其之四 流刑地の底

 金城きんじょう郡の楡中ゆちゅう北地ほくち郡の富平ふへい朔方さくほう郡の臨戎りんじゅう五原ごげん郡の九原きゅうげん……。

 漢がりょうへい州を支配して、設置された郡都の多くは河水がすい(黄河)沿いに置かれた。

 それらを結ぶ街道も河水沿いに整備されていて、秦の時代に築かれた長城も河水沿いに延々と延びている。決して人通りの多くないその街道は長城と河水という北方異民族の侵入を防ぐ二重の防壁の間を通っていた。

 東側に見える黄土高原は西方で舞い上がった砂が運ばれてきて、長年堆積たいせきしてできた地形である。漢代においては、まだ森林と草原で覆われた豊かな土地であった。

 しかし、長城や都市・住居の建設、住民の生活や燃料確保のために次々に木々が伐採ばっさいされ、無計画な放牧が行われたせいで森も草原も姿を消しつつある。

 黄土の大地はやわらかく、草木を失った大地は風雨と河水に浸食されて、刻々と形を変える。そして、河水は削られた土砂をその中に呑み込みながら、ちょうどこの辺りから少しずつ濁り始めるのである。

 臧旻ぞうびん孫堅そんけんに言った。

「――――私は心配ない。それより、君を西域せいいきに出して国を離れさせるのはしい。文台ぶんだいよ、戻って国のために力を尽くすのだ」

 曹操そうそうも孫堅に言った。

「――――蔡智侯さいちこうを救う手を打ってはいるが、万全ではない。事はどう転ぶか分からん。君が行ってくれるのであれば、心強い。オレも安心して別件に専念できる」

 孫堅も曹操と臧旻の間で語られた濁流派の陰謀を知って、それを阻止そしするために動くのを快諾かいだくした。劉備りゅうびに再び手を貸すのも悪くないと思った。

 曹操・劉備・孫堅の共闘である。

 涼州にいる間にまた年が明け、光和こうわ二(一七九)年となった。

 孫堅は曹操・夏侯淵かこうえんとともに河西回廊かせいかいろうを引き返して、金城郡の楡中で別れた。

 雪が大地を覆い、街道を隠している。孫堅は楡中から朔方郡へ向かう手段として、河を選んだ。見えない清流の力が自分を導いているのだとしたら、その流れに乗ればいい。南方出身の孫堅にとって、舟で移動するのは馬同様に慣れたものであった。

 楡中で運漕うんそうの一人を雇った。運漕とは、いわゆる水運業者のことで、この辺りの運漕たちは皮筏かわいかだで物資を河水沿岸に運搬するのを生業なりわいとしていた。皮筏は乾燥させた羊の皮に空気を入れて浮き袋のようにしたものを、いくつか連結させて作った独特な筏のことである。

 孫堅を乗せた皮筏が速度を速めた河水の流れに乗って、ぐんぐんと進んでいく。


 北流した河水は狼山ろうざん山塊さんかいに行く手をはばまれ、東へと向きを変える。そこに狼山から出る幾筋いくすじもの流れが合流して、乾いた大地に北のオアシスを作り出していた。

 朔方郡の郡都・臨戎は北には狼山の山並みと長城がそびえ、東と南には河水の防壁があり、かたわらには屠申沢としんたくという湖があった。狼山から流れ出る河川が森と草原を作り、それらの恵みが方々から流れてきた人々に新たな農耕地を与えた。

 が、それも昔の話だ。現在の朔方郡は東端のほんの一部を残して異民族が支配する土地となっている。だから、蔡邕さいよう身柄みがらもそんな朔方ではなく、朔方郡境に近い五原郡安陽あんよう県にあった。もとの朔方郡民は安陽に移住して暮らしていたのだ。

 安陽の北には陰山いんざんの山並みがそびえている。それに沿って昔の長城が連なっている。

 流刑先では〝城旦じょうたん〟という苦役くえきが科された。長城の修繕しゅうぜんを行う一方で、異民族の侵攻がないかを寒空の下、烽火台ほうかだい(見張り台)で見張るのである。

