第8話 あの日覚えた感動の名前を僕たちはまだ知らない。


 優しい手つきで背中をさすられる。


 猪熊部長に介抱されながら、弘海は息を落ち着けていた。


 トラウマは微塵も治っていない。身体は依然臆病なままだ。


 どうして自分はこんなに情けないのだろう。自分の気持ちすら満足に言葉にできず、知り合ったばかりの女の子に心配される。かっこ悪い自分に、とことん嫌気が差した。


 そうして落ち込んでいると、戸が開かれる音がした。


 弘海がのっそり顔を上げると、安藝先輩がノートパソコンを胸に抱いて居間に戻ってきた。テーブルのうえに置いて折り畳みを開くと「まいる」と名を呼ぶ。


「はい。わかりました」


 阿吽の呼吸でなにかを了承した猪熊部長は立ち上がってパソコンを起動する。淀みない指捌きでキーボードを打ち、画面を操作しDVDプレイヤーを取り出す。気づけば横には『オオ恋』のブルーレイ。どうやらこれから実際にアニメを見るようだ。


「なんで、部長が操作してるんですか?」


「朱鷺子ちゃんは機械に弱いんです。テレビのリモコンくらいならなんとか覚えられたんですけど、パソコンとかスマホとかは全然ダメで。だからアニメを見るときはいつも円盤なんです」


「えぇ…………」


 まさかそんな……、と弘海が見やると、安藝先輩はエレガントな手振りでさっと長い前髪をはらい「音痴よ」と言った。どうしてそこで優雅に微笑むんだろう。


「あれ……でもこの前イヤホンで曲聞いてたような」


「あれは音楽プレイヤーですね。曲もわたしが逐一設定しています」


「おんぶにだっこね」


 だから何故そんなに自信ありげなんだ。


 弘海が困惑するのも束の間、パソコンの画面でアニメが再生される。


「あの、先輩……音が入ってないんですけど」


「いいから見なさい」


 部員で小さなパソコンを囲む。猪熊部長がシークバーをいじり、ゆっくりとシーンを飛ばしていく。「小鳥遊くんはあのシーンをどんなシーンだと思った?」安藝先輩が訊いてきた。


「柊木の気持ちに藍原が根負けして、付き合うことになるシーン、ですよね」


「そうね。でもあなたはそれが切ないシーンに思えた」


「はい……やっとふたりが両想いになって、すごく祝福すべき光景なのに、なんか、無性に胸が締め付けられて……」


 まもなく映像がくだんの告白シーンに到達した。「見てみなさい」とうながされ、弘海は画面を覗き込む。


 ――丘のうえ、柊木がまっすぐに藍原へ気持ちを伝える。何度も見たからか脳内で台詞を再生させるのは容易だった。


 「あなたのそれは、おそらく勘違いです」藍原は頑固な態度だ。それでも柊木は拙いなりに真摯な気持ちを伝える。やがて藍原は諦めたように「わかりました」とため息をつき、「わたしもあなたのことは憎からず思っているつもりです」と不器用すぎる言い分で受け入れる。そしてふたりは両想いに……。


「……あれ? なんか…………普通……?」


 何故だろうか。


 あれほど強く感じたはずの切なさがどこにもなかった。


「な、なんで……、あんなにいいシーンだったのに」


 いや、今でもいいシーンには変わらないが、それ以上のものがどこにも……。


 動揺する弘海に、安藝先輩が微笑む。


「それはきっとこれのせいよ」


 先輩の目配せを受けた猪熊部長がこくりと頷き、パソコンの消音を解除する。そsて再び同じシーンを再生させた。


「あ……」


 すると、美しいピアノの音が聞こえてきた。


「BGM……」


「ええ。これは、あくまで予想でしかないけれど」


 安藝先輩は画面を見つめながら、


「満願が成就する祝福すべきシーンの背景に、あえてブルーな、切ない音楽をかけることで、より印象的なシーンに演出しているのではないかしら」


 弘海は胸のつかえが消えたような感覚をおぼえた。


「変わることは良いことだけれど、そのぶん不安も付きまとうものだから。そんななかで藍原ちゃんが今の自分から一歩踏み出そうとしている、そんな葛藤を、音楽とともに効果的に表現している。とっても素敵なシーンね」


