其之五 玄武の唸り
ゴゴゴゴゴッ……!
大地の
「
「わかりました!」
突然の緊急事態に
「お前たち、その娘以外、こやつら全員を穴へ突き落とせ。生き埋めにしてやる」
「どうなってやがる!」
二人にはそれが王智の
その揺れは少し離れた場所にいた
「どうした?」
孫堅はそれを制御して暴れかけた馬に問いかけた。以前、幽州で会った時、北の人間は馬の気持ちが分かると劉備が言っていた。しきりに頭を動かし、
「何だ、これは?」
地震というものを体験したことのない南方育ちの孫堅はただ不気味な感触を不吉なものと捉えて、馬に
夏侯惇と長生の二人は襲ってきた傭兵を全て打ち倒していた。二人だけで百人を倒したことになる。王智はそれに驚くというよりは、なかなか死なない二人の
「本当にしぶとい奴らだ。ここはお前の出番のようだ、
王智は
「油断するな。こいつただの御者じゃない」
見せかけじゃない。夏侯惇はその男が発する強烈な気を感じて、長生に言った。
「見れば分かります」
長生もそれを感じているようだ。御者の男の尋常ならぬ気が黒いオーラとなってほとばしった。一瞬それに目が行った
が、それはあえなく寸断され、折れた槍もろとも吹っ飛んだ。夏侯惇の体は大地を滑り、窯洞の
「おお、惜しい」
王智が穴に落ち
「何が惜しいだ。ふざけやがって……」
落下寸前の夏侯惇の視線の下。崩れゆく窯洞の底では蔡邕の救出に向かった劉備と
夏侯惇は上体を起こし、砂まみれになった口内をもごもごさせて
「狼野郎、牛野郎の次は御者野郎か」
なお、余裕の
「ん……?」
夏侯惇は激しい震動の中にあって、王智が馬車の小窓から平然と事態を
長生は何とか御者の男の攻撃を剣で
『あいつの周りだけ様子が変だ。あの化け物は後回しにして、あいつを黙らせる』
夏侯惇は王智に狙いを定めて駆けた。素早く敵兵の剣を拾い、王智が隠れる馬車に斬りつけた。ところが、まるで鋼鉄の
「何だと?」
「
王智は自ら御者となって
「私が
王智の馬車が腕を押さえた夏侯惇に突進した。
「こいつはまずい」
夏侯惇はようやくその身に絶体絶命感を感じた。長生は御者の男の猛攻をよく耐え、踏ん張っているが、それも時間の問題だ。夏侯惇は
だが、それで分かったことがある。王智の馬車自体が不思議な障壁で覆われていて、馬車とその周辺にだけ揺れが伝わっていない。
「玄徳、そこを出るな!」
夏侯惇は蔡邕ら住人を無事連れ出した劉備を認めて、門前に
蔡邕は両手に
それを認めた王智は、
「
馬車の向きを転じ、劉備らが留まる門へ突進した。蔡邕・蔡蓮親子以外は轢き殺すつもりだ。劉備がまた蔡邕たちを押し返した。しかし、収まらぬ地震が無慈悲に窯洞を崩壊させている。
進むこともできず、留まることもできず、進退極まった時――――。
暴走する馬車に飛び乗って、王智を蹴り飛ばした男がいた。その
その男――――孫堅によって、馬車は急停止させられた。
「こ、この暴徒め、何をするか!」
王智は自分を足蹴にした男を罵倒したはいいが、手の中にあったものがないことに気付いて
「こいつのことか?」
落し物は夏侯惇の手にあった。夏侯惇がそれを拾い上げて間もなく、地震が止んだ。
「返せ!」
王智が夏侯惇の手からそれを奪い返そうとしたが、力の源を落としてしまった生身の王智には無理な話だった。夏侯惇は身をかわして王智を思い切り殴り飛ばした。
「びえっ!」
奇妙な悲鳴を上げ、王智は今度は孫堅の前に転がって無様な姿を
「久しぶりだな、玄徳。こいつは何者だ?」
「無礼者め、私は五原太守・王智であるぞ」
土と恥辱に
「お前が王智か!」
その名を聞いた孫堅が鬼のごとく
王智。背徳の五原太守。王智が五原太守として派遣されたのは、
行方が分からなかった四神器の一つ、玄武硯は十年前、
竇統、
「――――どうやら玄武硯が鮮卑の手にあるのは間違いなさそうです」
王智から報告を受けた王甫はどうやってそれを奪還するかを考えており、このような背景をもとに鮮卑討伐軍が結成されたのだ。
檀石槐は神器の本当の価値を知らない。書芸などたしなまない鮮卑の大人にとって、それはいくらかの芸術品としての価値はあっても、所持していたところで無用の長物だった。王智は官軍の情報を売った見返りに檀石槐から玄武硯を得た。
檀石槐は代郡郡治の
大々的に鮮卑討伐を訴え出ておいて、戦果がありませんでしたでは済まされない。
官軍は消えた鮮卑を追って内陸へと深く進攻し、軍を三方に分けて捜索した。
逃げた鮮卑を