 蔡邕は類稀たぐいまれな書才を皇帝に愛されていたので、城旦には就かず、その地で『後漢記ごかんき』の編纂へんさんを続けることを特別に許されていた。

 蔡邕一家が移った集落の住居というのは普通のものとは違い、地上ではなく地下にあった。それは〝窯洞ようどう〟という特別な住居で、軟らかい黄土が積もった山腹に横穴を掘っただけの洞窟どうくつ住居である。時には大地に直径数メートルの巨大な縦穴を掘り、さらにその穴壁を横に掘り進んで作られることもあった。蔡邕が住まうことになった窯洞はこのタイプで、天然の窪地くぼちを利用したものであった。地上とは一本の坂道でつながり、坂に門を作って出入りを制限すれば、自衛に都合がよかったし、異民族の侵攻があっても、地平には一見何もないように見えた。が、見方によってはこの窯洞は地下の牢獄のようなものだ。一本の道をふさげば、逃げ出すこともできない。地上からは下を一望できるし、軟禁や監視には都合つごうが良かった。

 その窯洞には、城旦に従事する者たちとその家族が暮らしていた。邏卒らそつ(見回りの兵士)が定期的にやってくるが、常時監視されているわけではない。

『幷州からは何の応答もない。連絡が届いていないのか?』

 幷州の北の果てにいる夏侯惇かこうとんはこの時点で幷州刺史しし宋果そうかがすでに罷免ひめんされているとは知らずにいた。

『逃げ出すにも人手がいる。玄徳げんとくめ、何をもたもたしている……』

 夏侯惇は白い息を吐き出して、未だ現れない援軍を待ちわびていた。恐らく劉備は何人か義侠の者を連れてくるはずだが、その到着が遅れている。

 それもそのはずで、朔方事情を知らない劉備はあちこち探し回った挙句あげく、ようやく安陽にその所在をつかんだのだった。そして、三日後。劉備が現れた。長生ちょうせい一人をともなって。

「まさかこんなところで暮らしているとは……」

 雪原にぽっかりと開いた穴。窯洞の地下住居を見下ろしながら、劉備には再会を心待ちにしていた人物がいた。蔡邕の娘・蔡蓮さいれんである。

 蔡邕一家が洛陽を出てまだ半年だが、もう何年も会っていない気がする。彼女の顔を思い出さない日はない。直道を北上している間も密かにその思いはつのるばかりで、ついつい一日の道程を伸ばしたものだ。ついにその蔡蓮の姿を拝むことができた。

 彼女は平民と同じように薄青い粗衣そいに身を包んで、先日の砂嵐で吹き込んだ砂をほうきで外にき出しているところだった。顔は砂埃すなぼこりで汚れているが、その美しさは隠せない。劉備は一目でそれが蔡蓮だと分かり、少し高揚しながら彼女に声をかけた。

芙蓉ふよう姫、お久しぶりでございます」

「まぁ、玄徳様ではありませんか。いったいどうしてこんなところに?」

 蔡蓮も劉備をよく覚えていて、作業の手を止め、目を丸くして劉備を見上げた。

「智侯先生と芙蓉姫をお守りするために参りました」

「そうでしたか。あの隻眼せきがんのお方が後でお仲間が来るとおっしゃっていましたが、玄徳様のことだったのですね。遠路遥々はるばる、本当に有り難いことです。どうぞよろしくお願い致します」

「はい、お任せください」

 十七となり、より一層の美貌びぼうたたえた蔡蓮の、その透き通るような声と素直な気持ちに魅了された劉備は浮つく気持ちを抑えて答えた。

「玄徳!」

 夏侯惇の隻眼が劉備の姿を捉え、早く来いという仕草をした。

「やっと来たか。遅いぞ」

「いろいろとありまして。こんなところに移っているとも知りませんでしたし……」

「おい、まさか連れてきたのはその一人だけか?」

「ええ。いろいろありまして」

 夏侯惇は劉備が連れてきたのがたった一人だと知って愕然がくぜんとする。

 ともあれ、劉備と長生。そして、夏侯惇。たった三人の護衛が窯洞で蔡邕一家と共同生活を送ることになった。窯洞の穴倉あなぐら部屋は狭いが、外気を遮断して温かく保たれている。リラックスした蔡邕が劉備を迎えて言った。

