第7話 アニメ研究会活動記録
『俺は、きっと君が好きだよ』
『あなたのそれは、おそらく勘違いです』
弘海の観ているテレビ画面には今現在、夕陽を背景に見つめ合う若い男女の姿が映し出されていた。
シンプルな色使いで描かれる漫画調の世界はもちろんアニメのワンシーンである。
街の全景が見渡せる丘のうえ、陽が沈みゆく茜色の世界のなかでヒロインが、背の高い男子に告白される。ヒロインの長い青髪を揺らす風がなんとも宿命的だ。しかし決意を胸に頬まで染めている男子とは対照的に、ヒロインの表情は冷めている。大きなふたつの瞳は空虚な色を宿していた。
「なんか、意外だな……」
弘海は呟く。
意外だったのはアニメの展開に関してではない。
このアニメ作品『オオカミくんに恋の首輪を』が、他でもない安藝先輩が『合評会』に選んだ作品だったからだ。
新参がふたりいるからと『合評会』の初回に安藝先輩が立候補してくれたときは、少しばかりドキドキした。なにせ弘海のなかで安藝先輩と言えば、綺麗で品があって優しくて、とにかくただ者ではない空気を持った人物だ。そんな人がどんな作品を選ぶのか、気になって仕方なくなるのも無理はないというもの。
しかし蓋を開ければまさか、甘々なラブコメ作品だった。
それも少女漫画原作だ。予想外がすぎる。やはり安藝先輩と言えどひとりの女子高生、こういうキュンな作品に憧れて頬を染めたりするのか。まったく想像がつかない。
試しにとSNSのレビューサイトを漁ったが、とくに絶賛されているわけでもなく、多くのサイトで『見ても見なくてもいい』と辛口な評価を下されている。その評価を見るたび弘海は胸が締めつけられたが、たしかに昔の作品ではあるし、技術の進んだ現代の肌感としてはそんなものなのかもしれない。
…………ただ。
『そんなことない。俺の気持ちは本物だ』
「…………いいな、これ」
このシーンは、なんかいい。
夕焼けに景色のいい場所、胃もたれするような甘い台詞、おあつらえ向きのありがちすぎるべたべたなシチュエーション。
しかし妙に心が切なくなる。どうしてだろうか。わからない。
弘海はその理由を探し求めるように、このシーンを何度も再生していた。
だが結局なにが良いのか、上手く言葉にはできなかった。
やがて弘海はため息とも桃色吐息ともつかぬ息を吐くと、小さなリモコンを操作し、作品の詳細情報を表示させる。
たった今視聴中の話のサブタイトルが画面に映し出された。
――『第四話。丘の上でキミと』
**
一週間はすぐに過ぎ、休日の土曜がやってきた。
午前からテニス部の練習で汗を流した弘海は一度電車で帰宅しシャワーを浴びると、適当な私服に着替えてすぐに家を発った。ふたたび駅で電車に乗り、一度降りて鉄道に乗り換えると、そこからはゆったりと時間が過ぎ、やがて安藝先輩から聞いていた名前の駅に降り立つ。
ホームを降りしばらく、田んぼの緑色を眺めながら畦道を歩くこと数分。
スマホの画面が午後三時半を表示する頃、やっと弘海は目的地に到着した。
「こ、ここが安藝先輩の……」
高い外塀がそのまま敷居の高さを物語る、そこは広いお屋敷だった。
門という文字をそのまま形にしたような屋根付きの門を見上げ、弘海はおもわず感嘆の息を漏らす。弘海が過ごす住宅街ではまずお目にかかれない代物だ。すごい。
表札には——『安藝』の文字。
間違いない。ここが先輩の住む家なのだ。
「やっぱすごいんだな、先輩って……」
弘海はしばらくその場で圧倒されていた。
「お待たせ。意外と早かったわね」
チャイムを鳴らすとほどなくして安藝先輩は現れた。涼し気な海色のトップスに真っ白なロングスカートを履いている。私服だ。清楚だ。弘海は密かに感動を覚えた。夏っぽい服装はシンプルだが、安藝先輩自身の存在感が大きいからか絶妙なバランスだ。美人はなんでも着こなすというのは事実らしい。
ふわりとウェーブがかった長い髪を揺らしながら優雅に庭を歩く先輩に導かれ、弘海は家の敷地へ足を踏み入れる。広い庭の空気感は妙に異世界じみていた。格式高そうな和風家屋はそれこそアニメなどでしか見たことがない。否応なく肩が強張ってくる。
「今回はこんなところまで足を運ばせてしまって、みんなには申し訳ないわね」
「仕方ないですよ。お互い様です」
当初の予定では弘海の部活終わりに部室で集まる予定だった。だが安藝先輩は夜から家の用事で忙しいらしく、おまけに翌日は弘海のテニス部の練習試合で集まれない。このままだと今週は諦めるしかない、と思っていた矢先、猪熊部長が「朱鷺子ちゃんの家に集まるのはどうですか?」と提案してくれたのである。
「やっぱりまいるは優秀だわ。まさかこんな形で後輩を我が家に招待できるだなんて」
安藝先輩の足取りはどこか弾んでいた。
「どうぞ入って」
ガラガラと入り口の戸を引き家に入っていく先輩に続き、弘海も「失礼します」と恐縮しながら玄関口でいそいそと靴を脱ぐ。すると「まあまあまあ」と奥から割烹着を身にまとった妙齢の女性が姿を現した。
「お、おばあ様……」
(ん?)
