ、撮るよ。いいかい? さん、にー、いち」

 父の持つ私の携帯に向かって、一礼して頭を上げた。母はその横で別のカメラをこちらに向けている。

 卑屈な顔になっているのが自分でも分かった。腕を掲げると、袖が突っ張る感じがした。


 何も持っていない手を振る。聞こえたのは、布が揺れる鈍い音だけだった。


 体がうまく動かない。思い描く動作で鳴っている鈴の音は聞こえず、空振る手ごたえのなさが間を悪くして、拍子を狂わせていく。

 気持ちも動きも縮こまっていき、ついには次の振りがわからなくなってしまった。

「……ごめん、もう一回」


 何回やり直しても同じだった。両親が顔を見合わせている。

 汗がしたたっている。雨に濡れたみたいな私の顔を見て、今日はもうお終いにしようか、と母が言った。

 けれどそれからも、撮りなおすことは二度となかった。


 私が舞を踊れなかったことは、恐らくそれぞれの親を経由して桜にも伝わったんじゃないかと思う。

 どういうふうに伝わったかはわからないけれど、私から桜へは何も説明しなかったし、彼女からもそれに触れてくることはなかった。

 メッセージアプリの画面上には、舞を褒める私と、礼をいう桜の白々しいやりとりだけが残っている。


 その後、私はバレエ教室もやめた。


 後から思えば、それまでの私は、私を中心とした世界でただひとつ輝くものだった。だから自分より上手な子がいても、発表会で主役以外をあてがわれても、どうでもよかった。

 けれど、あの動画が送られてきた日から、私がいるのは中心でもないし、世界には絶対の輝きではなく、無数の優劣だけがあるのだった。


 そうなって改めて教室を見渡せば、自分より技術が上の子や容姿が優れている子はざらにいる。

 私にとってバレエを習うことは、私を飾る彩りのひとつに過ぎなくて、その鮮やかさが褪せているのにわざわざ長居しようとは思わなかった。

 

 感染症のせいで活動も不自由になっていたし、来年には中学に上がるという節目の時期というのもあるだろう。両親に教室を辞めたいと言ったらあっさり受け入れられて、拍子抜けもしたし、なんだか逆に申し訳ない気もした。


 桜の舞の動画はそれからも、ときどき思い出したように再生した。

 なぜだか、時が経過してもまだあの鈴の音が鳴っているか確かめたいという気持ちになることがあって、そういう時には再生ボタンを押す。

 そうすると、変わらず音は響いていて、うっとりする気分と寂しさを同時に味わって頭は混乱し、安心と焦りに心がねじれるような思いをする。そういう時間を何度も過ごした。


 時期的に他人との接触が制限される状況だったから、なんとか落ち着くまでの時間が稼げたのではないかと思う。

 その頃に桜と以前の密度で接触していたら、私はみっともなく取り乱していたに違いなかった。




 時間が巻き戻ったみたいに、今の私は落ち着きを失って取り乱している。

 短い腕を振りかざすしかない私では鈴の音は響かないということを、はっきりと思い出させられた。


 すぐ近くで桜が見ている。恥ずかしくて顔を上げるのが怖い。踊るなんて無理だ。


「どうしてやめるの」

 冷たい声がさらに私を強張らせる。

「踊らないんだね」

 その場から動かずに投げかけられる言葉には突き放す雰囲気があって、私は恐る恐る視線だけを上げる。


 眉と口角の下がった桜の顔が見えた。私がはじかれたように顔を上げたときには、すでに彼女は私から離れるように歩き出していた。

 私に向けていたあの顔は、失望したみたいな、見下すみたいな表情に見えた。

 中心に立つ木を回り込むようにして遠ざかっていく桜を、よたよたとした足取りで追いかける。


 木の背後へと消える彼女が白い花々に溶けていく。赤い残像をひらめかせたのを最後に、その姿は見えなくなってしまった。

「待って、桜。置いてかないでよ!」

 見えなくなってやっと、より強い恐れにかられた足が走り出す。


 なかなか追いつけない。途切れることなく緩やかに曲がりながら続く白と緑の壁の間をひたすら走った。

 まだ背が見えない。もっと速く走ろうと踏ん張った後ろ足が滑り、つんのめるようにして止まった。荒く乱れた自分の呼吸の音が響いている。

 追いつけない。そう悟って私は力なく座り込む。桜はいなくなってしまった。


 左右の木々が重なって先の見えなくなるところにただ目を向けていた。

 地面にへたりこんだままどれだけ経ったのか、いつのまにか、慰めるように自分の背を撫でている手があることに気がつく。

 私がのろのろと振り返ると、そこには優しく微笑む祖母がいた。


「おばあちゃん」

 祖母は、この片田舎の町で農業を営んでいたにしては、土のにおいを感じない人だった。

 いつもシンプルだけどキレイな服を着て、きつめに髪をひとつに括ってピンと立つ姿のさっぱりと清潔な印象がなんだか、かっこよくて憧れた。

 そんな祖母が記憶どおりの姿でそこにいて、私をいたわってくれている。


「踊れなくて悲しかったんでしょう」

「うん」

 見上げる私の肩を、両手で包むようにして擦ってくれる。その手にすくい上げられるように素直な言葉が口をついた。

「桜みたいに踊れないのが、悲しいの。……本当は一緒に踊りたかった」

 そう、と言った祖母が元気づけるように肩を包む手に力を込める。

「それなら、私が見ていてあげる」


 そう言いながら引っ張り上げるようにされて私は立ち上がった。手には花房のついた枝がまだ握られている。

 おばあちゃんは後ろに下がりながら、励ますように頷いた。

「大丈夫。美織ちゃんは踊れる」


 そういえば稚児舞の舞手を引き受けたのは、おばあちゃんと同じ経験をしてみたかったからだった。

 ちゃんと練習すれば、上手だね、後を継いでくれて嬉しいよ、と言ってもらえるだろうと思ったから、お稽古にもちゃんと通った。


 おばあちゃんに見られていると、体の中からふつふつと、熱があふれてくる気がする。私が精いっぱい踊る姿を見せてあげたいと思った。

「おばあちゃん、見ててね」


 おばあちゃんを見つめ返しながら、枝を握った手を天高く差し伸ばした。

 しなる腕の先で白くほのかに光っているみたいに咲く花々を、力強く打ち振る。

 シャーン、という音が響いた。私は、鈴を鳴らすことができる。


 喜びに震えながらも、体は淀みなく動いた。

 腕を振り、足を踏みしめる。おばあちゃん、見てる?

 私が持っている鈴を、なんども打ち鳴らす。おばあちゃん、聞こえるでしょ。

 くるり、ふわりと舞う合間に見たおばあちゃんの顔は嬉しげに笑っている。

 私の調子はますます上がり、鈴の音も弾むように鳴った。


 最後にまた高々と持ち上げた鈴を打ち鳴らして、舞は終わった。伸ばした腕越しに笑顔で頷いているおばあちゃんが見える。

 ふっふっと息を切らしながら、充実感とともに腕から力を抜いた。顔の前を腕と花房が通り過ぎたときには、もうそこに誰もいなかった。


 おばあちゃん、もう帰っちゃったの。私の舞を見に来てくれていたんだね。

 胸にじんわりとした感謝が満ちた。ありがとう、おばあちゃん。

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