#2 魔女のフルネーム

「ソナタがそこまで言うのならよかろう。妾のすべてを見てもらうのだ」


 魔女は悔し涙を流しながら言い放った。

 直後、その宝石のような瞳から止めどなく滂沱の涙が溢れ出した。気づけば、アトリエ内は透明な涙に充ち満ちていき、キャンバス、鉛筆、絵の具、その他の画材は漂流する。


 ゴボボッ!


 と、アッシュは空気を肺から吐き出して泡を食う。

 息が続かない。

 いったい何百リットルの涙だろう。

 柔らかな陽射しが水を通して室内を乱反射していた。


「?」


 そんな茫洋たる空間で、驚くことに魔女の顔面が溶けていくではないか。

 存在が消えて混ざり合い、世界と一体になる。

 摩訶不思議。

 透明な世界だった。

 その美しい光景をずっと見ていたかったが、カエルじゃあるまいしアッシュは肺活量に自信は持てなかった。オタマジャクシのように泳いでアトリエの扉に手をかけてから、力一杯に開放する。


 ザッバーン!


 と、せきを切った大量の水と画材たちは一斉に庭園に流れる。

 そんななか、アッシュは扉の枠に掴まり必死にこらえた。


「ガカッ! ゴッホ!」


 アトリエから水がはけてやっと呼吸が可能になったが、アッシュは魔女の涙をだいぶ飲んでしまったようで床をのたうち回る。

 透明な涙は悲しい味がした。


「マジで死ぬかと思った」


 アッシュはアトリエ内を見回す。

 大洪水を引き起こした張本人を必死に捜すが……。

 見つかったのは、しおれた暗紫色のローブ、鍔広とんがり帽子、つま先が青色の上履き、それから魔女のトレードマークでもある真っ赤なランドセルのみだった。

 庭に流されたのかとアッシュはそちらにも視線を流したが、広くなった池では錦鯉が元気に跳ね回っているだけである。

 肝心の魔女本体はどこにも見当たらない。

 部屋は無人の殺風景である。

 アッシュはおそるおそる尋ねてみた。


「魔女、どこにいった?」


 すると、アッシュの問いの答えは思わぬところから返ってくる。


「妾はここにおる」


 なんと驚くことに魔女の声はアッシュの目の前から聞こえた。


「やはり、ヴァンパイアのソナタでもさすがに見えんか……」


 聞き馴染みする透明感のある声がアッシュの耳朶じだに響く。


「魔女……なのか? ど、どこだ……どこにいる?」


 アッシュがいくら首をひねっても魔女の姿はどこにも見当たらない。

 抜け殻のような暗紫色あんししょくのローブが落ちているだけである。


「本当の妾はソナタには見えぬよ」


 魔女がどんな顔色を浮かべているのか。

 アッシュには見当もつかなかった。


「これが妾の秘密なのだ」

「どういうことだ?」

「妾には色がない。無色透明の血肉が魔女の正体なのだよ」


 魔女の声には自嘲的な色が感じられる。


「妾はこの世の誰にも視認されん」


 アッシュは困惑すると同時に思い出していた。

 魔女の入浴中をのぞいたときのことを。


 ――湯気だけしか見えなかった謎が今解けた。


「と、ということは今……魔女は全裸なのか!?」


 アッシュは脱ぎ捨てられた暗紫色のローブやらを凝視する。


「……言うておくが、妾の下着はソナタには絶対に見つけられんぞ」

「なぜだ?」

「3次元より遙か彼方の次元を彷徨っておる。妾のパンツは次元を超越したのだ」

「な、なんてことをしてくれたんだ……」


 アッシュは膝から崩れ落ちる。

 そして、改めて懺悔した。


「安心してくれ……。僕は本当に何も見ていないから」


 見たいものしか見ようとしなかった。

 大切なものは何も見えていなかった。

 探偵の助手失格だった。

 魔女は自身の素性を知られたくなかったのだ。

 だからこそ双子のトリックを暴けなかった。

 そこにはある種の自己欺瞞も介在していたのかもしれない。

 考えてみれば、パイプの代わりにシャボン玉を吹いていたのも全身から漂う絵の具の匂いを誤魔化すためだったのだろう。


「まったく、妾が一世一代の秘密を告白したというのにソナタは緊張感に欠けるのだよ。もっと他に聞くべきことがあるのではないのかね?」

「そうだった」


 気を取り直して。


「どうして魔女はそんな姿に……。まさか前に語っていた呪いの魔法とやらか?」

「残念ながらそれとは無関係なのだ」


 魔女は自分について説明する。


「生まれながらにして虚構。曖昧模糊あいまいもことして受肉じゅにくする存在。それが魔法使いなのだ。であるからして魔法学校では美術は必修科目であり、魔法使いは生まれたときから世を忍ぶ仮の姿を描き飾る。自分を世界に写す――『絵』という魔法でな」