「君の義侠心には痛み入る。子幹しかんはまこと良い弟子を養育したものだな」

 蔡邕に褒められて劉備は恐縮した。理由の半分が蔡蓮だとは言えたものではないが。

「このようなところでは何かとお困りでしょう。避難の準備を整えますので、もうしばらくお待ちください」

「特に困っているわけではないよ。じっくりと読書にけり、書に没頭する。それができれば、贅沢ぜいたくというものよ。人間万事ばんじ塞翁さいおうが馬という。この生活もそう悪くない」

 意外にも蔡邕はそんなことを劉備に言って、かすかに笑った。黄土で薄汚れた粗衣を気にする素振そぶりはない。もともと質素な暮らしをしていた蔡邕である。官職に就いて都に居を構えるようになってからも、蔡邕一家の暮らしぶりは実に質素だった。

 ことわざで知られる〝塞翁が馬〟は後漢の『淮南子えなんじ』という書物に出て来る故事である。

 一見不運に思えたことが幸運に繋がったりする。どうやら蔡邕はこの流刑生活もわざわい転じて福としているらしい。心の持ちようで人生は変わる。

 蔡邕や盧植ろしょくなどの学者や清流派官僚に尊敬される人物に崔寔さいしょくという者がいた。

 崔寔、あざな元始げんし涿たく安平あんぺいの人である。官吏の才は余りあると言われた俊傑しゅんけつで、まつりごとに明るく軍略にもけ、あらゆる学問に通じていた。東観とうかんでの校書こうしょに従事したこともあり、書の名人でもあったところは蔡邕と同じである。

 文才にもひいでていた崔寔は時世じせいにかなった政治評論を『政論せいろん』という著書にまとめた。その中で訴えたことの一つがゆう・幷・涼州などの広土過疎こうどかそ地域の積極的な開発である。

 崔寔自身、五原太守になってこの地を訪れた時、生業なりわいを持たず、衣服もなく、貧困にあえぐ民が多いのを知った。彼は五原の土壌があさ栽培さいばいに最適なのを知って、郡が備蓄している物資を売り払い、その資金で麻を植えさせた。紡績ぼうせき道具をそろえ、地元民に紡績技術を習得させる一方、長城を修復し、烽火台(狼煙台と見張り台を兼ねた施設)を新たに建設して異民族からの侵略を防ぎ、その治績は辺境第一と称えられた。

 劉備の地元・涿郡では、その名を知らない者はいないという一番の賢人であるが、残念ながら崔寔は十年前に亡くなっていた。

「惜しい人物を亡くしたが、この本を読むに、まさに適所よな」

 劉備を話し相手にしながらも、蔡邕は書案(文書机)に『政論』の竹簡ちくかんを広げ、その複写に余念がなかった。写本しゃほんを市で売れば、いくらかの金に換えられる。

 流刑先に蔡邕が携帯したのは、ただ本のみであった。かつて自らが複写した『政論』もその中の一つだ。内容が優れているだけでなく、それを形成する文字の美しさにも崔寔の芸才を感じたものだ。

 後の学者、仲長統ちゅうちょうとうあざな公理こうりはこの『政論』に大きな影響を受け、およそ人たる者その一通を写して側に置くべし――――そう絶賛し、自らも『昌言しょうげん』という政治評論をあらわした。

「……しかし、奥方や芙蓉姫は故郷に帰りたがっているのではありませんか?」

「それもそうだが、じたばたしたところで仕方ない。遠路移動するのは楽ではないからな。ここに辿り着いたのも天命であろう。せめて春を迎えるまではここに落ち着きたい」

「そうですか……」

 蔡邕救出を使命としてやってきたのに、そう言われると拍子ひょうし抜けしてしまう。

きらびやかな都の中におっては見えぬこともある。このような幽寂ゆうじゃくの地に来てはじめて見えることもある。崔公のたましいに導かれておるのかもしれんな……」

 今でも五原では紡績が盛んであった。伝えられた知恵が受け継がれてまた伝えられ、歴史をつむいでいく。蔡邕は遠い僻地へきちにありながら、できるだけ多くの写本を全国に配布することで政道を正し、『後漢記』の編纂を進めて、できるだけ多くの民を教化することを流刑中の使命としていた。

