其之四 流刑地の底
漢が
それらを結ぶ街道も河水沿いに整備されていて、秦の時代に築かれた長城も河水沿いに延々と延びている。決して人通りの多くないその街道は長城と河水という北方異民族の侵入を防ぐ二重の防壁の間を通っていた。
東側に見える黄土高原は西方で舞い上がった砂が運ばれてきて、長年
しかし、長城や都市・住居の建設、住民の生活や燃料確保のために次々に木々が
黄土の大地は
「――――私は心配ない。それより、君を
「――――
孫堅も曹操と臧旻の間で語られた濁流派の陰謀を知って、それを
曹操・劉備・孫堅の共闘である。
涼州にいる間にまた年が明け、
孫堅は曹操・
雪が大地を覆い、街道を隠している。孫堅は楡中から朔方郡へ向かう手段として、河を選んだ。見えない清流の力が自分を導いているのだとしたら、その流れに乗ればいい。南方出身の孫堅にとって、舟で移動するのは馬同様に慣れたものであった。
楡中で
孫堅を乗せた皮筏が速度を速めた河水の流れに乗って、ぐんぐんと進んでいく。
北流した河水は
朔方郡の郡都・臨戎は北には狼山の山並みと長城がそびえ、東と南には河水の防壁があり、
が、それも昔の話だ。現在の朔方郡は東端のほんの一部を残して異民族が支配する土地となっている。だから、
安陽の北には
流刑先では〝
蔡邕は
蔡邕一家が移った集落の住居というのは普通のものとは違い、地上ではなく地下にあった。それは〝
その窯洞には、城旦に従事する者たちとその家族が暮らしていた。
『幷州からは何の応答もない。連絡が届いていないのか?』
幷州の北の果てにいる
『逃げ出すにも人手がいる。
夏侯惇は白い息を吐き出して、未だ現れない援軍を待ちわびていた。恐らく劉備は何人か義侠の者を連れてくるはずだが、その到着が遅れている。
それもそのはずで、朔方事情を知らない劉備はあちこち探し回った
「まさかこんなところで暮らしているとは……」
雪原にぽっかりと開いた穴。窯洞の地下住居を見下ろしながら、劉備には再会を心待ちにしていた人物がいた。蔡邕の娘・
蔡邕一家が洛陽を出てまだ半年だが、もう何年も会っていない気がする。彼女の顔を思い出さない日はない。直道を北上している間も密かにその思いは
彼女は平民と同じように薄青い
「
「まぁ、玄徳様ではありませんか。いったいどうしてこんなところに?」
蔡蓮も劉備をよく覚えていて、作業の手を止め、目を丸くして劉備を見上げた。
「智侯先生と芙蓉姫をお守りするために参りました」
「そうでしたか。あの
「はい、お任せください」
十七となり、より一層の
「玄徳!」
夏侯惇の隻眼が劉備の姿を捉え、早く来いという仕草をした。
「やっと来たか。遅いぞ」
「いろいろとありまして。こんなところに移っているとも知りませんでしたし……」
「おい、まさか連れてきたのはその一人だけか?」
「ええ。いろいろありまして」
夏侯惇は劉備が連れてきたのがたった一人だと知って
ともあれ、劉備と長生。そして、夏侯惇。たった三人の護衛が窯洞で蔡邕一家と共同生活を送ることになった。窯洞の
「君の義侠心には痛み入る。
蔡邕に褒められて劉備は恐縮した。理由の半分が蔡蓮だとは言えたものではないが。
「このようなところでは何かとお困りでしょう。避難の準備を整えますので、もうしばらくお待ちください」
「特に困っているわけではないよ。じっくりと読書に
意外にも蔡邕はそんなことを劉備に言って、
一見不運に思えたことが幸運に繋がったりする。どうやら蔡邕はこの流刑生活も
蔡邕や
崔寔、
文才にも
崔寔自身、五原太守になってこの地を訪れた時、
劉備の地元・涿郡では、その名を知らない者はいないという一番の賢人であるが、残念ながら崔寔は十年前に亡くなっていた。
「惜しい人物を亡くしたが、この本を読むに、まさに適所よな」
劉備を話し相手にしながらも、蔡邕は書案(文書机)に『政論』の
流刑先に蔡邕が携帯したのは、ただ本のみであった。かつて自らが複写した『政論』もその中の一つだ。内容が優れているだけでなく、それを形成する文字の美しさにも崔寔の芸才を感じたものだ。
後の学者、
「……しかし、奥方や芙蓉姫は故郷に帰りたがっているのではありませんか?」
