#7 黄色い悪魔の囁き

 アッシュはステンドグラスの輝く礼拝堂に這入る。

 コスモナウトは礼拝堂の最後方の2階にある鍵盤を優雅に弾き、パイプオルガンを演奏していた。

 荘厳な音色にアッシュが気持ちよく聞き入っていると、不意にパイプオルガンの音階が止まる。


「おっぱいピンク! 妾にも弾かせるのだ!」


 礼拝堂内にそんな透明感のある声が響く。

 魔女は2階への階段を苦労して昇り、コスモナウトに打診しにいったようである。

 会衆席に姿が見えないとは思っていたが……。


「そんな変な名前の人はこの教会にはいません」


 コスモナウトは、

 じゃじゃじゃじゃーん! 

 と、運命に逆らうがごとくパイプオルガンを鳴らした。

 合計1万本は連なる金属パイプが空気を激しく震動させる。


「うるさいうるさいうるさい! 弾きたい弾きたい弾きたい!」


 魔女は地べたを溺死寸前のカエルのように泳ぐ。

 こういうときの魔女は子供っぽいよなぁ。

 すったもんだの果てにコスモナウトは魔女の駄々っ子攻撃に屈する。

 かぶりを振ったのち、すくりと立ち上がり後進の魔女に席を譲った。


「最初からそうしておればよいのだ」


 魔女は澄まし顔で汚れたローブを翻す。

 それから何事もなかったかのようにちょこんと席に着く。


「そもそも妾が貴様に弾き方を教えてやったというのに……不実なおっぱいピンクなのだ」

「何かおっしゃいました?」


 コスモナウトの問いかけを無視して4段あるモノクロの鍵盤に小さな手が添えられる。

 そして奏でられたのは色なき世界だった。

 息も吐けないくらい苦しく重々しい音色。

 壮麗に流れゆく時間を体現したような音色は1音1音が時間と空間を支配する。グランドピアノとは桁が違う足鍵盤の上を水たまりを見つけた子供のように魔女の小さなステップが軽やかに跳ねる。

 戦慄による調べ。

 まるで教会それ自体が巨大な楽器に化けた。


 魔女は最後の1音まで弾き終わるとコスモナウトを始めとして自然と拍手喝采が巻き起こる。

 アッシュは心洗われた気分に浸って賛辞の拍手を送った。

 すると、珍しく神妙な面持ちのアフローがアッシュの耳元に近寄ってくる。

 だいぶ近距離だしニンニク臭い。


「包帯の旦那。一世一代の相談なんだぜ」

「にゃんだ?」


 アッシュは鼻を摘まみながら、アフローに問い返した。


「衝撃的事実。まだコスモちゃんがシャワーを浴びてねえんだぜ」


 あれだけの演奏を聴いたあとにこいつはなに言ってんだ?

 アッシュは怒りが湧く。

 この教会には異教徒の悪魔がひとり紛れ込んでいたのか。


「アフロー……だから、なんなんだ?」

「コスモちゃんがシャワーを浴びてる隙に通りすがろうぜ」

「それはいわゆるノゾキじゃないか?」

「違うぜ。あくまで通りすがりだぜ」

「通りすがり……?」

「そうだぜ」

「とおり……」

「すがりだぜ」


 黄色い悪魔の囁きに耳を傾けたアッシュは一瞬で籠絡ろうらくした。


「よし、通りすがろう」


 どうやら僕も悪魔だったようだ。

 いや悪魔というよりは鬼だけど。

 先ほどの清廉潔白な気持ちは綺麗さっぱり雲散霧消していた。

 そんな僕たちの横から小さなふたつの影が忍び寄る。

 

「おれもよぉ」

「ぼくもさ」


 通りすがりたい。

 と、話を盗み聞きしていた無垢なる堕天使、チェリーとアイスは顔を寄せてきた。


「もち、いいんだぜ!」


 両手でサムズアップするアフローにアッシュは詳細を尋ねる。


「それでアフロー、どこから通りすがるつもりだ?」

「昼間のうちにチェリーとアイスに協力してもらって、通りすがりのベストポジションは確保してたんだぜ」


 アフローは気持ちのいい笑顔で起立した。

 サッカーをしていると見せかけてもうすでに手回しを終えていたのか。

 このイエロー、実は天才なのかもしれない。

 ともあれ。

 黄色い悪魔に案内されるままにひとりの鬼とふたりの堕天使は席を立った。

 そして出入り口まで歩いたところで。


「あれ? 包帯のお兄さんとアフロのお兄さん、それからチェリーとアイスはこれからどこかおでかけ?」


 ちょうど礼拝堂に戻ってきた風呂上がりのナースとタイツにばったり出くわす。


「ちょ、ちょっと……夜風に当たりながら男同士で語り合いたいんだぜぇ」

「そ、そうなんだよぉ」

「なかなかこういう機会もないからさ」


 強風に煽られた信号機のような黄・赤・青の眼球。


「ふーん。そうなんだぁ」


 ナースはブドウのような眼差しを向けてくる。

 ちなみにシスターというのはお風呂上がりでも頭に黒いベールと白いバンドを着用するものらしい。

 お風呂上がりに包帯を全身に巻くアッシュは勝手に親近感を抱いた。

 しかし今にも追求してきそうなナース。

 アッシュが言い訳を考えているとナースの隣のタイツはにへらっと笑いかける。


「お兄ちゃんたち行っていいの」

「タイツちゃん?」

「誰にでも言いにくいことはあるものなの。わたしだってそうなの。だからナースちゃんも追求しちゃダメなの」

「珍しいわね。タイツちゃんがここまで積極的に人を庇うなんて……。しかも今日会ったばかりの人を」


 ナースは含みのある笑みをアッシュに向けた。


「いいわ。4人とも見逃してあげる。とっとと行きな」

「こりゃ恩に着るんだぜ」


 アフローは礼を言いつつ、手刀で風を切る。

 チェリーとアイスもその仕草を真似た。

 アッシュも続いて風呂上がりシスターズを横切り、スタスタとアフローの背中を追いかける。


 一瞬だけ後ろを振り返ると――タイツと目が合った。


 それはアッシュにとっては一瞬の出来事だと認識できる。

 しかし彼女にとってみれば、それがどれだけの時間だったのか、おそらく一生わかることはないのだろう。

 この先も、ずっと。

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