第2話 男子高校生の日常。


『隠れオタクという単語を耳にすることがなくなって久しい。

 読者諸君もそうは思わないだろうか?

 誤解のないよう補足しておくと「オタク」たちが減ったわけではない。むしろ逆ではないだろうか。サブカルチャーを愛し熱中する彼ら彼女らの存在は年々増加の傾向にある。

 この記事の本題もそこにある。

 隠れオタクとは、そのまま自らが「オタク」であることをひた隠しにし、何気ない顔で周囲に溶け込む者たちのことを指していた。何故隠さなければならないのかと言えば、元来「オタク」は周囲から煙たがられる存在であったからだ。現実とは違う空想の世界に熱を上げ、インドアな趣味に耽溺する彼らは往々にして後ろ指を刺され教室の隅へ追いやられてきた。

 だが今はもうそんな時代ではない。

 所謂「オタバレ」という単語は、自分が「オタク」であることがバレることで周囲から鼻つまみ者として扱われ、やがて自分の居場所を失うといった、ある種の悲劇を連想させ、あたかも江戸幕府の時代、バテレン追放令の裏で弾圧から逃げるように潜伏していたキリシタンたちの切実さすら彷彿とさせるが……、とりわけ現代の日本、今や平成すら超えた令和の時代、世間を練り歩く「オタク」たちはなにもそんな切迫した者たちばかりでもない。

 小石を蹴れば「オタク」に当たる、は言い過ぎにしても、「あーアニメね。おもろいよね」と適当に頷いてくれるような者には割と当たるだろうし、まして頭ごなしに「キモイ」と吐き捨て蛇蝎のごとく嫌うような者のほうが珍しいかもしれない。

サブカル文化は時代とともにその面白さ、豊かさが徐々に認知され、今や広く受け入れられてきている。

とにかく先人たちが遠い目をして「俺の学生時代なんかな……」と語っていた時代がとうに過ぎ去ったのは真実であるようで、現代は「オタク」たちにとっては比較的過ごしやすい世の中にはなった。弾圧に怯えなければならない時代ではもうないのだ。

 隠れオタクとは、オタバレとは。

 すでに死語なのかもしれない。』


「そんなわけないだろ」


 弘海は小さく吐き捨てた。


 思わず液晶画面に唾を吐きかけてやりたくなったのは二限目の授業終わり、中休みの退屈を埋めようと自席でスマホを弄っている最中のことだった。


 高校一年目の夏。


 六月下旬ともなれば学校にも慣れて、堂々とスマホを隠し持ってきたりするようにはなる。とくに若者向けのネットニュースは暇つぶしには丁度良すぎた。


 なかでもトレンドに上がっていた『隠れオタクは絶滅危惧種』という聞き捨てならない見出しが目に飛び込んでくると、あざとい釣りタイトルはすべて鼻で笑ってきた弘海と言えどさすがに無視できない。すぐさまトピックをタップし、画面に表示されたサイトの記事をじっと読み進めていった。


 まんまと釣られたとわかったのは、すべて読み終わった直後のこと。


「だれが絶滅危惧種だよ」


 うんざりした気持ちでスマホを机に放った。狙いどおりスマホは教科書の上に着地してくれたが、一ミリも気晴らしにならない。これだからSNSはクソなのだ。


 おおかた暗い青春時代を過ごしたどこぞの陰気な記者が、深い取材もしないうちから適当にうそぶいているのだろう。手に取るように想像できる。大きな声で「時代は変わった」「昔とは違う」と言っておけばネットは盛り上がるかもしれないが、実際に現代を生きる若者たる弘海の目はごまかせない。なにもわかっちゃいない。舐めた記事書きやがって。


「くそ……」


「お、どうしたん? 小鳥遊くん」


 独り言を呟く弘海に反応したのは隣席の男子だった。


 名前はたしか……そう、淡島あわしまくんだ。弘海がひとりで席に座っているとなぜかかよく話しかけてくる、とても明るい男子。整髪料でかっちり整えられた外ハネを指先で弄りながら、にっと八重歯を覗かせて笑う。