「それもそうだが、じたばたしたところで仕方ない。遠路移動するのは楽ではないからな。ここに辿り着いたのも天命であろう。せめて春を迎えるまではここに落ち着きたい」
「そうですか……」
蔡邕救出を使命としてやってきたのに、そう言われると
「
今でも五原では紡績が盛んであった。伝えられた知恵が受け継がれてまた伝えられ、歴史を
「わかりました。では、何か御用があれば、遠慮なく
劉備も考え直すことにした。蔡蓮とともに過ごせるのなら、悪くない気もする。
蔡邕を追って五原安陽の地に来てから十数日。劉備はこの地で年明けを迎えた。
最北の流刑地でありながらも、窯洞の地下住居のおかげでそれほど厳しい寒さは感じなかった。寒風吹きすさぶこの地では、地上よりも地下の洞窟の中の方が温かい。
この地に生きる人々の生活の知恵である。
蔡邕一家のここでの生活は間もなく半年になろうとしている。が、いつまでも、こんなところに留まっていては、暗殺者がやってくるのをのうのうと待っているようなものだ。それに五原太守が
「玄徳、どこへ行く?」
「智侯先生に所用を頼まれました」
「所用って、何だ?」
「
「はぁ……」
期待はずれなことばかりが続いている。門番を担当している夏侯惇は頭を振りながら、劉備に問い
「本気で春まで待つつもりか?」
「仕方ありませんよ。先生にその気がないんですから。最近、本の執筆に取り掛かったらしくて、しばらく静かなこの土地で執筆に専念したいとも言ってます」
蔡邕は『政論』に刺激されてか、自らも
本来、著作には竹簡を用いるが、この五原の荒野には竹が自生していない。そのため、北方では木を削った木簡が代用されていた。
「そいつは困る」
「赤子もいるし、この寒さです。
徒旅というのは徒歩での移動をいう。赤子というのは流刑の直前に生まれた女児で、〝
「先日
「簡単に言わないでください。こんな
ここに来てはじめて分かったことだ。五原郡は人口が少ない上、ほとんどが庶民だ。馬車など使わない。さらに座乗可能な安車を探すとなると、それは広大な砂漠にオアシスを求めるのと同じくらい難しい。
「ったく、ここまで手間取るとは思ってもみなかった。しかし、早く脱出しないと、そろそろやばい気がする」
言ってはみたが、蔡邕が流刑地に居座って動かない場合の方策などは授かっていない。曹操もそこまで考えていなかっただろう。依然として幷州刺史からの連絡もない。いざとなったら最悪
「……あの長生って奴は何をしている?」
夏侯惇は劉備が連れてきた男の様子を尋ねた。劉備が合流した時、連れてきた兵士が一人だけだったのを見た夏侯惇はがっくりと
「皆と智侯先生の『
「あいつ、本当に信用できるのか?
共に蔡邕一家の警護に従事する中で、長生がそこらの兵士の何人分も強いのは夏侯惇にも分かった。問題は信用できるかどうかだ。聞けば、役人を殺した前科持ちだという。自分にも前科があるのを棚に上げて、夏侯惇はそれを
「それは大丈夫です」
それには劉備はなぜか自信を持って答えた。
「大丈夫ですが……」
言った劉備が地平線に巻き上がる
振り返った夏侯惇の
「言わんこっちゃない。
夏侯惇はそれが何か、すぐに分かった。
「何事でしょうか?」
その禍の一団には門前で劉備が応対した。夏侯惇はその隻眼で真意を見抜こうと相手を
「こちらに蔡智侯殿がいらっしゃると聞いた。本当か?」
相手は馬車の小窓から顔を
「どちら様ですか?」
「五原太守の
〝
穏やかな顔をして言うが、その男は心の内に濁々としたものを隠した宦官・
官職の任命権は独立部署の
王智がわざわざ五原という辺境の太守を選んだ理由はそれなりの
北の国境に接する五原では、実は鮮卑との交易が盛んだった。鮮卑は国を侵す敵国であるが、商人同士の交易は行われていたのだ。〝
しかし、全てが正規に取引されるわけではない。中にはわけありの物が裏で取引される。いわゆるブラック・マーケットである。それは人気のない国境付近で行われた。漢の悪徳商人は横流しで手に入れた軍需物資や
悪徳商人らはこの闇市場を
劉備が尋ねる。
「どのような
「かねがね蔡智侯殿のような高名な人物とお会いしたいと思っていた。今は罪人の身とはいえ、智侯殿は天下の奇才。新年の祝賀会を用意したので、招待いたしたい」
見え透いた嘘だ。蔡邕が安陽に
