其之二 河西僥倖

 幽州で鮮卑軍と戦った後、孫堅そんけんは幷州を横断し、遥か涼州に至っていた。

 臧旻ぞうびん行方ゆくえを追って東から西へ、実に五千里(約二千キロ)、一年の歳月をかけた大移動であった。

 幷州で捕らえた鮮卑せんぴ兵から聞いた情報では、臧旻は捕虜となって中部鮮卑の本拠へ移送される途中で馬を奪い、涼州方面へ逃げ出したということだった。

 そして、孫堅の分厚い忠義心はついに報われる。涼州の酒泉しゅせん禄福ろくふくというめでたい地名を与えられた場所で、孫堅にも福がもたらされたのだ。臧旻に再会したのである。

 酒泉郡は河水がすいの西方、前漢の武帝の時代に置かれた河西かせい四郡のうちの一つであり、禄福県に郡治が置かれている。

 まだ河水の西側が匈奴きょうどの領地であった頃、武帝は強大な匈奴に対抗するため、腹心の張騫ちょうけんを遥か西方の大月氏だいげっしに派遣した。

 大月氏とはその昔、匈奴に追われて西遷した民族である。匈奴に対して恨みがあるはずなので、同盟を結んで匈奴を挟み撃ちにしようと考えたのだ。

 しかし、張騫は大月氏に向かう途中、匈奴に捕えられ、長年拘留こうりゅうされる。

 何とか脱出に成功して大月氏に到着した張騫だったが、大月氏は匈奴の挟撃作戦には同意しなかった。張騫は帰ってそれを武帝に報告した。張騫の話を聞いた武帝は喜んだ。もちろん、大月氏との交渉が不調に終わったことを喜んだのではなく、西域せいいきの豊かな国々の話を聞いて、大きな関心を持ったのだ。黄河西岸の土地をものにすれば、それら西域と繋がることができる。

 武帝の野心が燃え盛った。彼は若き名将・霍去病かくきょへいを匈奴討伐に向かわせ、ついに匈奴を黄河西岸から駆逐くちくすることに成功した。そして、獲得地を漢の領土と知らしめるために、武威ぶい張掖ちょうえき・酒泉・敦煌とんこうの四郡を順次設置していったのである。

 漢と西域諸国との交易ルートを確保するために祁連きれん山脈沿いに設置されたこれら河西四郡は比較的新しい獲得地であったため、人口は少なく、その多くが漢に帰化した異民族たちの末裔まつえいたちだった。都から遠く、土地の多くはわずかに灌木かんぼくが生えるだけの荒涼とした大地で、砂礫されきの砂漠がすぐそこにあった。だが、春には祁連山脈から流れ出る雪解け水が乾いた大地をうるおし、豊かな草原をはぐくんで、河西四郡は馬の生産にはよい土地であった。

 ただ、今の季節は冬であり、雪を頂いた祁連山脈の冷たい空気が全てを凍りつかせるかのように吹きすさぶ。住人たちは簡素な家々にこもって、厳しい現実を耐えしのぐ。

 凌ぐのは厳しい冬の寒さだけではない。城外に迫った鮮卑族の圧迫にも耐えなければならない。だが、孫堅は外の情勢を気にすることなく、臧旻のもとへ急いだ。

 歴史的大敗を招いた敗軍の将として、臧旻は酒泉の牢獄につながれていた。 

 中原ちゅうげんから遠く離れた酒泉郡は華々しさに欠ける田舎いなかの小郡である。牢獄も実に粗末な作りだった。木製の格子こうしで作られた小さな監房の中に、やつれた臧旻が幾重いくえにもボロ着をまとって顔を伏せ、小さくなっていた。かすかに吐き出される白い吐息だけが生きているあかしだった。

「本当によくぞ御無事で……!」

 孫堅は肌を刺すような寒さも忘れて、砂で覆われた地面にひざまずき、格子を壊さんがばかりにつかんで声をかけた。聞き覚えのある声。忘れようがない。若き英雄の凛々りりしい顔が脳裏に浮かぶ。

「……その声は……孫文台そんぶんだいか?」

 胸にうずめていた顔を上げ、臧旻はうっすらとまぶたを開けて、うつろな視線を漂わせた。

「はい、孫文台でございます」

「久しいな、文台。どうしてここに……変わりないか?」

 臧旻の双眸そうぼう精悍せいかんさを濃くした孫堅の顔が映った。

 余りにも変わってしまった不精髭ぶしょうひげの臧旻が孫堅を気にかけた。臧旻は孫堅をよく覚えていた。忘れようはずもない。

 揚州刺史として許生きょせい許昭きょしょう親子の反乱鎮圧の任にあった自分に勝利を授けてくれた若き英雄。

「はい、変わりありません」

 臧旻はそれを聞いて無言で何度もうなずいた。

「若さというものはよいな。君と出会ってまだ五年と経っていないが、私は老いた……」

 敗戦の辛苦が臧旻の体をむしばんだのだろう。臧旻は使匈奴しきょうど中郎将として鮮卑討伐軍の一軍を率いたが、漢軍は大敗し、臧旻は長い間、行方が分からなくなっていたのだ。

