第3話 時は短し走れよ乙女(♂)


 昼休み、食堂は生徒たちの声で賑わっている。


 ランチルームとも呼ばれる広い空間、飛び交う話題は大きく分けてふたつだ。


 ひとつは六月下旬にもなり、そろそろ近づいてくる夏休みについてのなんとも浮ついた会話。もうひとつは、いっそう差し迫った期末試験に関する悩まし気な話し合いだ。


 そんな、浮足立った談笑と切実な悲鳴で混沌とした食堂のなか、弘海はと言えばとある席の一角でひとり、黙々と和風定食をつついていた。


「なー、小鳥遊くんってどんな女子がタイプなん?」


 ただし『ひとり』の部分には語弊がある。弘海としてはもちろん本意ではなかったが、今日もなぜか同じテーブルには当たり前のように淡島くんが座っていたのだ。


「あのさ……淡島くん、なんかおれに気ぃ遣ってない? べつにひとりでも全然平気だよ? おれ」


「ん? そんなことねえけど? ってか話逸らすなよ! なに? 小鳥遊くん、もしかして恥ずかしがってんの?」


「そういうつもりじゃないけど……」


 こう毎度しつこいと普通はうんざりするものなのだろうけれど、困ったことに淡島くんからは一切悪気が感じられない。この溢れ出る人懐っこさはなんなのだろうか。まるで従兄の家で飼われていたあのゴールデンレトリーバーのような、無邪気にはしゃぐ大型犬っぽさがあって、無下に扱えない。


「じゃあ淡島くんのほうはないの? 好きなタイプとか」


 よくぞ聞いてくれましたと言わんばかりに淡島くんは得意げに答えた。


「もちろん、美脚だな。ついでに美人なら言うことなし」


「美人はついでなんだ……普通逆じゃないの?」


「んやそうはならん。女子の魅力はぜーんぶ足に詰まってんだからな。俺に蹴られたいと思わせるような理想の脚を持つ女子がいたら、俺はすぐにでも告白して蹴られるつもりだぜ」


「断られてるじゃんそれ……」


 ぶふっ、と吹き出すような声。


 弘海が後ろを振りかえると、そこにはいつのまにか長身の男子が立っていた。青縁眼鏡に柔和な顔立ち。両手には弘海と同じ和風定食が並べられたトレイ。クラスメイトの山吹やまぶきくんだ。


「おもろすぎだろ、お前らの会話」


「なんだよ山吹、馬鹿にしてんのか? このモテ男が」


 笑いを堪えながら山吹くんはトレイをテーブルに置く。どうでもいいがなぜ同じ席に座るのか。


「いやいや俺も好きだし。ただ足よりかは俺はやっぱ胸のほうがさあ」


「やめー、変態二人組が」


 と続けて割って入ってきたのは今度は女子だった。たしか山吹くんとよく一緒にいる谷口たにぐちさんだ。水泳部に入っているらしく、健康的に日焼けした肌が眩しい。


「弘海くんはあんたらと違って純粋なんやから。あんまキモい会話聞かせんといて」


 独特な関西弁で言って谷口さんは腰を下ろす。かばってくれるのは嬉しいけど、なぜみんなここに座るのだろうか。弘海は諦めの表情で味噌汁をすすった。


「女子はお呼びじゃねーんだよ。しっ、しっ」


「ああ? なんやねん。その態度は」


「お前の足は見飽きたからな、興味ねえんだよ」


「うわキモぉ……」


 校門より程近い場所にある東中学出身の生徒が多い逸原(いつはら)高校では、春の時点ですでに仲のいいグループができあがっている。例に漏れず、たしか彼らも東中出身で、そのため三人のあいだには遠慮が微塵も存在しなかった。


「あんたの話はよお~わかったわ」


 谷口さんは額に青筋を立てながら笑い、やがて、


「ほんなに好きなら、ここで誰の足が一番ええんか、あたしにわかるように言うてみいや!」


 細い腕を広げて、食堂の女子たちを見渡すように促した。


 彼らの話が聞こえていたらしい近くの女子たちがテーブルの下で警戒するようにスカートを直している。なんというか鬼畜の所業だ。選んでも選ばなくても淡島くんは変態のレッテルは免れない。


 だが淡島くんの返答は予想外なものだった。


「ふっ……、そんなもん安藝(あき)先輩に決まってんだろ」


「なるほど。そう来たか」


「うわあ、命知らずやわ。あんた」


(だれ……?)