『絵』という魔法を使わなければこの世に存在できない。

 それが、魔法使い。

 お絵描きの魔女の実体であり正体。


「したがって、魔法使いは生粋の画家でありその数は星の数ほどにも昇るのだ。そんな中でも無論、妾が最高の絵描きだが」


 魔女はそう嘯いた。

 透明人間。

 どこで聞いたのかもわからないそんな言葉をアッシュは思い出していた。

 生まれながらに存在がグレーで鏡に映らないどころか現実にも映らない。

 誰にも見てもらえず気づいてもらえない。

 それは想像を絶するほどの孤独だ。


「これほどまで妾が絵画に血道ちみちを上げるのも頷けるであろう。隣の芝生は青く見えるものなのだ」


 いわゆる劣等感なのだよ。

 と、魔女は失笑を漏らす。


「さしずめ妾自身が絵だったという滑稽な話なのだ。ソナタは『お絵描きの魔女』というお絵描きラクガキと会話しておったに過ぎん」

「……そんな、わけ」


 あまりの咄嗟のことにアッシュは最後まで言葉を発せなかった。

 魔法でもあるまいに絵と話せるわけがないじゃないか。

 そんな混乱するアッシュを尻目に、魔女は優しく続ける。


「変態神父を笑えん。妾のほうがよっぽど道化なのだ」


 見えないからといって、そこには何も存在しないのか?

 絵だからといって、心を通わせることはできないのか?