「ですが、生きておられます」

「敗軍の将として、生き恥をさらしておるだけだ……」

 臧旻は鮮卑軍に敗れ、捕らえられた。だが、すきを見て脱出し、必死の逃亡劇でようやく居延塞きょえんさいに辿り着いた。居延塞は福禄からは八百里(約三百二十キロ)も離れた場所にある。

 居延塞はかつて漢軍の匈奴戦線における橋頭堡きょうとうほとなった砂漠の出城である。

 祁連山脈から流れ出た弱水じゃくすいという川が酒泉郡の北を流れているのだが、その川は砂漠に居延沢きょえんたくという湖を作り出した。貴重な水源があるその土地に居延塞は築かれた。長城と同じく、版築はんちくという土を突き固める方法で建設された百二十メートル四方の小城で、漢代に建築された長城はこの居延塞を経由して東へ延び、弱水に沿って南へ延びている。居延塞には涼州出身の兵士が駐屯し、数十年前までは対匈奴戦線の拠点として、現在は対鮮卑戦線の拠点として重要な役割を果たしていた。

 鮮卑討伐軍を率いた三将のうち、すでに夏育かいく田晏でんあんが敗戦の責任を追及するために中央へ護送されていた。残った臧旻も同様の運命にある。

「そんなことはありません。勝敗は兵家へいかの常、時の運と申すではありませんか」

 孫堅はなぐさめるように言ったが、

「……いや、これは負けるべくして負けた戦だった」

 臧旻は確信を持って断言した。

「……ここで会えたからには、文台よ、君に伝えておきたいことがある」

 臧旻は鮮卑軍に捕えられた時、ある陰謀を聞き知った。それを孫堅に語って聞かせた。

 昔から国を追われた漢人たちが異民族側に付いて、その国政や戦略に協力することはあった。鮮卑側にも漢から寝返った漢人が何人もいて、鮮卑族もそんな彼らを厚くもてなし、味方につけた。そして、彼らは鮮卑に協力することで自分たちを排斥した母国に復讐ふくしゅうしたのだ。彼らは罠にはまった漢軍の将をあざけって言った。漢軍側に内通者がいることを明かしながら……。

「それは……!」

 孫堅は臧旻の話を聞き、体中が怒りで燃え上がった。卑劣な内通者にもいきどおりを感じたが、

「それでは、将軍に敗戦の罪はないということになります……!」

 そのせいで、恩義ある臧旻がこのようなみじめな姿を晒していることが納得できなかった。臧旻が憤る孫堅をさとすように言った。

「数えきれぬ兵を死なせてしまった罪はある。それはつぐなわねばならん」

 落ちぶれても、臧旻はいさぎよかった。

「私は敗戦の罪をまぬがれるつもりはない。こうして生き延びたのは、この陰謀の全てを陛下に申し上げるためだ。だが、鮮卑軍が口封じのために私を追ってそこまで来ている。もし、私が殺されたなら、文台よ、君が朝廷に証言してくれ」

「……将軍のお気持ちは分かりました。ですが、それは無用の心配です。将軍の御身おんみは私が命に代えてもお守りいたします」

 孫堅が強い決意を見せた。孫堅は颯爽さっそうと立ち上がって、その場を後にした。

『孫文台は孫文台だな、あの堅き義勇心は微塵みじんも変わっておらん……』

 それは粗末な監房にあって、与えられる運命を受け入れることしかできない臧旻さえも安堵あんどさせるのであった。


 それからしばらくして、城内があわただしくなった。地平線の烽火台ほうかだいから狼煙のろしが上がったのである。烽火台とは長城に設置された見張り台のことで、百里ごとに築かれていた。敵の侵攻を確認すると、干し草を燃やして狼煙を上げ、それを遠方へ知らせる役目を果たす。禄福の小城の先にも延々と長城が築かれていた。この狼煙はその向こうまで鮮卑軍が押し寄せて来たのを告げる合図だった。それが長城のもろくなった箇所を打ち壊して、ついに長城内に雪崩なだれ込んだ。煙の上がり方から、規模は二、三千だと分かる。

 酒泉郡は兵が少なく、物資も乏しく、禄福城の城壁も版築の土壁で築かれているので、堅牢とはいえない。しかし、敵の数は城を一呑みにするほどの大軍というわけではない。酒泉太守の劉班りゅうはんは防備を固めていれば、すぐに鮮卑軍は撤退するだろうと考えた。厳冬の最中さなか、兵を長期駐屯させるとは考えにくい。そうまでして略奪するものもない。