「わかりました。では、何か御用があれば、遠慮なくおっしゃってください」

 劉備も考え直すことにした。蔡蓮とともに過ごせるのなら、悪くない気もする。


 蔡邕を追って五原安陽の地に来てから十数日。劉備はこの地で年明けを迎えた。

 最北の流刑地でありながらも、窯洞の地下住居のおかげでそれほど厳しい寒さは感じなかった。寒風吹きすさぶこの地では、地上よりも地下の洞窟の中の方が温かい。

 この地に生きる人々の生活の知恵である。

 蔡邕一家のここでの生活は間もなく半年になろうとしている。が、いつまでも、こんなところに留まっていては、暗殺者がやってくるのをのうのうと待っているようなものだ。それに五原太守が奸物かんぶつだ。夏侯惇の懸念けねんはそこにあった。

「玄徳、どこへ行く?」

「智侯先生に所用を頼まれました」

「所用って、何だ?」

まき集めです。ついでに木簡もっかんに使えそうなものを探しに行きます」

「はぁ……」

 期待はずれなことばかりが続いている。門番を担当している夏侯惇は頭を振りながら、劉備に問いただす。下からは優雅な琴の音色ねいろが聞こえてくる。

「本気で春まで待つつもりか?」

「仕方ありませんよ。先生にその気がないんですから。最近、本の執筆に取り掛かったらしくて、しばらく静かなこの土地で執筆に専念したいとも言ってます」

 蔡邕は『政論』に刺激されてか、自らも著述ちょじゅつに取り掛かった。『琴操きんそう』という琴の楽曲に関する本を記し始めて、劉備に大量の木簡を集めさせようとしているのである。

 本来、著作には竹簡を用いるが、この五原の荒野には竹が自生していない。そのため、北方では木を削った木簡が代用されていた。

「そいつは困る」

「赤子もいるし、この寒さです。徒旅とりょではどのみち難しいですよ」

 徒旅というのは徒歩での移動をいう。赤子というのは流刑の直前に生まれた女児で、〝えん〟と名付けられた。蔡邕の妻は出産直後に何もない北の大地へ送られたせいもあり、産後の肥立こえだちがよくない。そのせいもあって、蔡邕はあえて動こうとしたがらない。

「先日安車あんしゃを調達に行ったんじゃなかったのか?」

「簡単に言わないでください。こんな田舎いなかじゃ安車を見つけるのも一苦労なんですよ」

 ここに来てはじめて分かったことだ。五原郡は人口が少ない上、ほとんどが庶民だ。馬車など使わない。さらに座乗可能な安車を探すとなると、それは広大な砂漠にオアシスを求めるのと同じくらい難しい。

「ったく、ここまで手間取るとは思ってもみなかった。しかし、早く脱出しないと、そろそろやばい気がする」

 言ってはみたが、蔡邕が流刑地に居座って動かない場合の方策などは授かっていない。曹操もそこまで考えていなかっただろう。依然として幷州刺史からの連絡もない。いざとなったら最悪おどしてでも……そんなことを頭の片隅で考えながら、

「……あの長生って奴は何をしている?」

 夏侯惇は劉備が連れてきた男の様子を尋ねた。劉備が合流した時、連れてきた兵士が一人だけだったのを見た夏侯惇はがっくりとこうべを垂れたものだ。

「皆と智侯先生の『左伝さでん』の講義を聞いています」

「あいつ、本当に信用できるのか? 土壇場どたんばで裏切ったりしないだろうな?」

 共に蔡邕一家の警護に従事する中で、長生がそこらの兵士の何人分も強いのは夏侯惇にも分かった。問題は信用できるかどうかだ。聞けば、役人を殺した前科持ちだという。自分にも前科があるのを棚に上げて、夏侯惇はそれを危惧きぐする。

