第6話 とある少年の心的外傷(コンプレックス)


 自己紹介も済ませ、いよいよアニメ研究会の活動が始まる。


 文芸部の皮を被った得体の知れない部活。一体どんな活動を行うのか、弘海のなかでは緊張と期待が忙しなく行き交っていた。


「といっても、そんなに大袈裟なことはしません。研究会と名を打ってはいますが、とくに論文を発表するわけでもありませんし、もちろんアニメを作ったりするわけでもないです」


 猪熊部長が薄っすらと微笑む。


「え、じゃあ何すんの?」


「もちろん、アニメについて語るんです」


 先輩の口調は淀みなかった。


「評価する、と言い換えてもいいかもしれません。そっちのほうが研究会っぽいですし。とにかく、アニメを観て、それを評価する。と簡単に認識していてもらえれば今はいいですよ」


(評価する、か……)


 心のなかで先輩の言葉を反芻し、弘海は気が重くなった。


 なにせ自分は専門的な知識や見地は何も持ち合わせていないのだ。娯楽を消費するだけの何も知らない素人に、作品を評価することなんてできるのだろうか。


「一年生はまだ理解できないところも多いかと思います。なので百聞は一見にしかず、早速最初の活動を体験してもらおうと思います。……先生、お願いします」


「は~い」


 間延びした声で小野原先生は応じると用意してあったプリントを取り出し、一枚ずつ部員たちに手渡していく。


 もらったプリントを弘海が確認すると、一番上に書かれた『合評会』の二文字が目に飛び込んできた。


「がっぴょう……ですか」


 はい、と部長が首肯してくれる。


「うちでは毎年初めに必ずおこなっている活動で、形式はとても簡単です。プリントにあるタイトルの欄に、各自好きなアニメのタイトルを書きこんでください。その後一週間、各々家でそれを視聴し、再びこの部屋に集まって評価を語り合う、というものです」


 初めから本格的な活動のようだ。弘海はいっそう不安を覚える。


「ちょ、ちょっと待って‼」


 しかし、対照的に興奮を露わにするのは茜谷さんだった。まるで眼前に餌をぶら下げられた馬のように鼻息を荒げて、


「そ、それってもしかしてっ…………すっ、好きなアニメを、みんなに見てもらえるってこと⁉」


「はい。そうです」


「ッ…………‼」


 茜谷さんは神にでも遭ったかのような表情だった。もしかしたら今の茜谷さんには猪熊部長の後ろに光が差しているように見えているかもしれない。


(そう言われると……たしかに)


 弘海も内心で呟く。


 言うまでもなく、アニメオタクにとって趣味の合う仲間は貴重である。


 だが、それ以上に得難いのは、『自分のおススメする作品』を見てくれる存在だった。なにせ年代もジャンルを多岐に渡るアニメは、人によって好き嫌いがはっきりとわかれる。同じ「アニメ好き」と言っても、肌に合わないと見てもらえないことが大半なのだ。


 しかし、今回の活動ではジャンル問わず『なんでも』見てもらえるという。しかもここにいるみんなにだ。茜谷さんが興奮してしまうのも仕方なかった。


「ただし、もちろんルールは設けます。まず一つめに『作品は1クールのもの』であること。これは一つの作品にかけられる時間が一週間しかないので、見やすさを優先してほしいということです。二つめに『作品を見れなかった場合は言うこと』、三つめは『見る手段がない場合は相談すること』です」


「一年生は見る方法はあるかしら?」


 弘海は母親が契約している動画配信系のサブスクリプションがある。そして茜谷も同じものがあるらしく、部員たちは概ね視聴方法には困らないことがわかった。


「では各自プリントにタイトルを記入のうえ、小野原先生かわたしたち上級生に渡してください。とりあえず今日やることはそれで終わりです」


 にこ、と猪熊部長が笑った。






 **






 猪熊部長からプリントを受け取って約二十分が経った。


 仕事が忙しい小野原先生はすでに職員室に戻っていて、今現在、部室には部員たちがそろって残っていた。猪熊部長はいつもそうしているのか席に座って静かに読書をしており、茜谷さんはすぐに記入を終えて先生にプリントを渡してからは、安藝先輩にくっついて好きなアニメについて話している。安藝先輩も満更でもないのか、べたべたしてくる後輩の頭を時おり撫でながら「ええ、ええ」とにこやかに話を聞いてやっている。


