第9話 あの部長があんな作品を好きなわけがない。


「なあなあ、小鳥遊くん」


 週初めの月曜日、朝早く登校してひとり、いつものように席で小説を読んでいると不意に話しかけられた。顔を上げると、外ハネヘアーの愛嬌のある顔立ちの男子が立っている。淡島くんだった。


「えっと、なに?」


「いやー、ごめんね。俺どうしても気になっちゃって。……で、どんな感じなの実際?」


「え? なんの話?」


「かー、とぼけちゃってまあ。文芸部の話に決まってんじゃんか。小鳥遊くん会ったんだろ? 安藝先輩に。どうだった?」


 爛々と輝く瞳がまぶしい。


 弘海が文芸部への入部を決めてから再び、淡島くんは以前のように話しかけてくるようになっていた。正確には以前にも増してその頻度は上がっているが。どうやら弘海と同じテニス部の山吹くんから兼部の話を知ったようだ。同郷の情報網は伊達じゃない。


「どうって言われても……綺麗な人だよ。あとすごく良い人」


「そんなのは見てたらわかるって! そういうんじゃなくてさあ……、もっとこう、あんじゃん? 知られざる一面とか、秘密とかさ?」


「…………秘密かぁ」


 とんでもないアニメオタクです。


 なんてことを教えたら信じてもらえるだろうか。


「おれはただの後輩だから。なにも知らないよ」


「嘘つけよっ、だったらなんで小鳥遊くん入部できてんのっ?」


「それは、普通に勧誘されたからだけど……」


「ダウト」


 横槍から短い指摘が入った。いつのまにか淡島くんの隣に山吹くんが立っている。おまけに後ろには谷口さんもいた。


「え? ダウト? なに?」


「同じテニス部のよしみで教えてやろう、小鳥遊。うちの文芸部は入部しようとしても大体の場合は門前払いされる。選ばれた者だけが入部を許される部なんだぜ」


「ほとんど安藝先輩目当てやろうけどなあ」


「あ……」


 弘海は思い出す。


 そうだ。そういえばうちの部には多くの入部希望者が追い払われてきた歴史があったのだ。猪熊部長が邪な男子から安藝先輩を守るために。なによりアニメ研究会の名が広がらないように。


「そんななかで、小鳥遊だけが勧誘されたってのは、おかしな話だよなあ」


「むむ、そう言われるとたしかに怪しいな」


「おまえは知らなかったのかよ……:


「なんか特別な理由があるん? 弘海くん?」


 三人から詰め寄られ、弘海は逃げ場を探す。


 が、時すでに遅し。席の周りは完全に包囲されてしまっていた。


 万事休すか。



「――小鳥遊くん」



 それはバイオリンの音色のような声だった。


 呼ばれたのは弘海の名だ。認識が追いつくと瞬間、弘海は弾かれたように声の主を探して振りかえる。


 すると教室後方の入り口あたりに、まさか、安藝先輩が立っていた。


「あ、安藝先輩……」


 潮が引くように教室が静まりかえる。


 淡島くんたちも唖然とした顔で先輩を見ている。


 おそらく教室中の視線に射抜かれているだろう安藝先輩は、しかしそんなことなど慣れているだろうのか、悠然とした立ち姿で弘海だけを見つめながら、その瑞々しい唇を開いた。


「おいで」


(そんな犬みたいな……)