 弘海が首を傾げているのを見て、すかさず山吹くんが補足してくれる。


「一学年上の先輩だよ。安藝朱鷺子(あきときこ)さん」


「弘海くん知らん? えらいべっぴんさんや言うて一年のあいだでも話題やで。愛想もよくてすんごい頭もよくて、ほんで実家は大地主の大金持ちや言うて、ほんまてんこもり」


「にじみ出るオーラがすごすぎて、だれも近寄れないらしいけどね」


「あの足に蹴られて死ぬなら、俺は本望だ……」


 妄想のなかですでに一撃もらっているのか、淡島くんは鼻の穴を膨らませて恍惚とした表情を浮かべている。


 そこまで言うほどの美脚か。


 弘海も男としては見てみたい気がしないでもなかった。


「ふたりもその先輩、見たことあるの?」


「あんでー。ていうか意外と食堂にもよう来はるから、意外と見るチャンスあんで」


「俺はどっちかっていうとあの笑顔にやられたくちだなあ。知ってるか? 巷では『女優の微笑み』なんて言われて、けっこう有名らしい」


「『女優の微笑み』……」


「まあもちろん胸が至高だけどさ」


「変態死ね」


 三人はそれからも噂を話題に盛り上がっていた。


 それを横目に、弘海はこっそりと食べ終わったトレイを持って、彼らの輪から抜け出すのだった。







 教室に戻ってからは淡島くんが話しかけてくることは一度もなかった。


 先に戻っていた弘海のことは気にもしていない様子で、午後は山吹くんたちと楽しそうに喋っていて、放課後は同じサッカー部らしい友達たちと肩を組んでさっさと教室を出て行った。


 そろそろ話しかけても無駄だと思われただろうか。だったら懸命な判断だ。


 もしかしたら今までは教室で孤立ぎみな同級生を気遣ってくれていたのかもしれない。けれどこんな、つまらない返答ばかりの暗い奴にわざわざ話しかけて、いつまでも相手してやる必要もないだろう。


 これでいい。学校生活に望むことなんて、なにもない。


 弘海はとっくの前から孤立することを受け入れていた。


 ——しかし。


 変化とは往々にして望む望まぬにかかわらず訪れるものであり、またいくつかの条件と数奇な巡り合わせが交差すれば人知れず運命へと変貌を遂げていることもある。


 運命が片鱗を覗かせたのは、放課後の部活中のことであった。






 **






 コート外のアスファルトにて。


「……ん?」


 部室など設けられていない我らが弱小テニス部員たち。彼らの学生鞄は、いつもこの道端に雑然と置かれていた。それは弘海も例外ではなく、休憩に水分補給をしようとコートを出て、道の上でじぶんの学生鞄を開けていたところ、あることに気がついた。


「ない」


 なかった。


 どこにも。どこを探しても。


 なかったのだ。


「嘘だろ……」


「なにがないんだ?」


 弘海の声が聞こえていたらしい。おなじテニス部の山吹くんが水筒を片手に訊いてくる。弘海は咄嗟に「な、なんでもないよ」とごまかして、探し漏れを期待してもう一度鞄を漁った。しかしやはりどこにもない。


 どうしよう。


 冷や汗が流れる。由々しき事態だった。アレだけは失くしてはならないものなのだ。あの母親が奮闘して手に入れてきてくれた、『あの小説』だけは……。


「……そういや」


 ふと、記憶がよみがえった。


 たしか、そう、あの小説を机の引き出しに入れたのが最後だったはずだ。そうだ。あのときにそのままで……。


「えっ、おい!」


 弘海は居ても経っても居られなかった。

 このまま部活が終わるまで待ってなんていられない。

 ただ一目散に駆け出し、脇目も振らず校舎へと向かった。






 くだんの小説は思った通り教室で見つかった。


 自席の引き出しから茶色のブックカバーが見えたのですぐにわかった。安堵に胸を撫で下ろしながら回収する。


「……ん?」


 すると、手のひらで妙な感触がした。


「なんだこれ?」


 小説の端から紙切れのようなものが覗いている。なんだろうとページを開くと、そのまま挟まっていた紙切れが、はらり、と教室の床へ落ちた。


「栞……じゃないな」


 窓から注ぐ斜陽によって照らされる紙切れは、おそらくはノートの切れ端のようで、弘海には微塵も見覚えのない代物だった。とはいえこのまま放置しておくこともできない。指先で挟んで拾い上げる。


 すると紙切れに文字が書かれているのがわかった。


 とても、美しい筆跡で。



『放課後、屋上でお待ちしております』



「…………えっ⁉」


 文面を見るや、弘海の脳内に激しい電撃が走った。


 あらゆる想像が一瞬で駆け巡る。


 バッ、と弾かれたように教室の時計を見上げた。


 短針と長針が指し示す時刻は五時二十分。普通科は今日は七時限目までだったから授業が終わったのはたしか四時半くらい。


 要するに、もうまもなく一時間が経過するわけで……。


「……ッ‼」


 二もなく、教室を飛び出した。



 

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