 鮮卑軍の目的――――それは臧旻の命を奪うこと。もっと言うなら、臧旻が知った情報の抹消まっしょう、だ。

 劉班の淡い期待を裏切って、鮮卑の強力な騎馬兵が禄福の城下まで押し寄せ、理解のできない言葉で気勢を上げた。それは城内の味方に向けられたものだった。実はここにも内通者がいたのである。

 鮮卑と結託した漢人が予め平民をよそおって城内に入っていた。その者たちが長年の風化でもろくなった土壁を木槌きづちで叩き壊しているのである。城民からそれを聞いた孫堅が一人、その現場へ直行した。孫堅が到着したのとほぼ同時に壁ががらがらと土煙を上げて崩落した。

 外に待機していた鮮卑の騎馬兵がそこを突破口として城内に雪崩れ込む。先頭の鮮卑兵が早速城民の一人を血祭りにあげようとした。死んだのはその兵士の方だった。

「東でも西でも狼藉ろうぜきを働きおって!」

 孫堅が落馬した鮮卑兵に吐き捨てた。そして、その馬を奪うと、侵入してくる鮮卑の軍勢の中に雄叫おたけびを上げで突っ込んだ。向かってくる敵兵を次々と斬り落とす。

 鮮卑兵が弱いのではない。孫堅が強いのだ。鮮卑の騎馬兵が強兵であることは涼州の民なら皆知っている。しかし、無名の孫堅は幽州でその武勇を示し、この涼州でも鮮卑兵を寄せ付けない強さを発揮した。ついには城内に侵入した敵兵のほとんどを打ち倒し、

「賊の一兵たりとも通さんぞ!」

 大言して、悠々と打ち壊された城壁前に陣取った。

 禄福の城兵たちは見知らぬ勇者に励まされて、大量の弓を放ち、鮮卑兵を城壁に近付けないように必死に応戦した。何とかその矢の雨をくぐり抜けた鮮卑兵たちも孫堅の前で死体となって積み重なっていく。孫堅は口を真一文字に結んで城外の鮮卑兵をにらみつけた。臧旻を守るために近付く者は一人残らず斬って捨てる覚悟だ。

 孫堅の気迫が鮮卑兵に注がれた。鮮卑兵の無闇な突貫とっかんんだ。孫堅の烈気がその足を止めさせたのもあるが、あらぬ方向から矢が飛んできて、後方の鮮卑兵が次々とその矢を受けたのだ。

 ごつごつとした砂岩が転がる丘の上に立って、それを悠然と見つめる男。

「お、こっちに向かってきたぞ。先頭をやれ」

 隣の男はゆっくり狙いをしぼり、上空に矢を放った。それは風に乗って大きなを描いて、見事に相手を捉えた。鮮卑兵がもんどりうって落馬した。

「いい腕だ。ちょっと見ない間に成長したもんだな」

「山野の獣を射るのに比べれば、簡単なものです。的も大きければ、動きもまる見え。それより、大兄。呑気のんきに構えている場合ではないですよ。こっちはたった二人なんですから」

 鮮卑兵の一部、三十人ほどが奇声を上げてこちらに向かって来ている。二人相手には十分すぎる数だ。それでも、平然とした態度を崩そうとしない男。

 かたわらの若者に聞いた。

「お前、何人ならやれる?」

「奴らがここに辿り着くまでに弓で十人、辿り着いてから剣で十人」

 聞かれた方の若い男は答えながら、また一人敵兵を射落とした。

「じゃあ、オレは残りの十人だな」

 乾いた岩と余裕の上に片足を置いたまま、男が剣の柄に手をやった。視線は後方の鮮卑の軍勢に向けられている。向かってくる三十人の鮮卑兵の後方には千ほどの鮮卑兵がいる。絶対的な兵力差を前にしても、この男の心は恐れにも不安にも支配されない。全ては不動の心と冷静な計算にもとづいている。その理由が示される。

 鮮卑軍の後方にひるがえる〝段〟の将旗しょうき。その威風の効果は覿面てきめんだった。

 にわかに鮮卑の軍勢が撤退を開始したのだ。


 段熲だんけいあざな紀明きめいという名将がいた。河西四郡の一つ、武威郡姑藏こぞう出身の老将である。涼・幷州一帯で大反乱を起こしたきょう族という異民族討伐に活躍し、十余年にも及ぶ激戦の末、ついに鎮圧するという功績を挙げた。先の鮮卑討伐軍で敗北をきっした夏育・田晏両将はこの時、段熲のもとで戦歴を重ねたのだ。