 しかしこの状況でツッコミを入れる度胸は弘海にはない。戦慄するクラスメイトたちを置いて教室を抜け出す。廊下に出て先輩と向き合った。


「なんで先輩、急に」


「これ、兼部届」


 小さな紙切れを渡される。


 兼部届……そういえばまだ書いていなかった。


「ようやく認可が下りたわ。まったく、小野原先生は柔軟な方でいいのだけれど、岩崎先生は頑固で困ったものね。あれではテニス部でも苦労するでしょう?」


「えっと……このためにわざわざ?」


「ええ。すぐにもらったほうが小鳥遊くんもありがたいでしょう?」


「めちゃめちゃびっくりしました……急に来るのは心臓に悪いですよ」


「そうなの? 不思議ね」


 おっとりと首を傾げてみせる安藝先輩に、弘海はなんだかなあと思った。この人は鋭いのか鈍いのか時々わからなくなるときがある。


 と、している間に教室が騒がしくなってきた。有名人の登場にざわざわと喧騒が波のように広がっていく。


 やっぱり先輩は人気者なんだなと再認識した弘海は、ついつい目の前の有名人の綺麗すぎる顔をじっと見つめてしまう。


「……ん? なに? また頭撫でてほしいの?」


「そんな物欲しそうな顔してないですよ」


 そんなことを今やったら大騒ぎだろう。想像してため息をつくと、それを迷惑そうな顔だと捉えられたのか、安藝先輩は「どうもお邪魔みたいね」と呟いた。


「い、いや、邪魔だとかはべつに」


「ふふふ、いいわよ。もう一つの用事を済ませたら、わたしもすぐに戻るつもりだし」


「用事、ですか……? それってなんの……」


「やっとね、決まったのよ。……まいるの紹介するアニメが」


 後半だけ小さな声で囁かれた。ぶるりと背筋が震える。


「って、ああ。猪熊部長の……」


 本当なら以前の『合評会』の際に次回の作品を発表する予定だったらしいのだが、担当の猪熊部長は紹介する作品にとても迷っていて、ついぞあの日には決まらなかったのだ。


 普段きっちりしてそうな部長にしては珍しく、「すみません、すぐに決めますから」と何度も平謝りしていたのを覚えている。


「それは良かったです。……で、結局なんの作品に決まったんですか?」


 あの真面目でおとなしい部長が好きなアニメ。正直とても気になる。一体どんな作品が好みなのだろうか。


「あとで茜谷さんにも伝えてあげてね」


 いつもの『女優の微笑み』を浮かべながら、安藝先輩はまた囁くような声量で言った。


「――『魔法つかいのベッド事情』ってアニメよ。知ってる?」


「…………………………え?」






 **






 ――『魔法つかいのベッド事情』。


 それはおよそ十年前に放送されていた深夜アニメであり、その頃売れに売れていたライトノベル作家、三鷹嵐子みたからんこが原作を務める同名タイトルをアニメ化した作品だ。


 内容は清々しいほどコメディ一直線で、魔法が存在する西洋風ファンタジー世界で、魔法つかいの女性たちがひたすらお互いの性事情について語り合う下ネタ満載のギャグアニメだった。ゆえにその知名度に対して実際に視聴している者の割合は少ないらしく、コアなファンからは異常な人気を誇っている。


 大手アニメ会社の『スタジオ・フジ』が製作なこともあり、ほぼ一つの部屋から動かないのにもかかわらず作画は当時の最高峰に近い水準で、時おり出てくるサービスシーンのクオリティは『頭がおかしい』とまで言われていた。もうとにかく制作陣が通すぎて『時代が生んだ怪物アニメ』なんてネットで呼ばれた時期もあったらしい。人伝手に聞いた話だが。


 そんな、当時は色んな意味で話題になっていた『まほベ』だが……。


 とある事情により、弘海は今まで視聴していなかった。


 もちろん作品の存在は知っていて、人気なことも理解していたが、どうしても見ることができなかったのだ。






 安藝先輩の登場で教室が荒れに荒れた今朝から時間が経ち、放課後、弘海はとある要件を伝えるため、テニス部へ行く前に文芸部のドアを開けた。すると案の定、室内では部長である猪熊先輩の姿があった。


「……た、小鳥遊くん? どうかしましたか?」


 読んでいた小説から顔を上げて、驚いたように見つめてくる。


「部長、ひとりですか? 安藝先輩は……」


「今は小野原先生に呼ばれていて……朱鷺子ちゃんに用事ですか?」


「いや、用事があるのは、部長のほうで」


「……?」


 部長は怪訝そうに首を傾げる。縁なし眼鏡の位置が少しズレる。


 安藝先輩が不在なのは、逆に好都合かもしれない。


 弘海はおずおずと訊ねた。


「部長が、その……『まほベ』が好きって、本当なんですか?」


「え……?」


 唐突な質問に面食らったのか、部長は石のように硬直する。


「や、だって、その……あの作品、めちゃめちゃ下品なネタ満載らしいし、どころか、割とエロいシーンとかもあるって話だし……なんかの間違いじゃないかなって」


 むしろ間違いであってほしかった。あの作品はこの小さくて可愛い部長とは似合わなすぎる。


 弘海の言葉を聞くや、猪熊部長は頬をかあっと赤くして俯いてしまった。耳の先まで真っ赤だ。


 罪悪感が胸を刺す。デリカシーのない質問なのは理解している。それでも弘海にとっては明らかにしておくべきことだった。


「…………はい。大好きです」


(マジか……)


 やがて蚊の鳴くような声で頷いた部長に、弘海は軽い眩暈を覚えて目を覆った。なんてこった。


(なんで)


 よりによって、どうして『まほベ』なのか。他の作品じゃダメだったのか。そのうち頭を抱えたくなった弘海だったが、部長が恥ずかしそうにもじもじとしているのを見て、すぐに頭を振った。嘆くのは今じゃない。


「わ、わかりました……それを聞けてよかったです」


「……?」


 猪熊部長はまるでハムスターのような潤んだ瞳で見上げてくる。


 ——ごくり、と息を呑む。


 深い深い逡巡の末、弘海は意を決して口を開いた。


「ぶ、部長!」


「は、はい。なんでしょう?」


「あの……よければ今日、うちに来ませんか?」


「……え?」



 

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