神器一つと引き換えに三万近い兵士たちの命が犠牲となった。臧旻も王甫・王智兄弟の背徳行為に命を落としそうになり、罪人に
涼州で王智の罠から生還した臧旻と再会した時、孫堅はその秘められた悪謀を聞いた。今、この男は蔡邕という大学者を暗殺しようと企んでいる。罪のない住民を巻き添えにして。孫堅の怒りが燃え上がった。
「許せん!」
「ぎゃっ」
短い悲鳴を上げ、王智はふらふらと後ずさると、窯洞の穴へ落ちて絶命した。
「玄徳」
夏侯惇はそれを見て劉備を呼んだ。そして、自分の手にしているものが何かも知らずに、それを放り投げて劉備に預け、長生の援護に走った。長生は御者の男の攻撃を何とか耐え
夏侯惇が再び参戦したのを機に、長生も反撃に出た。だが、二対一の戦いもその男にはちょうどいいハンデだった。傭兵百人を倒した二人の剣撃を受け止め、鮮やかにかわし、方天画戟の鋭い突きが夏侯惇の剣をまたもや弾き飛ばした。
「いい加減にしろ!」
夏侯惇はそのでたらめな強さに呆れて、大地を蹴った。巻き上がった雪が男の顔にかかり、その隙をついて夏侯惇が相手に組み付く。二人の体が雪原を転がり、男が夏侯惇を押しのけた。夏侯惇が
「お前の親分は死んだぞ。それでも、まだやるのか?」
夏侯惇のその一言は効果があった。御者の男が大きく息を吐いて、力を抜いた。
「……やめだ。その男に金を貰う約束だった。死んでしまっては貰えるものも貰えん。続ける意味がなくなった」
そう言うと、くるりと背を向けた。その背中に聞いた。
「お前、名は?」
「
未だ天下に
夏侯惇は危機が去ったようで去っていないのを感じて、
「太守を
追跡隊が編成される前に亡命することを決めた。もう蔡邕も反対しないだろう。
「ちょうどいいことに、安車が手に入りました」
劉備が残された王智の馬車を確認して言った。それは貴族用の
ここには
張衡は南陽郡
張衡は『
その渾天説を説明するのに作ったのが渾天儀である。これは中央に星座を刻み、ぐるぐると回転できるようにした銅球を設置し、その周囲に
もう一つ彼が発明したのが地動儀である。これは
これはヨーロッパで発明される最初の地震計より千七百年以上も早かった。
これら張衡が改良、発明した二つの器械は今でも大切に使用されていて、単颺は日々それを確認するのが日課であった。
「む?」
その日の朝、霊台に出勤した単颺は地動儀の変化に気が付いた。北側に
「北で地震があったようだな。昨日のことか……」
銅球を指でつまんで拾い上げながら、単颺が独り言を呟く。
「揺れは感じなかったから、小さな地震だろう。大きな災禍にはなるまい」
だが、それが人工的に起こされた地震であることまでは分かるはずもなく、交遊ある蔡邕が九死に一生を得る惨事だったことは想像できなかった。
黄土高原の幹線道路である
太守が行方不明になったせいで、九原の治政は統制がとれていなかった。幸いなことに、蔡邕が逃亡したという情報はまだ出回っていないようだったが、事実が知れるとすぐに追手が手配されるはずだ。追手側に管轄問題が生じるように、できるだけ早く郡境を越え、州境を越える必要がある。それに隠れるなら、できるだけ
河水を渡り、江水を越え、北の果てから南の果てへ大陸を縦断することになる。
蔡邕はのどかな土地で娘たちを育てながら、著述に専念したいという気持ちが強くなっていたし、孫堅から渡された書を見て頷いて、それに同意した。
その書は草書で書かれた「
「――――ほほぅ、ここにも崔公の心が生きていたか。……ふ~む。華陰に望有り、とな」
蔡邕はそれを受け取って喜ぶ一方、すぐにこの四字には二つの意味を含んでいることに気が付いた。そして、間もなく真意に達すると、
「――――書は
両名の草書の巧みさに深く感心するのだった。
定型を持たない自由
書は散なり。ただ心のおもむくままにして、文に書き表すべし――――束縛から解放された蔡邕も心のおもむくままに、南へと向かう。
五原の混乱は蔡邕ら一行の通過を見過ごした。が、一人ずっと後を付けてくる者があるのに孫堅も夏侯惇も気付いていた。まだ五原を抜けない内、
「たった一人だ。斬るか?」
「いや、待て。話を聞いてからだ」
「そちらは蔡智侯殿の一行とお見受けする」
その官吏は馬を下り、簡素な
「怪しい者ではない。私は
王允と名乗った男はそう言って、追手と勘違いして警戒の姿勢を見せる孫堅と夏侯惇の誤解を解こうとした。〝使君〟というのは、州刺史の尊称である。
