第4話 青春皆無男は美脚先輩の夢を見ない
不肖、小鳥遊弘海(十六歳)。未だ恋愛経験無し。
中学の頃は女友達も少なからずいて、なんなら恋愛相談をされたこともあるくらいだが、悲しいかな、弘海自身に好意を寄せてくれる女子はついぞ現れなかった。
しかし弘海も青い春を生き抜くひとりの若者。そういった甘い世界に憧れを抱かないわけではない。アニメでも恋愛要素は鉄板だし、今でもドキドキウハウハなラブコメ作品は欠かさず視聴するくらいには思春期を持て余している。少しエッチなシーンを前にニチャニチャと他所には見せられないような笑みを浮かべるのも一度や二度ではないのだ。
「まだいてくれ……!」
放たれた矢のごとき勢いで階段を駆け上がっていく。止まるな。上ってゆけ。これはただの階段ではない。大人の階段なのだ。
数分もかからず階段を上り切った頃には息も絶え絶えな有様だった。
「ふぅ……」
流石に恰好がつかないので息を整える。屋上へ続く扉はすぐ目の前だ。
「……よし」
ドアノブへ手を伸ばす。ガチャリと音が鳴る。
意を決し、扉を開け放った。
瞬間、強い風が頬を叩き、おもわず弘海はぎゅっと目を閉じた。
次いで、まぶたを開けたとき。
視界の端で、滑らかな黒髪がひるがえった。
「あ……」
いた。女の子だ。
ほぼ一時間近くの遅刻だったにもかかわらず、手紙の差出人はうやうやしくもずっと待っていてくれたらしい。
屋上フェンスのそば、静かに座り込んでいる女子の姿は、遠目からでもわかるくらい可憐だった。少しウェーブがかった腰まで届く長い黒髪、カッターシャツの襟元から覗く眩いばかりの白肌、そしてブレザーを押し上げるような豊かな胸元。
「ん……?」
もしかして……と思い近づくと、やはりボウタイの色は紺色で、思ったとおりこの人は一学年先輩のようだった。さらに近寄ったことでもう一つの事実にも気づく。
先輩女子はただ座り込んでいるのではなく、なんと眠っているのだった。
「悪いことしたなあ……」
立って待つことも億劫になり、フェンスにもたれかかった挙句寝てしまったのか。もしくは眠ってしまったためにこの時間まで待つ羽目になったのか。どちらにせよこれは弘海の責任だ。
「あのー」
静かに寝息を立てる先輩女子の姿はなんとも無防備ではあるが、ちゃっかり両手でスカートの裾を抑えているところは妙に気高さを覚えさせる。「大丈夫ですかー?」と三度声を張るも応答なし。まるで永遠の眠りに着いた白雪姫のようだ。と表現すればおのずと邪な考えが浮かぶが、こちとら王子でもなんでもないので滅多なことはしない。
どうしたものかと途方に暮れたところで、先輩女子の両耳に黒色のイヤホンが刺さっていることに気がつく。なるほど。髪色と同じ無線のイヤホンを使うことでカモフラージュしているのか。大和撫子な見た目とは裏腹に、意外と不良な部分があるらしい。
「失礼します」
腕を伸ばし、慎重に、耳元からそれを引き抜く。
あとで考えれば肩でも揺らして起こせば良かったのだろうけれど、このときはなんとなく直接触れるのが恐かった。
滑らかすぎる黒髪が手の甲に触れて非常にどきどきしたのは今晩にでも思い出すとして、とにかくこれで障壁はなくなった。「……すみません。起きてください。風邪ひきますよ」と身を案じる弘海だったが、そのとき手に持っていたイヤホンから音楽が漏れ聞こえ、ぴたりと動きを止めた。
「この曲って」
気がつくと、あろうことか片耳にイヤホンを当てていた。
やっぱり、間違いない。これは、そう。
「『在りし日のアリア』のエンディング……」
「正解。よく知っているわね」
「え」
再び振り向くと、先輩女子が上目遣いでこちらを見上げている。
なんと、ばっちり目が合っていた。
うおっ、とおもわず弘海は後ろへ飛び去る。並みの運動神経しかない弘海はもちろんバランスを崩して尻もちをつく羽目になった。一体なにをやっているのか。
「いっ、つ~」
「あら、大丈夫かしら?」
気づくと先輩女子は悠然と立っていた。それはもう今まで寝ていたのが嘘のような立ち姿だ。
「すっ、すみません! イヤホン勝手に!」
「構わないわ。それよりお尻は大丈夫なの? あとどうして体操服を着ているの?」
「大丈夫です尻なんで。この服装は、部活の途中で抜けてきたからです」
「……ぶかつ?」