「な、なんでもないよ。ごめん驚かせて」


「おう、そっかそっか。……あ、そうだ。小鳥遊くんはこれ、なにかわかる?」


 と、なんの脈絡もなく見せられたのは普通の携帯端末、誰がどう見てもスマホだった。なんだろう。もしかして馬鹿にされてるのか。


 しかしそのスマホを包むやけに真新しい赤い革製のケースに意識が向くと、ああ、と途端に得心がいく。自然にケースに刻まれたロックな字体の文字を読み上げた。


「……『MISA』か」


「おっ、なにっ? 小鳥遊くんけっこう知ってる感じ?」


「あ、い、いや! べつに聞いたことあるなってだけでそこまでは」


「やー、実は日曜にライブ行ってきてさ! これそんときのグッズなの! いいっしょ!」


 弘海の釈明は聞こえていないのか、淡島くんは興奮を露わに語り出す。


「マジですごかったんだよ! すげえ激しい動きしてんのにめっちゃ歌うまいし、顔かわいいし、なのにかっこいいし、マジで最高だった……‼」


「そ、そうなんだ。い、いいね。おれは詳しくないけど……」


「なになに? 『MISA』の話?」


 大きな声で話していると、やがて淡島くんと仲がいい者たちも集まってくる。

たちまち弘海の席の周りはクラスメイトたちで埋め尽くされた。


「は? ライブ行ってきたとかマジ?」

「マジマジッ。やっぱ生歌は一味違うわーッ、一番良かったのは結局『カガリビ』だけど」

「あー、なんか知ってるわそれ。たしかなんとかってアニメのやつだろ!」

「なんとかってなんだよ。ちゃんと覚えとけよ!」

「じゃあお前は覚えてんのかよ!」

「たりめーだろ。あれだろ。その、あれの……」

「覚えてねえじゃねえか(笑)」


 がやがやと盛り上がる男子たちを横目に、弘海は「失礼します……」と静かに抜け出そうとする。この場所に留まっていてはいけない。頭の奥で警鐘が鳴っていた。


「小鳥遊くんならわかるんじゃね!」


 だが遅かった。絶妙なタイミングで淡島くんからのパスを受け、弘海は「え……」と後ろを振りかえる。


 静まりかえった空気のなか、男子たちの視線は弘海に集中していた。刺すような緊張が駆け抜ける。弘海は急いで脳みそをフル回転させた。


「えーっと……ワンピとか?」


「いやそれぐらい知ってるわ!」


 淡島くんがツッコミを入れた瞬間、どわっと笑い声が広がった。


 どうにか死線を潜り抜け、安堵する暇もなく弘海は教室を出た。どくどくと心臓が早鐘を打つ。逃げるように廊下をさまよい歩きながら、不意に、ため息が漏れた。


「……なにしてんだろ、おれ」






 **






「マジでなにしてんのよ、あんた」


 母親は呆れ顔でタッパーに入った福神漬けを豪快にカレーの上へ乗せる。


 時刻は午後九時に差し掛かろうかといった頃合いだった。 


 旦那と離婚してからなにかと忙しい母親のためにと、弘海が晩御飯をつくって待っていたのが数時間前。現在はようやく帰宅してきた母親とテーブルを囲んでいる最中である。


「そういうときはさあ『もちろん知ってるぜ!』って言ってやって、そっから膨大な知識と饒舌な語りでマウント取ってやるのよ。そしたら絶対人気者になれたってのにあんたはさあ」


 ぱく、とカレーを一口。「んー、デリシャス」と頬に手を当ててもぐもぐとご満悦な様子である。まるで太ったリスだな。と弘海は冷えた表情でそれを眺めた。


「なにが人気者だよ。そんなことしたらおれは終わりだ」


「えー、でもあんた『MISA』めっちゃ詳しいじゃん」


 たしかに、弘海がかの有名シンガー『MISA』のファンであることは間違いない。それも昔からの古参ファンで、何度かライブに足を運んだことがあるほどだ。


「最近すんごい話題のアニメの主題歌歌ってんでしょ? なんだっけ、なんとかブレイカーってやつのさ」


「『サタンブレイカー』だ。間違えんな」


「そうそれ!」


 現在、社会現象レベルで若者のあいだで爆発的に人気なアニメの名前も、弘海はもちろん知っていた。放送当時は毎週リアルタイムで追っていたし、オープニング曲の『カガリビ』も暇があれば聞いている。