気のせいか、今、先輩の声が震えたような。
「どうして。顔は出さないでいいと言っておいたはずでしょう」
「まあまあ何をおっしゃいますやら朱鷺子さん。安藝家にお客様をご招待するというのに、ご挨拶もなしでお出迎えするなど無礼ではありませんかまあまあまあ」
にこやかに確信犯的な笑みを浮かべてみせるご老人に、先輩は微笑みながら不自然に瞬きを繰りかえしていた。すごい。先輩が押されている。
「お、お邪魔します。後輩の小鳥遊といいます」
「まあまあご丁寧に。祖母の
「おばあ様、小鳥遊くんは」
「この娘は男っ気がないどころか友達も禄に連れてこないので、わたくしずっと心配に思っていましたの。これは本当に快挙ですねえまあまあ。仲良くしてやってくださいねえまあ」
「お願いだからもうその辺にして」
無言の圧力と物理的な腕力によって強制的に昭子さんは奥へと追いやられていった。
まあまあまあ……となおも遠くで声は聞こえたけど、次に安藝先輩が戻ってきたときにはもうその姿はなかった。本音を言うともう少し狼狽する先輩を見ていたかったが、「今のは忘れなさい」と今までで一番凄みのある微笑みを向けられたので弘海は即刻忘れることにした。
残りのふたりもその後すぐに到着し、午後四時が過ぎた頃、アニ研は全員集合となった。
連れられたリビングは思いのほか生活感が見えて弘海はなんとなく安堵した。縁側から入ってくる風も心地よく、冷房も入れていないのに涼しくて過ごしやすい場所だった。
「それでは『合評会』を始めようと思います」
テーブルに四人が着くや仕切り出すのは猪熊部長だ。先程まで学校にいたのか、いつもの制服姿である。
ごくり、と弘海が知らず唾を飲み込んだのは、ついにアニ研最初の活動が始まることへの緊張ゆえだった。
派手な原宿系ファッションに身を包む茜谷さんは対照的に頬杖をつきながら眠そうにあくびをかみ殺しているが。
「みんなそれぞれ視聴してきたと思いますが、今回話すのは『オオカミくんに恋の首輪を』ですね。けっこう王道な恋愛作品でびっくりしました。わたしはあまりこういった作品は見ないので、すごくドキドキしちゃって」
「意外だったでしょう? わたしがこれを選ぶのは」
「はい。でも最後まで見ると、やっぱり朱鷺子ちゃんらしいなと」
安藝先輩らしい、とはどういう意味だろうか。
「まずは改めて内容をおさらいしておきましょう」
小首を傾げる弘海をよそに、部長の丁寧な説明が始まる。
――『オオカミくんに恋の首輪を』
通称『オオ恋』。
かつて月刊『ノールージュ』で連載されていた
「わたしが好きだと思ったのは、やっぱり主人公の
と猪熊部長。
「わたしも好きよ、藍原ちゃん。不器用なところは可愛いし、ちゃんと人と向き合おうとするのが好印象よね。猫みたい」
と、飼い猫のメルを撫でながら安藝先輩。
「わたしはあれもいいと思いましたね」
「たしかにいいわね。あれは」
「そうですよね」
「ええ、ええ」
先輩たちはふたりとも盛り上がっていてとても楽しそうである。
しかし、なんだろう、そのふたりの光景はどちらかと言うと、昼休みの雑談のような軽い雰囲気で……。
「あの……すみません。これって部活動なんですよね? なのにこんな和気あいあいとしてていいんですか? もっと鋭い分析したり、意見をぶつけ合ったりするべきじゃ」
弘海は至極真っ当なことを言ったつもりだったが、安藝先輩にはすぐに「いいえ。これでいいのよ」と言われた。
「や、でも……」
「わたしたちアニ研の『合評会』では、ひたすら好きなところを語り合うのが通例なんです。規則といってもいいかもしれません」
猪熊部長が言ったのは、弘海にとって予想外なことだった。
(好きなところを、語り合う……)
