第2話

 道はゆるく曲がりながら、少しづつ山を登るようにしてずっと続いている。道から少しでも外れると好き勝手に伸びた木々が視界を遮っているが、不思議なほど足元は整っていて歩きやすい。空は頭上高くで交差した枝に覆われていて、夏だというのに日差しは弱く、空気はどこかひんやりした感じすらした。


 山に入り込んだときに目にした赤い影はもう見えない。はじめこそ走っていたけれど、じきに二人とも足を緩め、乱れた息を整えるようにしながら歩いている。

 同じようでどこか違う様々な緑の群れが延々続くかと思うと、鮮やかな花の色彩が遠く近くでふっと目を惹く景色に、一体どれだけ進んだのか、しだいに曖昧になっていく気がした。


 あの女の子はどこまで行ったのだろう、このまま追いかけて大丈夫だろうかという不安と疲れで、しばらく前から段々と足が重くなってきている。

 言葉少なくとぼとぼと進んでいると、正面にひときわ見事に花の咲いた木が見えた。

 背丈の倍以上はありそうな高さの木が道を塞ぐように立ち、枝々の先で満開の白い重たげな花が垂れている。

「え……行き止まり?」

 戸惑いと少しだけの安堵を感じながら近づいていくと、行き止まりではなく、その木を回り込むように道が左右に分かれているのだった。


 分岐する道が見えてからも、どちらも言葉を発さないまま花に触れられる距離まで歩み寄る。

「なんかこの花、舞で使う鈴みたいだね」

 横に並んで桜が言った。

 大きな花かと思ったけれど、近くから見れば、枝先がさらに細かく別れて、それぞれが小さな花が集まる房になっていた。

 舞で使う鈴も、持ち手の先でたくさんの小ぶりの鈴が段になっているから、確かにそんな感じがする。


 桜は手前の枝の花のつけ根あたりをつまんで持ち上げ、鈴を振るようにしながら言う。

「舞のときも、ミオちゃんはかっこよかったなぁ」

 別のことを考えているような口調だとしても、桜に褒められるのが私にはいたたまれなくて、反射的に否定したくなってしまう。

「私、ずいぶん偉そうにしてたよね」

 視線は花へと向けたまま、やはり上の空の様子の応えが返ってくる。

「そんなことないよぉ。すっごい上手かったもん、私にもいろいろ教えてくれたし」

 無意味な回り道の間を埋めるように、遠ざけていた思い出が浮かんだ。


 ここの神社の稚児舞は、氏子の家の中から小学校に通う年頃の女の子に声がかかる。引き受けると小学生のうちは舞手を続けることになり、その間は継続してお稽古にも通う。


 桜の家もそうだが、私の家も昔からの氏子だ。私の場合は、舞手の経験者である父方の祖母に、良い思い出だったからと熱心に勧められて引き受けることになった。

 母親に小学校に上がる前からバレエ教室に通わされていたおかげか、私は振りを覚えるのも、舞のコツを掴むのも他の子よりも早かったので、桜がそんな私をキラキラした目で見るのが心地よく、ことさら偉そうにしていたように思う。

 私の踊りを褒める桜に、バレエではもっと難しいことしてるからねと言っては、よくポーズをとって見せていた。


 はじめは私よりも小さかった桜の背がしだいに並んで、ついには追い越されてもそれは変わらなかった。

 手足も長くすらりと伸びた桜の前で、私の短く見栄えしないそれをふりかざしていた記憶がよみがえって、思わず眉間にしわが寄ってしまう。


「学校ではさ、ミオちゃんいつも人気者だったからあんまり話せなかったけど、お稽古のときは一緒にいれるから嬉しかったんだ」

 渋い顔になっている私に気づかず続けられる言葉に顔が熱くなってくる。

「もういいってば……。それよりさ」

 忘れたい記憶だというのに、そのときの気分がまだ残ってしまっているのだろうか。未だに桜にはかっこ悪いところは見られたくないと、つい思ってしまう。

「あの子、どっち行ったかわかんないでしょ。この先も道が分かれてるかもだし、もう戻ったほうがいいよ」

 小さな子を山の中に残していってしまうことに、桜はまだ少し迷う素振りをしていたが、やがて踏ん切りがついたようだった。

 二人でまた歩き出してすぐ、後ろの桜がぽつりと言った。

「ごめんね、言わせちゃって」

 私は何も返すことができず、無視するみたいに歩き続けた。


 その後は、戻ったらどうするか、誰になら声を掛けられそうかということを話しながらしばらく歩いた。

 境内にいてくれそうな大人で私たちが具体的に思い浮かべられるのは稚児舞の関係者ばかりなので、話の中で自然と思い出を確認しあうような会話が続いた。

 あの頃のことを目的をもって思い出していくのは、なんだか不思議な感じがした。




 思い当たる大人があらかた出尽くしたころ、ふいに、おーい、という声が聞こえた。

 木々に反響しているためか、聞き覚えのあるような、ないような、妙にぼんやりした感じの声で、道の先というより漠然と前の方としか言いようのない方向から、おーい、おーい、と誰かが呼びかけてくる。