「ぅ…………」


 そして弘海と言えば、ずっと頭を悩ませていた。


 筆箱から取り出したシャープペンシルを片手に、ぐっと強く唇を引き結びながら、黙ってプリントに視線を落としている。タイトルの欄はまだ何も記入されていない。


 ふと思いつき、ペン先を記入欄に合わせるが、すぐにぴたりと指が止まった。


 そのうち指先が震えてきて、呼吸も忙しなく乱れ始める。パキッ、と不意に芯が割れ、それをきっかけにまた椅子に背中を預け、静かに気を落ち着かせる。


 そんなことを、弘海は何度も繰り返していた。


「小鳥遊くん? 大丈夫かしら?」


「な、なんでもないです。大丈夫です」


「そう? なんだかとても顔色が悪いように見えるけれど」


「いや、ほんと大丈夫で……」


 好きな作品のタイトルを記入すればいい。簡単なことだと頭ではわかっている。


 なのに。


 いざ行動に移そうとするとこんなにも身体が拒絶する。本当にこれが自分の身体なのかと疑いたくなるほどだった。


 それでも無理をしてペンを動かせば、まるで海底に沈んでいくかのように視界が闇に閉ざされ、音が遠のき、動悸が止まらなくなる。


「……くん? ねえ、だ……ぶ?」


 万力に押し潰されるかのように胸が圧迫される。


 心臓の鼓動がバクバクと煩い。


 口のなかが、苦い……。


「…………ッ‼」


「うわ! なっ、なによあんた? そんな突然立ち上がって」


「ごめ……ちょっと……」


 反射的に手で口元を覆う。——ソレをすんでのところで堰き止める。


 堪らず弘海は部室を飛び出した。






「オェエエエエエエ‼ うぅ、オェエエエ……‼」


 トイレの個室に飛び込んだ直後、弘海は限界を迎えた。


 便器に顔を突っ込み、臓物を吐き出す勢いで嘔吐する。 


 何度も何度も。


 胸の苦しさが引いてくれるまで。


 幸い、嘔吐感はそう長くは続かなかった。


 元々反射的なものだったのだろう。胃が空っぽになった感覚がするとしだいに頭も冷静になり、呼吸もだんだん落ち着いてくる。


「…………マジかよ」


 便器のなかで項垂れ、弘海は、ははは、と自嘲ぎみに笑う。


 これは要するに――そういうことなのだろう。


 理解が追いつくにつれ、自分がなんとも滑稽に思えてきた。とっくに克服したつもりだったのに。これじゃなにも変わっていないじゃないか。


 吐瀉物をトイレに流し、洗面所でとりあえず口元を水でゆすいだ。苦いものはもう残っていない。


 ふと気づくと鏡のなか、ひどく青白い顔をした自分がこっちを見ている。


「重症だな……」


 この場所に先客がいなかったことが救いだった。こんなところ、誰にも見せられない。


 そうこうしているうちに、だんだん気分が優れてきた。顔色は相変わらず良くないが、この程度なら、まあ大丈夫だろう。


「どうしたもんかな……」


 あとはみんなにどう説明するかだ。上手い言い訳が見つかればいいが、果たしてあの先輩たちが簡単に誤魔化されてくれるだろうか。


 待たせすぎるのも怪訝に思われる。無い頭を捻りながら、とりあえず弘海は億劫な足取りで男子トイレを出た。


「遅かったわね」


「え」


 だが、待ち構えるようにして立っている人物がいた。


 安藝先輩だ。


 いつから? まさかとは思うが……最初から追いかけてきていたのだろうか? だとしたら今までずっとあの酷い声を聞かれていた可能性がある。いや絶対に聞かれている。不味い。ヤバい。


「あー、えっと……そう! 母さんが作ってくれた弁当が、なんか腐ってたみたいで! 急に吐き気がして、いやけっこうあるんですよこういうこと……! あ、というか急に飛び出してすみません。でももう問題ないのでその」


 焦って誤魔化そうとするがもう遅い。安藝先輩はぐんぐんと距離を詰めてきて、も少しでつま先同士が触れ合いそうなくらい近くまで来ると「事情を話しなさい。小鳥遊くん」と言った。


「や、だから、弁当が……」


「あなたを部に誘ったのはわたし。だからあなたが苦しんでいるとしたら、わたしにも責任はあるわ。いいから話しなさい」


 半ば暴論……いや、紛れもない暴論だった。


 だが先輩の前では反論の余地はすべて埋められる。そもそもこんな間近で『女優の微笑み』を向けられて太刀打ちできる者などいるはずもなかった。弘海にできることはせいぜい(睫毛長いなあ)(なんかいい匂いするなあ)と呑気な感想を抱くくらいだった。