「それは大丈夫です」

 それには劉備はなぜか自信を持って答えた。

「大丈夫ですが……」

 言った劉備が地平線に巻き上がる砂煙すなけむりを認めて、夏侯惇に目配めくばせした。

 振り返った夏侯惇の隻眼せきがんもそれを捉えた。

「言わんこっちゃない。わざわいがやってきたようだ……」

 夏侯惇はそれが何か、すぐに分かった。


 軒車けんしゃ(貴族用馬車)が一台と百人ほどの兵。雪原をき分けて、馬車が大地にぽっかりと開いた窪地くぼちふちに横付けされた。

「何事でしょうか?」

 その禍の一団には門前で劉備が応対した。夏侯惇はその隻眼で真意を見抜こうと相手をにらむ。

「こちらに蔡智侯殿がいらっしゃると聞いた。本当か?」

 相手は馬車の小窓から顔をのぞかせて劉備に下問した。つまり、そういう身分の人間だ。知っていて来たはずだから、下手にとぼけて相手の神経を逆撫さかなでするのは得策ではない。

「どちら様ですか?」

「五原太守の王智おうちである」

奸知かんちは英知に及ばず――――〟。曹操は蔡邕が朔方に流刑に処された後、予言の文句が王智が蔡智侯の暗殺をたくらむことをほのめかしていることに気が付いた。

 穏やかな顔をして言うが、その男は心の内に濁々としたものを隠した宦官・王甫おうほの弟である。奸知とはこの男を指すのだ。兄の権勢をたのめば、中央の官職や地方の郡太守に就くのは容易たやすい。

 官職の任命権は独立部署の尚書台しょうしょだいにあるが、余程堅物かたぶつの清流派官僚が尚書令に就いていない限り、圧力と賄賂わいろ駆使くしすれば、大概はコントロールできた。

 王智がわざわざ五原という辺境の太守を選んだ理由はそれなりの旨味うまみがあったからだ。

 北の国境に接する五原では、実は鮮卑との交易が盛んだった。鮮卑は国を侵す敵国であるが、商人同士の交易は行われていたのだ。〝互市ごいち〟というマーケットが開かれ、正規の交易市場として容認されていた。崔寔が紡績技術を育成したお陰で、五原には麻製品が名産としてあり、それがよい輸出品になった。他にも食糧や陶器、絹織物などが市に並び、鮮卑側は主に羊や羊毛を売った。

 しかし、全てが正規に取引されるわけではない。中にはわけありの物が裏で取引される。いわゆるブラック・マーケットである。それは人気のない国境付近で行われた。漢の悪徳商人は横流しで手に入れた軍需物資や解池かいちなどで密造された塩を輸出し、鮮卑は漢族から略奪し、ただ同然で手に入れた窃盗品や人質ひとじちとして連れ去った人間を売るのである。漢の悪徳商人はそれらを安価で仕入れ、都市で高値で売りさばいて暴利を得るのだ。

 悪徳商人らはこの闇市場をつぶされたくない。ゆえに、濁流派官僚を支援し、太守に賄賂を贈って闇商売を黙認してもらおうとした。王智はさらに五原は侵さぬという鮮卑族の密約を取り付けていて、ブラック・マーケットの保護に一役買っていた。悪徳商人にとっては名太守であるのだ。当然であるが、それとは違う使命も帯びている。