「……よく、気づきますね。そんなの」


「いいと思ったものがどうして『いい』のか、ずっと考えているから。どうやらわたしは音楽が綺麗な作品が好きみたいなの。もしかしたら小鳥遊くんもそうなのではないかしら?」


「……」


(そっか……)


(おれは、そういう作品が好きなのか……)


 妙な感覚だった。


 単なる納得感とはまた違う。まるで早朝、起き抜けにベランダに出て日光を浴びたときのような、温かさに目が覚めていくような感覚が身体の内側に広がっていく。


「自分の『好き』を知り、それを広げる。……わたしたちアニメ研究会のスローガンです。これは先代の頃に決められたことで、今も受け継がれている考えです」


「『好き』を、広げる……」


「ええ。鋭い批評をするのもいいけれど、わたしたちは所詮ただの高校生だから。専門知識もなにも持っていない、ただの素人なの。でも『好き』を語ることならだれでもできるし、それをより深めることは、とても有意義よ」


「有意義、ですか?」


「はい。そうです。批評することよりも、『好き』を上手く伝えることのほうが、ずっと難しいことですから」


「ぁ……」


 好きを伝えることのほうが難しい。


 まさに現在進行形でそのことを痛感している弘海にとって、その言葉はなによりも胸に響いた。






「はる陽ちゃんはどうかしら? ずっと話していなかったけれど」


 弘海が惚けたような感覚に陥っているうちに、安藝先輩がもう一人の後輩に水を向けた。


 そうだ。ここにはもう一人部員がいたのだった。物言わぬ人形のようにずっと無言だったからつい忘れていた。


「あー、うん。いいと思う」


 質問を受けた茜谷さんは頬杖をつきながら、なんだろう、妙に気まずそうな表情で視線を逸らした。


「どのあたりが良かったのかしら? 良ければ聞かせてくれないかしら?」


「えぇ? まあ、それは……み、皆とおんなじところかなー。うん」


「茜谷さん、どうかしましたか?」


 なんだか様子がおかしい後輩を、猪熊部長が縁なし眼鏡の位置を直しながら心配そうに見やる。


「べ、べつに……?」


 だが茜谷さんは明後日の方向に視線を逸らすばかり。


 しかしこのままでは分が悪いと悟ったのか、やがて、パチン! と顔の前で両手を合わせると、茜谷さんは茶目っ気たっぷりに言うのだった。



「ごめん! つまんなくて一話切りしちゃった!」



 空気が、凍った。



「…………」


「…………」


「…………」


 数秒、三人が黙り込む。


(マジかこの女……!)


 てへっ、とまるで悪気もないばかりか、赤い舌でも出しそうな勢いであっけらかんと笑う同級生女子を前に、弘海はもうドン引きだった。


 「やー、メンゴメンゴ」と静まりかえる空気のなかで茜谷さんだけが照れくさそうにしている。メンタル鋼か。この女。


「おい、その言い方はちょっとどうなんだ……」


「えー、でもマジなんだもーん。ずっとキャラが喋ってるだけで何がおもしろいのか全然わかんないし、主人公の考えてること意味不明だしー」


「そ、それは、そうかもだけどさ」


「てかそもそもあんまし覚えてないんだよねー、途中で眠くなっちゃってさー。いや寝ちゃったんだっけな? つーかさー」


「わかった、わかったから」


(頼むからもう黙ってくれ……!)


 弘海は心のなかで悲鳴を上げる。


 さっきまでの和気藹々とした空気が台無しになり、ドバっと大量の冷や汗が流れるのが自分でもわかった。心臓の鼓動がドクドクとうるさい。


 最悪だ。もう先輩の顔も見れない……。


「あら? でははる陽ちゃんはどんなアニメが好きなのかしら? 知りたいわ」


「そうですね。わたしも知りたいです」


「……え?」


 弘海が顔を上げると——、


 そこには予想外なことに、さっきまでとなんら変わらず楽しそうな先輩ふたりの姿があった。


「えっ、あたしの好きなアニメの話⁉ 聞いてくれるの⁉」


「ええ。とても興味があるわ。聞かせてちょうだい」


「時間があるので、どうせならみんなで一話くらい視聴しましょうか。みなさんの都合がつけばの話ですが」


「うんうんうん!」


 安藝先輩も猪熊部長も。


 微塵も気分を害した様子はなく、どちらも表情も朗らかだ。


 しかも今しがたかなり失礼な発言をした茜谷さんが無邪気に喜ぶさまを、先輩たちはとても微笑ましそうに眺めている。


(えぇ…………?)