「そんなに好きなら話せばいいのよ。たしかに人気者は言い過ぎかもだけど、それで友達の一人くらいはできたかもしんないじゃん」


 べつに友達が欲しいわけじゃない。


 なんて言い返しても、きっとこの母親は聞いてくれないのだろう。


「とにかくさー、母さん心配なのよ。あんなに人懐っこかったあんたがさ、高校に入ってから急に無口になって、教室でもひとりぼっちとかさ……」


 中学の頃、弘海の身になにがあったのか、この母親はもちろん知っている。知っていて、あえて普通に接してくれているのだ。それは弘海も理解している。理解しているが。


「……『好き』とか、そういうんじゃない」


「え、そこ? そこなの?」


「ただアニメを観るのが習慣になってるだけ。暇だから、観てるだけだ」


「ほぇ~」


「なんだよその反応。本当だぞ? 本当に、本当なんだっ」


 言い募るが、母親は「あー、はいはい」と手をひらひらして軽く話を流す。絶対に信じていない顔だった。なんてムカつく顔だ。


 けれどこれ以上弁解してもきっと取り合ってはくれないだろう。べつにいい。誰かにわかってほしいわけじゃない。弘海は視線を落とした。


「『好き』は、もういらないんだ」


「またそれ……でもあんた、そうは言っても口ばっかりじゃないの」


 母親の呆れた眼差しはテーブルのうえ、青いケースに包まれた弘海のスマホを捉えていた。


 弘海は急いでそれをポケットに隠すと「……そんなことない」と言う。


「とにかくおれは話さない。オタバレはもう勘弁だ」


「オタクは恥ずかしいことじゃない! オタクっていうのは、たったひとつの何かがすっごく好きで、ひたすら好きで夢中になれる人のことを言うの! それって素敵なことなの!」


「母さんにとっての小説みたいに?」


「おおとも‼」


 この母親、小鳥遊風香たかなしふうかはなんとずぼらな性格に似合わず小説家などをやっていた。しかも専業でそれなりに人気作家である。


「好きが高じて職業になる。これも素敵なこと。でもこれはあたしが『小説が好きだぁ‼』って言い続けたからできたことなのよ。そうやって『好き』を形にし続けたから今のあたしがあるし、おかげでデカい息子ひとりを養えているわけで」


 実際全盛期はすごかったらしい。毎日大量のファンレターが届いていたそうだし、作品のアニメ化も果たしているのだからアニメオタク的には偉大な存在だろう。まあそんなこと、実の息子にとっては過去の栄光にすぎないが。


「おれは作家になりたいわけじゃないから」


「そういうことじゃなくてさー」


「ごちそうさま。食器は後で洗っておくから」


「ちょ! ちょいちょい! 待った待った!」


 慌てた声に、弘海は立ち上がったまま実の母親をにらむ。まだ言いたいことでもあるのか? これ以上話しても意味はないだろうに。


「……なに?」


 仏頂面の弘海とは対照的に、彼女はにまにまと笑っていた。


「ふっふっふ、そんな顔していいのかしらん? これを見なさい……!」


 これ見よがしに掲げられたのは、茶色のブックカバーに包まれた小説。だがブックカバーは少し外されており、ぺらりと指で捲られた拍子に、その表紙が見えた。


「そ、それは、まさか」


 弘海は戦慄した。


「その、まさかよ」


 にやにやと笑う母親に、弘海は食器を持つ手が震えるのを抑えられない。


「ついに手に入ったわ。ほんと、頼むのに苦労したんだから。さあ、勿論欲しいわよね? これ。なんせあんたから頼んできたんだから……ねえ?」


 このタイミングでそれを出すとは。


 なんと卑怯な。


 妙なところで抜け目がない母親に、弘海は悔しさから「ぐぎぎ……」とわかりやすく歯噛みするも……、


「感謝は?」


「……ありがとうございますッ」


 即座に平伏するのだった。

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