「酒に毒でも仕込まれたのか?」
夏侯惇が口を
「申し訳ありません。先生は
「そんな嘘は必要ない。安心せよ。毒も入れておらん。智侯殿をもてなしたいだけじゃ」
「その必要もない。先生は
また夏侯惇だ。
「先程から
「
「望むのなら、そうしてやろう」
目を細めて表情を消す。決定権は自分にあるという
夏侯惇の態度はその王智に極悪な決定をさせた。王智が車の上から兵士たちに命令を下す。
「蔡智侯殿は酒宴に招待する。残りは皆殺しにして、この穴ごと埋めてしまえ」
兵士たちが一斉に剣を抜いて、門を突破しようと突き進んできた。顔を歪める劉備。
「何でややこしくするんですか?」
事態を悪化させた夏侯惇に劉備が文句を言う。例のごとく槍の
「逆にすっきりしただろ。奴らが黙って引き下がるわけがない。どのみちこうなったんだ!」
握っていた槍を構えて前に進み出、穂先を敵へ向ける。戦って活路を開くのが夏侯惇だ。できるだけ事を荒立てずに解決策を探ろうとした劉備の非難はすでに感情を高ぶらせた夏侯惇には届かない。劉備も渋い表情で仕方なく剣を抜く。
お陰で圧倒的不利な乱闘沙汰に発展したが、それを歓迎した夏侯惇は門前に立ちはだかって、王智の兵を寄せ付けなかった。槍で突きまくり、
夏侯惇の腕前はさすがで、あっという間に十数人を打ち倒した。それを見る王智の表情は変わらない。が、
「
王智の声に応えて、一人の大男が進み出た。黒装束を
「あの時の牛野郎か!」
夏侯惇が叫んだ。都の蔡邕邸を夜襲した
「しまった!」
複数の敵兵に斬りかかられて、夏侯惇も劉備もそれを追えない。その間にも猛牛の男は穴底の土壁に
が、突入したかと思った次の瞬間、猛牛の男が転がり出た。顔面を押さえて膝を付く。
「せっかくの講義を騒乱で汚すとは、
続いて出てきたのは、長生。もともと紅い顔をさらに紅潮させて
後ろは蔡邕のいる穴倉部屋だ。長生は逃げない。大男同士の衝突。長生は猛牛男の角を両手で
バキッと何かが壊れる音がし、猛牛男の巨体が地上へと
「牛角、その娘を連れて来い!」
猛牛の力を失くした百鬼の男は長生に背を向けると、父を助ける蔡蓮を捕まえた。
「きゃああ、お父様!」
「
百鬼の男は片手で蔡蓮の細い体を担ぎ上げ、門前の夏侯惇と劉備に突進して脱出を図った。夏侯惇と劉備はそれを阻止しようと構えると、何を思ったか、百鬼の男は二人に蔡蓮を放り投げるという手段でその場を突破した。劉備が蔡蓮の体を受け止める。
「どこへ行く、牛角!」
角を折られて混乱した百鬼の男は王智の声を無視して、そのまま誰もいない荒野に突進していった。
「逃げるな、牛野郎!」
夏侯惇がその背中に
馬車上の王智は逃げ去った百鬼の男を冷たい視線で追いながら、余裕の口ぶりで呟いた。
「兄上も使えない男をよこしてくれたものよ」
その男、
「芙蓉姫、お
「ええ、大丈夫です」
劉備の問いかけに蔡蓮は
「助太刀します」
「当たり前だ!」
答えたのは夏侯惇で、再び猛牛男を取り逃がした悔しさを荒々しい語気で表現した。そして、長生が敵兵に斬り込んだのを機に一息ついた。
「それにしてもしつこい野郎だ。地の果てまで追ってきたか」
「
「ちっ、あいつは俺の手で
夏侯惇は左目の傷を
長生も
「なかなかの奴を雇ったじゃないか。これは負けていられん」
夏侯惇は首をごりっと鳴らして、ほんの
「お引き取り願おう」
夏侯惇は槍を地面に立て、車に座したまま騒動を観戦していた王智に告げた。
「
王智はすでに半分以上の傭兵が倒されたというのに、全く慌てる様子はなかった。その左手に
突如として始まった大地の震動。それが劉備や夏侯惇だけでなく、その場にいる全ての者の足下を揺さぶった。
「な、何だ?」
夏侯惇が初め微動だった震動が次第に大きくなってくる感覚に驚いて言った。
「地動くものは陰盛んにして陽を侵し、臣下の制を越ゆるの致す所なり」
窯洞の地下住居でそれを感じた蔡邕が
「邪臣の陰気強大にして度を超せば、地動く……」
それに続けて地上の劉備が呟いたのは、蔡邕が言った地震に対しての要約。
王智が行おうとしたのは、皇帝の威光さえ揺るがす邪念の為す術――――。
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