 劉備が尋ねる。

「どのような御用ごようですか?」

「かねがね蔡智侯殿のような高名な人物とお会いしたいと思っていた。今は罪人の身とはいえ、智侯殿は天下の奇才。新年の祝賀会を用意したので、招待いたしたい」

 見え透いた嘘だ。蔡邕が安陽にとどめ置かれたのも、王智の手回しによる。

「酒に毒でも仕込まれたのか?」

 夏侯惇が口をはさんだ。王智がむっとする。劉備がそれを取りつくろう。

「申し訳ありません。先生は只今ただいま病に伏せっております。また次の機会に……」

「そんな嘘は必要ない。安心せよ。毒も入れておらん。智侯殿をもてなしたいだけじゃ」

「その必要もない。先生はけがれた俗物ぞくぶつとは一切お話にならん。引き取られよ」

 また夏侯惇だ。いやしい人間に二度までも楯突たてつかれて、王智の顔が怒りにゆがんだ。

「先程から無礼千万ぶれいせんばんな奴め。殺されても文句は言えんぞ」

はなからそのために連れてきた兵だろうが?」

「望むのなら、そうしてやろう」

 目を細めて表情を消す。決定権は自分にあるという傲慢ごうまんさがにじみ出ている。

 夏侯惇の態度はその王智に極悪な決定をさせた。王智が車の上から兵士たちに命令を下す。

「蔡智侯殿は酒宴に招待する。残りは皆殺しにして、この穴ごと埋めてしまえ」

 兵士たちが一斉に剣を抜いて、門を突破しようと突き進んできた。顔を歪める劉備。

「何でややこしくするんですか?」

 事態を悪化させた夏侯惇に劉備が文句を言う。例のごとく槍のを地面にトントンと打ち付け、戦闘開始の合図を示す夏侯惇。

「逆にすっきりしただろ。奴らが黙って引き下がるわけがない。どのみちこうなったんだ!」

 握っていた槍を構えて前に進み出、穂先を敵へ向ける。戦って活路を開くのが夏侯惇だ。できるだけ事を荒立てずに解決策を探ろうとした劉備の非難はすでに感情を高ぶらせた夏侯惇には届かない。劉備も渋い表情で仕方なく剣を抜く。

 お陰で圧倒的不利な乱闘沙汰に発展したが、それを歓迎した夏侯惇は門前に立ちはだかって、王智の兵を寄せ付けなかった。槍で突きまくり、ぎ倒しまくる。敵の侵入を制限できる窯洞なら、兵の百人くらい余裕で相手にできると踏んだのだ。

 夏侯惇の腕前はさすがで、あっという間に十数人を打ち倒した。それを見る王智の表情は変わらない。が、

牛角ぎゅうかく!」

 王智の声に応えて、一人の大男が進み出た。黒装束をまとった男。それは倒れた兵士を踏み越えて猛突進してきた。頭には猛牛の角を生やしている。

「あの時の牛野郎か!」

 夏侯惇が叫んだ。都の蔡邕邸を夜襲した百鬼ひゃっきの大男。あらゆる者を押し潰す怪力の暗殺者。夏侯惇と劉備はその圧力を身をひるがえしてかわしたが、その男は突進を止めなかった。そして、それは木製の門扉もんぴを軽々と突き破り、その勢いのまま、窯洞の底へ向かった。

「しまった!」

 複数の敵兵に斬りかかられて、夏侯惇も劉備もそれを追えない。その間にも猛牛の男は穴底の土壁にえ付けられた扉に向かって突進し、それを突き破った。

 が、突入したかと思った次の瞬間、猛牛の男が転がり出た。顔面を押さえて膝を付く。

「せっかくの講義を騒乱で汚すとは、無粋ぶすいやからめ」

 続いて出てきたのは、長生。もともと紅い顔をさらに紅潮させて憤激ふんげきしている。

 豪拳ごうけんなぐり飛ばされた大男はそれに怒り狂ったように立ち上がり、こめかみから頭頂部に向かってそそり立つ二本の角を長生に向けて、闘牛と化して猛突進した。

 後ろは蔡邕のいる穴倉部屋だ。長生は逃げない。大男同士の衝突。長生は猛牛男の角を両手でつかんで受け止めた。踏ん張った足が黄土を削り取りながら滑る。長生は強烈な圧力に押し込まれながらも、顔を真っ赤にしてそれを豪力ごうりきじり投げた。

 バキッと何かが壊れる音がし、猛牛男の巨体が地上へとつながる坂道の方へ激しく転がった。砂煙がもうもうと立ち上がり、窯洞の底を包む。長生は一瞥いちべつもせず、右手の中に残った戦利品を投げ捨てた。捩じり投げた衝撃で猛牛男の角の一本がへし折れたのだ。途端に猛牛男の圧力が弱まった。今度は頭骨を押さえながら、弱々しく立ち上がった。その隙に蔡蓮が蔡邕とその場にいた住民を対面の部屋へと誘導する。

 貪欲どんよくな王智の視線が目ざとく蔡蓮の美貌びぼうを捉える。それは不毛の大地に咲いた一輪の花のようだ。こんなむさ苦しい場所にこんな美女が隠れていたとは。まだ若いが、是非ともめかけにしよう。王智は蔡蓮を指差して、