 その声は少なくとも子供ではなさそうで、勇んで駆けだしてもよかったのに、なぜだか感じる落ち着かなさに、足を前に出すことに抵抗を覚えてしまう。

 それは桜も同じなのか、二人してそろそろと声の方に進んでいった。


 がさがさっという音がして、びくりと肩を跳ねさせて立ち止まる。少し先、湾曲している道の続きがよく見えなくなるあたりだった気がする。

 肩越しに桜がすぐ後ろに立つ気配がした。

 やがて、こちらに向かって歩いてくる人間の姿が視界に入りはじめる。この人が先ほどからの声や物音をたてていたのだろうか。


 笑顔を浮かべてこちらに近づいてくるその顔が、知っている人物であることに気づいて、ほっとした。

 西里のおばさんだ。


 二人して西里さんの元へ駆け寄って、口々に状況を説明しようとする。

「あのっ、私たち、稚児舞の衣装きた女の子が山に入っていっちゃったから、追いかけてきたんです!」

「結局見失っちゃって、戻って誰か大人に伝えようって」

 それを聞いてもニコニコした顔のまま、西里さんは先ほど会ったときとは別人のように動じない様子で口を開いた。

「そおなの? それは、大変だったねえ」

 そのまま淀みのない口調で続ける。

「それよりあなたたち、舞を捧げてないでしょう」


 一瞬何を言われているかわからなかった。こちらがあっけにとられているのを気にする素振りも見せず、西里さんは手を頬にあてて、困った子供を見る顔で諭すように続ける。

「だめよ、そんなの。選ばれた人はちゃんと捧げなきゃ」


 舞と言われて思い浮かぶのは稚児舞しかないが、唐突すぎて推測に自信が持てない。

「あの……稚児舞のことですか?」

 当たり前のようにそうよ、と返されて、かっとなってしまった。

「今はそんな場合じゃなくないですか!?」

「そうですよ! 早く、あの子を探してあげないと!」

 桜も反論に加わるのを見て、西里さんはわざとらしいほど長い溜息をつく。


「いい? 舞を捧げるということはね、この地の災いを」

 舞手を引き受けた時に聞いたような話をし始めた相手がもどかしく、また強い声が出そうになったときだった。

 西里さんの背後、今度はさっきよりもずっと近く、いくつもの場所で、がさがさっ、がさがさっという音がしはじめる。


 とっさに音のほうに目をやって、ひっ、という声が漏れた。

 道の左右の藪が揺れている。中から何かが出てこようとしている。

「お慰めするかわりに豊かな実りを願う神聖な」

 藪をかき分けるようにして複数の人間がぬっと出てきた。変に軽い足取りで西里さんの後ろに集まってこちらを向いて立つ。

 それらのどの顔にも見覚えがあった。


 桜がその中の一人の名前を嫌そうにつぶやく声が聞こえた。狭い道にぎっちりかたまった人々の先頭あたりで、ニヤニヤしながらこちらを見ているオジさんの名前。

 稽古場にたまに顔を出しては様子を見がてら世間話などをしていくのだが、急に背が伸び出した桜を見て、一人だけデカい子がいると見栄えが悪くなるといったようなことを、今のようにニヤニヤしながら言いわれたことを覚えているのかもしれない。正直、私にもいい印象はない。