「妾こそが本物の幽霊ファントムだったのだ」


 何が本物で、何が偽物なのか。

 何色が綺麗で、何色が醜いなのか。

 真贋を見分けることなど、神でなし、人でなし、鬼である者に、果たしてできるのか。

 アッシュはわからない。

 それでも、ただひとつだけわかることがある。

 それはどんなふうに見えようが見えなかろうが、僕たちはここにいるってことだ。

 考えて話をして息をして生きている。


「魔女はここにいる。僕が保証しよう」


 アッシュがそう言うと、見えない気配が小揺るぎしたように感じた。

 ひょっとすればこれは錯覚なのかもしれない。

 否、そんなことはない。

 これまでのことがすべて嘘だなんて、それこそ全部嘘だろう。


「僕たちは色に囚われない絵だ」


 たとえ血肉が灰に成り果てようとも白紙に戻ることはない。

 世界という名の絵画は未来永劫つながっていく。


「たとえ魔女が僕の目の前からいなくなったとしても、きっと見つけてみせる」

「ぷっぷっぷっぷ」


 生き生きとした魔女の笑い声がアッシュには鮮明に聞こえる。

 そこでふと、魔女に訊きたいことがあったのをアッシュは思い出す。


「変なことを訊くようだけど……。魔女は僕に何か変な魔法でもかけたか?」

「むぅ? かけた覚えはないが……」

「そうか。ならいいんだ」

「どうしてソナタはそんなふうに思ったのだ?」

「それは……だって」


 アッシュは言いづらそうに告白する。


「僕は魔女のことを考えると心臓を筆で撫でられたようにくすぐったいんだ」


 一瞬、沈黙が生じる。

 アッシュには魔女の表情は見えないので黙られると心底不安になる。


「ぷぷっ、ぷぷぷっ、ぷっぷっぷっぷはっ!」


 突如、大爆笑した魔女。

 怪奇現象じみている。


「あー可笑しい」

「魔女、なにがそんなにおかしいんだ?」

「ぷぷぷっ。ソナタ、それは魔法でも何でもないのだよ」

「何だって? じゃあ魔女、これはいったい何なんだ?」


 アッシュの切実な疑問に魔女はあっけらかんと答える。


「さあ? それはソナタが自分で解かねばならん謎なのだ」

「なんだそれ」

「どんな名探偵が一生かけても解けん謎かもしれんがね」

「……そんな」


 アッシュの表情は絶望に染まる。

 魔女でも解けない謎が、僕の体に出題されているというのか。


「妾にアドバイスできるとすれば、その気持ちを消そう消そうなどとは思わぬことだ」

「どうしてだ?」

「消そう消そうと思えば想うほどに、その気持ちは色濃くソナタの心を染め上げるであろうからな」

「……嫌な予言だ」

「どんな謎も、けして色褪せんのだよ。ぷっぷっぷっぷ」

「さっきから、魔女……なんか笑いすぎやしないか?」

「そんなことはないのだ。ぷぷぷっ」

「まあ命に別状がないのなら僕はいいけど……」


 ヴァンパイアらしからぬ心配をするアッシュ。

 魔女の奇怪な笑い方にも、心地よさを覚えている今日この頃。

 アッシュは朗らかに思っていると、今更ながらに訊きたいことが続く。


「僕に、魔女の本当の名前を教えてくれないか?」

「どうしたのだ。ソナタ、今日はやけに積極的なのだよ」


 なぜそう願ってしまうのか。

 アッシュは自分でもわからなかった。

 でも、魔女のことを知りたいと思うんだ。


「にしても、妾のフルネームか…………………………………………………………長いぞ?」

「その前の沈黙が長い」


 せめて…………くらいにしてくれ。

 アッシュは細かい注文を付けてから催促する。


「僕は魔女のためなら時間をいとわない。さあ聞こう」

「でもなぁ、妾も正確に言えるかわからんのだよ……正直なところ」

「ヴァンパイアの一生のお願いだ。教えてくれ」

「重っ!」

「そうか?」

「余計に言いづらいわ!」


 しかしアッシュに真摯な瞳を向けられて魔女は観念した。

 訥々とつとつと思い出しながら、本当に長いフルネームを息継ぎを挟みつつ透明感のある声で、歌い上げるように名乗る。


「……本当に長いんだな。日が暮れるかと思った」

「うむ。これが妾の本当の名前のはずなのだ……たぶん」

「しかも間違っているかもしれないのかよ……」

「ぷぷっ。だから時間の無駄なのだよ。どうせ一度聞いただけでは憶えられんだろう」


 魔女が諦観交じりに言った。

 するとアッシュは思いがけぬ反応を寄越した。


「いや、僕は記憶した」


 またもや2人の間にしばしの沈黙が生まれる。


「そうか。ではソナタが本当に妾のフルネームを憶えたのかどうかテストしてやるのだ」


 魔女の試すような声色に、アッシュは「望むところだ」と気炎を上げる。


「なあ魔女、僕がもし正解したら」

「したら?」

「今度こそ僕と握手してくれ」


 アッシュは言った。


「よかろう。ではそこの椅子に座ってソナタは目を瞑りたまえ」


 なぜ着座して目を瞑る必要があるのかと疑問には思ったが、アッシュは素直に従う。

 魔女の涙が沁み入り、色の濃くなった木の椅子を立て直して言われたとおりに着席する。

 目蓋を閉じると、色は消え、暗くなる。


「魔女、これで準備は整ったのか?」

「なのだよ」


 魔女は答えてから、


「じゃーじゃん」


 と、アッシュに出題した。


「ソナタに問おう。妾のフルネームは何なのだ?」

「はい」


 アッシュは手を上げて詠唱魔法のように長いフルネームを一字一句違わずに唱える。

 唱え終わると若干息切れしてしまうほどだった。

 それでも魔女は最後まで静謐せいひつに聞いていた。


「どうだ、魔女。これで合ってるか?」

「ピンポーン、ピンポーン! 大正解なのだ」


 魔女の透き通る声音を聞きながらアッシュは目蓋の裏の血管を眺める。


「正解したソナタにはご褒美をやるのだ」


 そんな魔女の陶然とうぜんとした声が聞こえた瞬間――


「ちゅっ」


 と、包帯越しのアッシュの唇にこの世のものとは思えないほど柔らかな感触が伝わった。

 今まで味わったこともない口溶け。

 どんな血液なんかよりも濃厚な味わいだった。

 唇からその感触が失われると、アッシュは目蓋をゆっくりと開ける。

 そこには、やはり誰もいなかった。


「魔女、いったい今、僕に何をした?」

「ぷっぷっぷっぷ」


 透明感ある魔女の美声は、アッシュの耳朶じだをカラフルに震わせる。


「ソナタの想像に任せるのだよ」


 そう言って、つかみどころのない魔女は笑った。





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