「牛角、その娘を連れて来い!」

 猛牛の力を失くした百鬼の男は長生に背を向けると、父を助ける蔡蓮を捕まえた。

「きゃああ、お父様!」

芙蓉ふよう!」

 百鬼の男は片手で蔡蓮の細い体を担ぎ上げ、門前の夏侯惇と劉備に突進して脱出を図った。夏侯惇と劉備はそれを阻止しようと構えると、何を思ったか、百鬼の男は二人に蔡蓮を放り投げるという手段でその場を突破した。劉備が蔡蓮の体を受け止める。

「どこへ行く、牛角!」

 角を折られて混乱した百鬼の男は王智の声を無視して、そのまま誰もいない荒野に突進していった。

「逃げるな、牛野郎!」

 夏侯惇がその背中に罵声ばせいを浴びせたが、その男はもう帰って来なかった。

 馬車上の王智は逃げ去った百鬼の男を冷たい視線で追いながら、余裕の口ぶりで呟いた。

「兄上も使えない男をよこしてくれたものよ」

 その男、青牛角せいぎゅうかくは王甫の指示で五原に派遣された。都・洛陽で暴れた百鬼は一部に過ぎない。曹操の摘発を避けてそれらも全国へ散らばり、百鬼は新たな計画のために動き始めていた。

「芙蓉姫、お怪我けがはありませんか?」

「ええ、大丈夫です」

 劉備の問いかけに蔡蓮はうなずいて答えた。蔡蓮は劉備より一つ年下で、共に石経せきけい写経しゃきょうして以来、二人は親密になった。劉備の方が蔡蓮に対して密かな恋心をいだくようになったわけだが、劉備が蔡邕救出に名乗りを挙げた理由の一つは、蔡蓮の存在があったからだ。そこへ長生が猛牛男を追って地上へ上がってきて、劉備に言った。

「助太刀します」

「当たり前だ!」

 答えたのは夏侯惇で、再び猛牛男を取り逃がした悔しさを荒々しい語気で表現した。そして、長生が敵兵に斬り込んだのを機に一息ついた。

「それにしてもしつこい野郎だ。地の果てまで追ってきたか」

人狼じんろうの男は幽州まで追ってきましたよ」

「ちっ、あいつは俺の手でとどめを刺してやりたかったぜ」

 夏侯惇は左目の傷をさすりながら言った。右目は長生の動きを追っている。

 長生もまれにみる武勇の持ち主で、劉備と夏侯惇が交わした二、三の会話の内に劉備に語った言葉以上の戦果を挙げていた。

「なかなかの奴を雇ったじゃないか。これは負けていられん」

 夏侯惇は首をごりっと鳴らして、ほんのわずかな休憩を切り上げると、槍を片手に敵兵の中に突っ込んだ。絶体絶命感が欠如している夏侯惇の台詞せりふに劉備は首をかしげたくなった。だが、それもそのはずで、夏侯惇と長生の二人だけで易々と半分以上の兵士を打ち倒してしまったのだから、劉備はその二人の強さに驚きを隠せなかった。

「お引き取り願おう」

 夏侯惇は槍を地面に立て、車に座したまま騒動を観戦していた王智に告げた。

下賤げせん分際ぶんざいで、しぶといではないか。せっかく来たのだし、少し遊んでやろう」

 王智はすでに半分以上の傭兵が倒されたというのに、全く慌てる様子はなかった。その左手にせられた黒い物体をで、邪念を込めた。地が震える。地震。

 突如として始まった大地の震動。それが劉備や夏侯惇だけでなく、その場にいる全ての者の足下を揺さぶった。

「な、何だ?」

 夏侯惇が初め微動だった震動が次第に大きくなってくる感覚に驚いて言った。

「地動くものは陰盛んにして陽を侵し、臣下の制を越ゆるの致す所なり」

 窯洞の地下住居でそれを感じた蔡邕がつぶやいた。

「邪臣の陰気強大にして度を超せば、地動く……」

 それに続けて地上の劉備が呟いたのは、蔡邕が言った地震に対しての要約。

 王智が行おうとしたのは、皇帝の威光さえ揺るがす邪念の為す術――――。

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