また夏侯惇が事態をややこしくする前に、劉備が用件を尋ねる。
「何用でしょうか?」
「五原太守を
王智を斬った張本人の孫堅がやはり斬るべきだと古錠刀を抜いた。官吏にそれを追求されて、あれこれ弁解するのは面倒くさい。正当防衛を主張しても、それが頭の固い官吏に通用するかどうか疑わしい。何より今は正義も道理もまかり通らぬ世の中だ。
「待たれよ。王智を殺したことを
王允は孫堅の気を鎮めるため、優雅にそれを制しながら、自らの立場を明らかにした。
王允、
王允は十九歳で郡の官吏となり、太守の命を受け、郡内で数々の悪事を働いていた
劉質は
王允は自分を
実は
宋果という郭泰に認められた者が蔡邕の救済に助力することはできなくなって、その代わりとして現れたのが、同じく郭泰が高く評価した王允であったことは、目に見えない清らかな力が働いているのかもしれないことを信じさせた。
王允が言葉を続けた。
「鄧使君は夏侯
「それは俺のことだ」
夏侯惇が自分が送った書簡のことを思い出して言った。
夏侯惇は幷州刺史宛てに送ったのだが、それは宋果が手にすることはなく、後任の鄧盛が目を通したわけである。彼が清流派であったことが幸いした。
「そして、私は王智を追って、安陽で一部始終を見た。悪事の証拠を集めて
「それは有り難い。
当の蔡邕がそれを受け入れたので、孫堅も剣を収めた。
蔡邕は手に入れた玄武硯を
「特別なところなのですか?」
「
蔡邕は劉備に一言、そう答えた。
前漢の都として栄華を誇った長安は後漢の時代になっても、第二の都として、依然重要な都市に変わりはなかった。
首都圏の太守を特別に〝
現在の京兆尹は
「そなたが噂の鬼部尉か。容姿は人の姿をしておるな」
「
曹操は楊彪に会うや昔のことを持ち出されて
普通、面識のない無官の人間が名士であり、高官にある楊彪に会うことは叶わない。だが、曹操は清流派人士の中でも有名人だ。その活躍は清流派ネットワークや
また、楊彪の妻が
「人々の印象は今も昔のままだ。北部尉時代の暴れっぷりを
五年前の
司馬防は
「それに、今もその心は北部尉の時から変わっておらんと聞いた」
「あなた様も宦官の一党を捕縛したと聞きました」
「
京兆尹も司隷に属すので、地域内の大罪は司隷校尉に報告を上げなければならない。
「司隷校尉の人となりは存じませんが、手ぬるい追求ではせっかくの好機を生かせないかもしれません。今こそ
この時の司隷校尉は
王智の悪事が幷州から上奏されるのに併せて王翹のことが
「うむ。我等も
袁氏との繋がりがある楊彪は曹操が画策する王甫包囲網を聞き知っていた。
「それで、首尾はどんな具合ですか?」
「いま少し時間がかかりそうだ。それにしても、危うい男よ。昨年、
鴻都門学というのは、昨年宮中の鴻都門内に創立された芸術学校のことである。
書道、絵画、詩文を学ぶための学校で、推薦を受けた一部の才人たちのみが入学できた。ところが、その多くが
設置早々、鴻都門の壁に孔子の門下で学んだ十人の弟子、〝
そこで、楊彪の父の楊賜が重ねて上奏した。儒学と人徳ある者が高官に就くべきであるのに、鴻都門生を要職に就かせることは間違いであると言って、鴻都門学の廃止を訴えた。
さらに、儒学を修めた士人を用いるべきであり、宦官への偏愛を止めるようになど、いろいろ注文を付けたのである。
楊賜は以前から耳の痛いことを上奏してくる。
「今、袁氏が陽方正を尚書令に置いておくのはまずいと陛下に訴えているところだ」
尚書令は尚書台の長官をいう。尚書台は公文書を発布し、官吏の選別(人事)を
三公九卿の政策は任命された大臣たちの意志が反映されるものであったが、尚書台では直接皇帝の意志が反映される。そんな尚書台の長官に陽球がいるのは
清流派官僚たちにはそのパワー・ゲームに何としても勝利してもらわなければならない。
「そうですか。今年中にとは伝えてありますから、その間に私はもう一つ材料を調達することにします」
「鬼部尉の頭は宝剣の如く鋭いと評判だからな。皆がまた何が出てくるのか期待して待っておる」
「……鬼というのはどうでしょうか」
北部尉時代の厳法執行は人々に恐れられ、それが「鬼の曹操」とか「鬼部尉」といった異名となって人々の間で広まっていった。恐れられるのは一向に構わないが、曹操にとっての鬼とは
「鬼謀は鬼の
楊彪が適当な解釈をして言った。陳逸と
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