 弘海は開いた口を塞ぐことができなかった。






 一度冷静になるため、弘海はお手洗いに途中退席した。


 用を足すと再び参加するために廊下を戻る。


 するとその途中、みんながいる部屋の隣室で、なにか作業をしている安藝先輩を見かけた。よく見ると飲み物やお菓子を取り出してトレイに載せている。休憩中にもてなす準備をしているらしい。


「先輩……さっきはすみません」


 先輩は振り向き、「あら、なんのことかしら?」と首を傾げる。


「茜谷さんのことです。あんな、みなさんの空気を壊すような発言をするとは思わなくて……同級生のおれがすぐに止めるべきだったのかなって……」


「あら、そんなこと。わたしたちは全然気にしていないわよ」


 急須で沸かしたお茶を注ぎながら安藝先輩は微笑んだ。


「小鳥遊くんは、漫画を読むときとアニメを観るときの大きな違いって、なんだと思う?」


 またしても脈絡のない問いだ。先輩はよく突然な質問をする。


「ええと……」


 数秒考え、


「な、なんですかね……やっぱり絵が動くかどうか、とか?」


「そうね。それも大きいわ」


 安藝先輩は頷き、


「でも、娯楽として消費する場合、一番大きな点は『時間』ではないかとわたしは思うの」


「時間、ですか?」


「ええ。だってそうでしょう? 漫画は自分でページをめくるから、ある程度は自分のペースで見られるけれど、アニメにはアニメのペースしかない」


 先輩の言葉に弘海は頷く。


 その通り、アニメは映像作品であるからこそ、アニメ独自のテンポで進む。


「一話二十四分の作品なら、一クールでおよそ五時間くらい。他人から勧められただけの作品に費やす時間としては、いささか重たいボリュームだと思うわ。それをたったの一週間で見てこい、だなんて、なかなか酷な話でしょう?」


「そう、なんですかね?」


 安藝先輩は「ふふふ」と笑った。


「小鳥遊くんは例外みたいね。わたしたちと同じよ」


「……でもおれ、やっぱり茜谷さんの言い方は、ダメだと思います。先輩たちはこんなによくしてくれてるのに、その優しさを裏切るような、あんな言い方」


「大丈夫よ。きっといつか、わかってくれるわ」


 安藝先輩がしずしずと近づく。


 不意に――指先で摘まんでいたチョコレートを、弘海の口のなかに入れた。……ほのかに甘い。抹茶味だ。


「楽しく語り合うには、まず仲良くなる必要があるわ。だからこそわたしたち先輩が先に歩み寄るの。安心してちょうだい。うちでは楽しむことが最優先だから」


 安藝先輩の微笑みはまるで慈母のようだった。


「あなたの『好き』を、わたしたちは否定しないわ」


「せ、先輩……」


 女神か。この人は。


 茜谷さんではないが、弘海には安藝先輩に後光が差しているように見えた。


「お、おれ、なんか……涙ちょちょぎれそうです」


「ちょちょ……なに?」


「う……う……!」


「ええと、小鳥遊くん。お願いだから泣くのは堪えてほしいわ。こんなところ、おばあ様に見られたらなんて言われるかわからないもの」


「はい……」


 ――その後。


 顔をくしゃくしゃにしながらも涙をなんとか堪えた弘海がリビングへ戻ると、茜谷さんと猪熊部長が仲良く肩を並ばせてアニメを観ている最中だった。そこへもてなしの準備を整えた安藝先輩が入ってくると、それからはアニメ談義をメインに据えたお茶会が始まった。


 そんなふうに、アニメ研究会初めの活動は終了するのだった。




 

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