「おれ、教室にあの本忘れてて……取りに戻って、ようやく気づいたんです。手紙くれたのって、先輩ですよね? すみませんお待たせしてしまって」
不手際を犯したサラリーマンさながらの弘海は平謝りっぷり。
綺麗な先輩は起き抜けなこともあってか、かすかに目を丸くして何度か瞬きをしていた。けれどすぐに状況を理解したのか「なるほど」と朗らかに頷いてくれた。
「そういうことね。ふふふ……なるほど」
「先輩?」
「ごめんなさい。なんだかおかしくって。やっぱり現実はうまくいかないものね」
可笑しそうに「ふふふ……」と上品に微笑む。なんだかよくわからないけど、とにかくお咎めは無しらしい。弘海はほっと一息つく。
「あなたは、一年の小鳥遊弘海くんね? ご明察のとおり、いかにもわたしが手紙の差出人よ。
ご明察もなにも。屋上には他に人がいないので当然の推察なのだが。
などといった考えは一瞬で消え失せた。
「はい。よろしくお願いします。……って、あ、安藝朱鷺子?」
「なに? 聞き覚えでもあったかしら?」
「え? ま、まあ……」
(淡島くんたちが言ってた名前だ……)
昼休み、話題に上がっていた有名人の名前がそれだった。
——と。
思い至った瞬間、まるで自然律に従い、弘海の視線が先輩の下半身へ向かう。
スカートから伸びる二つの
「どこを見ているのかしら?」
気づくと先輩は、それはそれは素敵な笑みを浮かべていた。
「すっ、すみません」
「いいわよ。……では気を取り直して。さっそく用件を伝えるわね。といっても愛の告白などではないから、安心してちょうだい」
「ぐっ…………‼」
「あら……? どうして急に膝から崩れ落ちたのかしら?」
「なんでもないです……なんでも……」
(まあ期待なんかしてなかったしな……。いやマジでホントにしてなかったし、いやマジで)
「えっと……じゃあ、なんのためにこの手紙を?」
「勧誘よ。有体に言えばね」
ひと際大きな風が吹く。安藝先輩の艶やかな黒髪が中空へ放り出される。
茜色の陽光が大袈裟に先輩の姿を照らし出す。またかもドラマのワンシーンのような、一種のあざとさすら覚える、それは紛うことなき『演出』だった。そして安藝先輩は、まるで凪いだ湖面のように静謐な微笑みを浮かべて——。
ああ、これが噂の『女優の微笑み』かと、心のどこかで弘海は納得した。
「わたしたち『アニメ研究会』に入ってくれないかしら。小鳥遊くん」
世界に愛されたかのようなその光景に束の間、少年の心は奪われ……、
「ん…………アニメ?」
すぐに現実に引き戻された。
「アニメって言いました? いま」
「ええ。言ったわ」
(うーん……?)
「アニメって、あれですよね? アニメーションを縮めた言い方の」
「ええ。ほかになにがあるかわからないけれど。——そうよ。わたしは『アニメ研究会』の会員なの。おどろいた?」
「え? はあ……まあ、それなりに」
(というか。いろいろと理解が追いついていないんだけど)
「そもそもなんなんですか? その『アニメ研究会』って……。部活説明会のときは、そんな名前聞きませんでしたけど」
もし聞いていたのなら、弘海が忘れているわけがないだろう。
「それはもちろん、公表していないからよ。普段は文芸部の皮を被っていてね。顧問の小野原先生はもちろん、大半の先生方には了承してもらっているから、なにも後ろめたいことはないのだけれど」
「はあ、なるほど」
「ちなみに発足から今年で七年目で、それなりに歴史もある、由緒正しき部活動よ」
「それはそれは」
「ご理解いただけたかしら? では入部してくれるということでいいわね?」
「はあ、まあ……って。いやいやなんでそうなるんですか」
危ない。流れで頷くところだった。
「あら? なにか不安でも? ああ、もしかして他の部員のことかしら? それなら安心してちょうだい。部員はもちろんみんなアニメが大好きだし、一年生はすでにもうひとり勧誘しているから、肩身の狭い思いをすることもないわよ」
「いや、そういう意味でもなくて」
そうじゃない。そうじゃなくて。
「そもそも、なんでおれがアニメ好きってわかったんですか……?」
そう。弘海が先程から引っ掛かっているのは、そこだ。
なにせ安藝先輩とは初対面のはずだ。にもかかわらず弘海をアニメ好きであると前提にした上で勧誘しているのは、おかしくないか?