「ちゅ……中学のときに嫌なことがあって、その」


 ほどなくして弘海は白状した。


「どうもそれがトラウマになってるみたいです」


「トラウマってなに? なにがあったの?」


 踏み込むなあ、と苦笑しながら弘海は続ける。


「おれの通ってた中学はけっこうやんちゃな奴が多くて、基本的に出る杭は打たれるって風潮だったんです。まあおれはその辺も要領良くて、そんななかでも上手くやってたほうで。先生たちからのイメージも良くて、それなりに友達も多くて……」


 上手くやっていた。

 少なくともあのときまでは。


「でもある日ちょっと魔が差しちゃって……クラスのあまり話したことない奴らに、アニメの話をしたんです。そうしたらそいつらにめちゃくちゃ笑われて、それを不良の奴らに告げ口されて……見る見る間にそいつらのイジメの標的になっちゃって、ははは……」


 元々良い子ちゃんだった弘海が気に入らなかったらしい。ここぞとばかりに罵声を浴びせられ、馬鹿にされ、酷いことをされた。


「まあ、それであれですよ。よくドラマとかで見る感じで、その……死ねとかキモイとか言われたり、意味もなく殴られたり、変なもの食べさせられたり……まあ色々と」


 行き過ぎたイジメは二か月ほどで教師にバレて、すぐになくなってくれた。


 だが、その二か月は、少年の心を折るには十分すぎる期間だった。


「たぶんそのせいでしょうね。好きなものを語ったりとか、そういうのを表に出そうとすると、なんか色々思い出しちゃって。当時言われた言葉とか、そのときの空気とか……味、とか」


 そしてついに吐き気を催してしまった。


「すみません、聞くに堪えない話で。……まあそういうわけなので、たぶんアニ研に入ってもおれ、満足に活動できないと思います。誘っていただいてすごく嬉しかったですけど、やっぱりおれは」


「そんなことないわ」


 安藝先輩が手を伸ばしてくる。優しく頭を撫でられた。


「せ、先輩?」


「うちの家には、メルという飼い猫がいてね、よくわたしの足にすり寄ってきては、べたべたと甘えてくる困った子なの。だからわたしはそのたび、こうして頭を撫でてあげているわ」


「そう……なんですか」


「気持ちいいでしょう? クラスメイトにも、けっこう好評なのよ」


 たしかに気持ちよかった。


 気持ち良すぎて、気を抜くと、先輩に身をゆだねてしまいそうなほど。


「あなたはきっと、わたしなんかでは想像もつかないような体験をしてきたのね。なのに明るく振る舞って、今こうして一歩踏み出そうとしている。それはすごいことよ」


 柔らかな指先が時おり耳に触れて、そのたびぞわぞわと妙な気持ちになる。


「……ただ流されてるだけだと思いますけど」


「いいえ、大きな一歩よ。そのうちきっとわかるわ」


 それにね、と安藝先輩はゆっくりと撫でていた手を離す。かすかな名残惜しさが弘海の胸のうちをかすめる。


「『好き』を語ることは、とても楽しくて、素敵なことなのよ」


 それは一体どういう意味なのか。


 このときの弘海にはまだわからなかった。






 その後、部室に戻った弘海は改めて全員に事情を説明することにした。


 当初は誤魔化すつもりがどうしてこうも気が変わったのかと言えば、安藝先輩からの「ふたりは信頼できるわよ」という後押しがあったためである。


 たしかによく考えると部員はみなアニメ好きの同士なのだから、強いてはぐらかす必要はそんなになかった。これから先活動していくにあたってはむしろ邪魔でしかないだろう。


 要はすべて弘海の気持ち次第だった。


 弘海が過去のトラウマも交えて事情を説明すると、ふたりはそれぞれ違った反応を示した。


 猪熊部長は初め辛そうな顔でうつむいていたが、しばらくすると顔を上げて「一緒に頑張りましょう」と笑みを見せてくれた。


 対して茜谷さんはすぐには納得がいかなかったようで「ムカつく、そいつら……」とずっと唇を尖らせていた。そのあと弘海がアニメ好きであることはクラスメイトたちには黙っておくと約束もしてくれた。



 

 そんなこんなで最初の顔合わせは終わり。


 弘海は正式にアニメ研究会に入部することを決めた。






 プリントのタイトル欄は依然、真っ白のまま。




 




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