「でもそんなの、同好会とかと変わらないんじゃ」
「そんなことはないわ」
安藝先輩が優しく首を振る。『女優の微笑み』は今日も健在で、先輩はまっすぐこちらを見つめながら「小鳥遊くんは藍原ちゃんのこと、可愛いと思った?」と問うてきた。
「へ……?」
それはまるで脈絡もない問いかけで、弘海は固まるしかない。
「頷くか、首を振るかでいいですよ」
部長がフォローしてくれる。弘海はぎこちなく頷く。
「それは、どうして?」
「え?」
「どうしてわたしたちは、彼女のことを可愛いと思うのかしら?」
(そんなこと、訊かれても)
弘海は返答に窮する。そんなことは考えたことすらなかった。
そもそも『可愛い』なんて感情に理屈なんてあるものなのか。可愛いと思ったから可愛い。大体そういうものじゃないか?
困惑する弘海をよそに安藝先輩は鞄から大きな箱を取り出す。
それはなんと『オオ恋』の円盤だった。パッケージには憮然とした表情の主人公が描かれている。
「本名、
「け、けっこう知的で、大人っぽかったです」
「そう。ついでに頑固な一匹狼。可愛い見た目とは裏腹にどこか達観したような女の子で、不愛想な猫みたいに滅多に笑わない。そこには大きなギャップがあるわ。そんな意外性や予想外な部分に、わたしたちはやられているのかもしれない」
「…………」
そうかもしれない。
「わたしは柊木くんと出会ってからの藍原ちゃんが好きです。無表情だったのがどんどん表情豊かになっていきますし、後半は顔を赤らめたりするようになって、可愛い変化が楽しくて」
そうだ。弘海も主人公が変わっていく様は楽しめた。
「もちろんキャラだけではないわ。作画も最高峰よ」
「最高峰、ですか……? でも昔のアニメは手書きっぽくてリアルじゃないって。やっぱり最近のアニメの滑らかな作画には勝てないって意見、けっこう見ましたけど……レビューで」
「そうですね。最近のアニメは本当に綺麗で、わたしも魅入ってしまいます」
「わたしも大好きよ。なによりアニメの進化を感じるもの…………でも、『オオ恋』には、これがベストだと思うの」
頭のなかで映像を蘇らせるように安藝先輩はまぶたを閉じた。
「手書き感の残る作画には、あたたかさが宿る気がするのよ。シンプルで、なのにとても繊細で、原作の絵のタッチや雰囲気を残したまま、その延長線上にあるような世界で、キャラクターたちが生き生きと動いているみたい。とっても素敵……」
「…………」
弘海は妙な感覚に包まれる。まるで先輩の言葉が胸のうちに染み込むかのよう。
たしかに、そうなのだ。弘海もあの作画以外で描かれる『オオ恋』は想像できない。
「とくにわたしが好きなシーンは、四話の告白シーンね」
——ドク。
心臓が跳ねた。
第四話『丘の上でキミと』
それは弘海が感動して何度も見返したシーンだ。
「わたしもそこは好きです。セリフはすごくキザでありがちなんですけど、なんだかすごく切なくて」
「……わ、わかります!」
ダン! と大きな音を立てて弘海は立ち上がった。
「あそこはおれも! なんか心が揺さぶられて、なんであんなにいいんだろうって……よくわからなくて……」
と、弘海はそのとき先輩ふたりの視線に気づいた。
ハッと我にかえる。
途端、急に胸が苦しく締め付けられた。弘海は反射的に口元を手で覆う。すぐに猪熊部長が後ろに回って背中をさすってくれた。
「大丈夫ですか?」
「あ、ありがとうございます。大丈夫です」
嘘だ。大丈夫じゃない。吐き気はなかったが、口のなかが気持ち悪くてしかたがない。
安藝先輩が悠然と立ち上がった。
「少し、待っていなさい」
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