「ふふふ……イヤホンから漏れ聞こえる音楽だけを聴いて、すぐにアニソンだと見抜くような人が、今さらなにを言っているのかしらね」
「きょ、曲のほうを知っているだけかもしれないじゃないですか」
「けれどあなたが言ったのは曲の題名ではなくアニメのタイトルだったわ。しかもエンディングであることまで理解していた。これって普通の人にできることかしら? ついでに言うなら『在りアリ』は今季放送しているなかでもマイナー寄りの作品で、知る人ぞ知るといったレベルの知名度しかないのよ」
「え、マジで? あんなにおもしろいのに?」
「ええ、口惜しいかぎりだわ」
毎週EDまで欠かさず視聴しているくらいなのに……。
「もちろん他にも根拠はあるわ。たとえば……あなたがいつも使っているスマホカバー」
ぎく、と弘海は目を泳がせる。
「青い生地に黒のストライプが走っているだけの柄は、一見ただのシンプルなものに見えるけれど、あれは今話題の『サタンブレイカー』に登場するクランのひとつ、ブルーハウスのエンブレムでしょう?」
「なぜそれを……というか、おれ今スマホ持ってないんですけど」
「食堂で見かけたのよ。あなたたちよく来るから。正解でしょう?」
おっしゃる通り。あれは『サタブレ』の公式グッズだ。作中でも出番の少ない組織のエンブレムを模しており、しかもデザインが地味なためだれにも気づかれない点で愛用していたのだが。それを見かけただけで見抜かれるなんて。
「極めつけは、あなたの持っていた小説ね」
半ズボンのポケットに突っ込んでいた小説に弘海はつい手を触れる。
「あなたたち午後の最後は体育だったでしょう? 仕込みはそのときに済ませたわ。そしてわざわざその小説に手紙を挟んだのは言うまでもなく、それが去年の秋アニメのなかでも突出してクオリティが高かった『ソラシド』のノベライズ版だったからよ」
——『ソラシド』。
吹奏楽部のなかで巻き起こる様々な謎を主人公たちがテンポよく解き明かしていく、オリジナルアニメのなかでも珍しい本格ミステリーを下地にした作品だった。派手さにこそ欠けるものの巧みな演出が功を奏し、去年はけっこう話題になっていた。
「なんでそんなこと知ってるんですか……」
「わたしも毎週追っていたくちなのよ。だから教室の前を通ったとき、偶然あなたが読んでいるのが見えておどろいたわ。ノベライズは今は手に入りにくいって話だから。くわえて原作者のサイン付き……もはや一体どうやって手に入れたのか不思議なくらいね」
「つ、伝手がありまして」
母親の作家仲間という名の伝手が。
「以上が、あなたをアニメ好きであると思った根拠よ。どう、なかなか見事なものでしょう?」
「見事というか……ふつーに怖いです。とくに隠してたつもりもありませんけど、まだ入学して間もないのに、そんなちょっとの情報だけであっさり看破されちゃ震えますよ」
「あら、怖がらせてしまったかしら? でも安心してくれていいわよ。そもそもわたし、ずっとあなたのことは気になっていたから」
「へ?」
「ふふふ……」
艶然と微笑む安藝先輩。
赤く瑞々しい唇の下、色っぽい位置にあるほくろには、おそらく魔力が宿っている。まさに魔性の笑みだ。弘海はごくりと唾を飲み込む。
「あなたの苗字、小鳥遊というでしょう?」
「は、はい。それが?」
「それってアニメでよく見る名前じゃない? わたしその名前好きなのよ」
がく、と弘海は身体のバランスを崩しかける。
もうちょっと新喜劇ばりのコケを披露してしまうところだった。危ない。
「小鳥が群れて遊んでいるようなところには鷹がいない。だから
「それはその、光栄です? で、合ってるのかこれ?」
「もし自分の苗字が小鳥遊になったら……と、夜な夜なにやにやと妄想しては、おばあ様にドン引きされている話だけは墓場まで持っていくつもりなのよ」
「じゃあ聞かなかったことにします」
「小鳥も鷹よりは朱鷺のほうが安心するでしょうしね」
「いやどっちにしろ迷惑かと……」
弘海の声は先輩には届いていないようだった。
——カキンッ。
と、グラウンドから気持ちのいい打球音が響き渡る。とくにそれがきっかけだったわけでもないが、ふたりのあいだには沈黙が訪れた。
(なんなんだろ、この人)
こんなところでも眠れてしまう豪胆なお姫様かと思えば、口を開くとなんとも物腰柔らかな大和撫子だし、いちいち仕草が色っぽいし、なんだかドン引きするくらい鋭いし、なのに思考は完全にアニメオタクのそれだし……。
「……何者なんですか、先輩は」
「わたしは、ただのアニメが大好きな女よ」
なぜだろう。
じぶんでもわからないけど、そのとき弘海は目を見張った。
「あなたもそうではないの? 小鳥遊くん」
「おれ、は……」
ドク、と心臓が高鳴る。
動悸は止まらず、ドクドクと不快な拍動が耳元で鳴り始めるかのようだった。
「どうしたの? 急に胸を押さえて」
「い、いや……なんでも、ないです」
一度大きく深呼吸をする。そうして平静を取り戻してから、弘海は言った。
「アニメ研究会とか、おれにそういうのは、たぶん向いていないと思います」
「それは入ってから判断すればいいことよ。小鳥遊くん」
「うっ…………じゃあ少しだけ、考えさせてください」
「ええ。ではいい返事を待っているわね」
安藝先輩は颯爽と屋上を去っていく。
取り残された弘海はしばらくその場に立ち尽くしていた。
屋上から見える街の景色を、ぼんやり眺めながら。
西の空に沈みかける夕陽を見据え、ふと頭のなかで考える。
自分はいつ頃アニメを見るようになったのかを。
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