「ということなのよ、だから舞はちゃんと捧げないといけないの」

 背後を気にした様子もなく、稚児舞の意義をひととおり語り終えた西里さんが口を閉じるとすかさず、そのオジさんが話し出した。


「だめだなぁ、大人を困らせちゃあ」

 ねっとりした声音の、からかうような口調で言う。

「君たちが困らないように、こっちはちゃあんと用意しているんだよ」

 その言葉に合わせるように、オジさんの後ろにいた人達が、狭い道を互いの肩をこするようにして前に詰めてきた。

 見せつけるように笛や太鼓を胸に抱えたその人々の顔を見て思い出す。

 あの日、葬儀場で、私を踊らせるかどうか話していた人達だ。




 お通夜だったか、お葬式だったか、もう忘れてしまったけれど、年が明けてすぐの寒い時期だった。

 棺の前で、参列してくれた人に家族と並んで私も頭を下げていた。


 そのうち、トイレか何かで席を外させてもらったとき、聞こえてきた会話が私のことを話していて、思わず聞き耳をたてた。

 葬儀場の周りでは、お焼香を済ませた人たちがそこここに立ち止まって何やら話していたが、その声はどうも喫煙所の中からのようだ。

 さっきも聞いた声が、普段の調子のままに話していた。


「稚児舞、どうすんだ。ここの子、出すのか」

「あー、どうでしょうね」

「喪中の者を出したらまずいんじゃないの」

「まぁ、それはあるか。ある意味、供養になる気もするが」

「今までこういうことなかったの。どうしてたの、こういう場合」

 みんな舞の稽古のときに顔をあわせた人だ。そんな人達に、どうでもいい人みたいに話されていることに驚いた。

「うーん、俺は知らないなあ」

「そのうち、ここの家のほうから言ってくるんじゃないの、遠慮させてくださいってさ」

「いいんですかね、それ。舞子の頭数的に」

「なんとでもなるだろう、そんなの」

「まあ、最後は神社側の判断じゃないか、こういうのは」

 俯いた視線の先、靴の中の指にひとりでに力がこもった。

 勝手なこと言いやがって、と思う。こんなこと言われるぐらいならやめてやる、という気持ちと、意地でも踊ってやる、という気持ちが同時に渦巻いた。


 結局、大人達から何か言われるまでもなくお祭り自体が感染症の流行で中止になり、踊るか踊らないか、私の中で決着がつくことはなかったのだった。




 あの日の記憶がよみがえって、思わず地面をぎゅっと踏みしめる。むくむくと反発心が湧いてくる。

 口を開きかけたとき、それまで後ろにいた桜が前に出て、私をかばうような位置に立った。


「私たちはもう舞手じゃないです。だから、踊るかどうかは自分たちで決めます」

 きっぱりと告げる桜の、凛とした声があたりに響く。今、桜がどんな表情をしているか、見えないのに分かる気がする。


 一瞬の静寂を無視するように、抑揚のない言葉が返ってきた。

「大人にここまでさせたんだから、踊らなきゃねえ」

「そうよ、捧げないなんてダメ」

 私たちを見つめる顔からは笑いも困惑も消えている。ただ事実を確認するような口ぶりで言うと、こちらに向かって、ずっ、と体を寄せた。

 西里さんもオジさん達も、無表情のまま、ずっずっと寄ってくる。まるで私たちが屈するのを待つようにゆっくりと、ひとかたまりになって迫ってくる。


 私の足が勝手に後ずさるのと、手が桜の腕を掴むのが同時だった。腰が引けて後退してしまう勢いにまかせて、掴んだ手を後ろに強く引く。

 体を入れ替えるようにして桜の背を押し出す。

「逃げよう!」

 こちらを振り返ろうとした桜の怯えた横顔は、走りだそうとしている私の様子をみとめて、またすぐに前を向いた。

 駆け出す二人の背に、おいっ!おーいっ!という怒りを帯びた声が飛んでくる。


「なんなのあの人たち! きっっショっ!」

 しばらく走って、多少距離が開いて余裕が出たのか、桜が吐き出すように叫ぶ。

「いいから走って!」

 おーい、という声はまだ続いている。すぐにも追いつかれそうな程近くはないが、なんだか一定の距離でついてきているようで気味が悪い。

 とはいえ、もう私もあまり長くは走っていられそうにない。足の長い桜に離されないように必死で、すでに体力が切れかけだ。


 そう考えているあいだにも、桜の背が徐々に遠くなっていって焦りがつのる。

 緩いカーブがずっと続いているから、あまり離されると桜を見失ってしまう。みっともないけど、少し待ってもらうように声をかけるしかない。そう決めて、苦しい息を吸ってお腹に力を入れた。

 おいっ!という真横からの叫びに、足がもつれる。

 カーブの内側の藪から急に叫ばれて、外側に弾かれるようにバランスを崩す。叫び声を発したものが藪から出ようとしている姿を視界の端にかすめながら、私は藪に倒れ込んだ。


 走っていた勢いで体が回り、肩甲骨のあたりから地面にぶつかる。数回転してそのまま斜面を滑り落ちていく。

 私の勢いが強かったのか斜面のせいなのか、けっこうな距離を滑ってやっと速度が落ちる。足を柔らかい地面に埋めるようにしてなんとか止まり、寝た姿勢のまま滑ってきた上のほうを見上げた。

 

 木にぶつからなかったのが不思議なくらいの距離を、私が下草をなぎ倒した跡が続いている。

 その先、私が飛び込んでできたのだろう藪の切れ目に複数人が立っているのが見える。

 切れ目を囲むようにじっと立つ人影の、腰より上は枝葉に遮られている。こちらのことも見えていないのか。


 桜の制服姿の足が見えないかと探す私の喉から、荒い呼吸が絶え間なくもれる。土臭いにおいが口から流れ込む。それらしい姿は見当たらない。

 気づいた桜が引き返してきたりするだろうか。もしそうなら私を呼ぶ声がするはずだ。


 これからどうしようか。そう考えてまず下方を見た時点で、すでに私の心は決まっていたのだろう。

 どうやらもう少し下ったあたりに、わずかに開けた道らしき空間があるようだ。桜の声は聞こえない。あそこをしばらく進んで、あいつらを迂回してから元の道に戻れないかやってみよう。

 先ほど感じた不気味さと怒りに背を押されて、私は斜面を下っていった。

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