 段熲は将軍としては勇猛果敢で名将のほまれ高い反面、官僚としては軽率なところがあった。六年前の朱雀門すざくもん落書き事件で太学生千人が一時拘束されたことがあったが、それを指示したのは司隷校尉しれいこういの職にあった段熲だった。そのため、清流派の面々からは顰蹙ひんしゅくを買った。しかし、兵を愛し、軍中では常に兵卒と辛苦をともにしたため、兵士たちは段熲のために命を惜しまず奮戦した。段熲には兵士の力を十二分に引き出す将才があったのだ。

 老齢の段熲の現職は太中大夫たいちゅうたいふという皇帝の補佐官である。特に一定の職責を持たず、状況に応じて様々な任務を与えられる。

 今、段熲が都から遠い涼州にあるのは、使者として酒泉郡を訪れたためだった。

 軍勢を引き連れてきたのは、武威郡にあった時に鮮卑軍の酒泉侵攻を知ったためである。

 段熲には大きなネーム・バリューがある。地元のヒーローであり、常勝の将軍である。とかく地元の涼州、特に武威郡での人気は絶大で、義勇兵をつのったところ、あっという間に千人が集まり、馬の借り受けを請うたところ、こころよく千頭の提供を得た。

 段熲の威名は国内だけに止まらず、周辺の異民族たちの間にも広く行き渡っていた。鮮卑軍はその段熲が率いる軍勢を見て、あえて衝突を避け、撤退したのであった。

 戦わずして勝つ。『孫子』のいう最善の勝利を目の前に、全軍が「段常勝だんじょうしょう」という彼の異名を連呼して、段熲は威風堂々、禄福の県城に入城した。

 段熲は使命を全うするべく、甲冑かっちゅう姿から官服に更衣を済ませると、直ちに臧旻に対面した。臧旻は粗末な監房の中に平伏してその沙汰を聞いた。

 年季の入った顔と声で、段熲が慇懃いんぎん勅令ちょくれいを読み上げる。

「使匈奴中郎将・臧旻、そなたの官位財産を召し上げ、庶人しょじんに落とす」 

 死罪も受け入れる気であった臧旻にとって、それは予期せぬ判決であった。

 喜んだのは孫堅だ。一庶民の身分に落とされたが、死罪ではない。臧旻は過去の反乱鎮圧の功と地方太守としての実績があるので、いずれ官界に復帰する道も十分残されている。

 段熲はそれだけを伝え終わると、くるりと背を向けて監房を後にした。

「……どういうことなのだ?」

 臧旻はほおのこけた顔を上げて、怪訝けげんな思いで立ち去って行く段熲を見た。

「最近、宮中は金欠で困っていましてね……」 

 臧旻のもとに歩み寄り、真相を告げる男。落ちぶれた臧旻に憐憫れんびんの視線を落とすでもなく、何を見るでもなく。

「いろいろな金策を講じて金を集めようとしています。最近は売官なんてことも始めました。俸禄ほうろくに応じて、二千石の郡太守の職は二千万銭、八百石の県令は八百万銭といった具合で売り出されています。三公さんこう九卿きゅうけいの位も売られていますよ」

「何だ、それは!」

 それを聞いた孫堅がまた憤慨ふんがいした。世が乱れる制度が皇帝の承認のもと、堂々と始まったのである。金で官職を買う者が政治を正そうとする清流的人物であるはずがない。

「他にも、贖罪しょくざいが多くなっています。金を払えば罪が免除されるわけです。夏育・田晏の両名も敗戦の罪をあがなって庶人となりました」

「……金で贖罪したのか。しかし、我が家にそんな金などないはずだが?」

 臧旻は見知らぬ男の教示にも、まだに落ちない。

「世の中には奇特な人間がいるのですよ。ある金持ちがあなたの罪を買い上げました」

「その人物とは?」

 臧旻には心当たりがない。

「これを預かってきました」

 男は答える代わりにふところから書簡を取り出して、臧旻に手渡した。臧旻がそれを広げ、目を通した。そして、新たな使命を告げにやってきた男の名を聞く。

「……君は?」

曹操そうそうあざな孟徳もうとくといいます」

 曹操はそこで拱手きょうしゅをして、傍らの孫堅にも顔を向けた。


 曹操が洛陽を出立する前にある官界の大物が曹氏の屋敷を訪れた。その客とは汝陽じょようの袁氏の一族で、袁紹えんしょうの実父・袁逢えんほうだった。

 曹操の祖父・曹騰そうとう桓帝かんてい即位に大きな功績があったが、袁紹の祖父の袁湯えんとうもそれに協力して累進した。この頃から曹氏と袁氏の交流が深まったと言っていい。

 袁湯はあざな仲河ちゅうが、三公の司徒や大尉を歴任した。湯の子が逢である。

「――――此度こたびは司空就任、おめでとうございます」

 まずは曹操が友人の父・袁逢の昇進を祝した。司空は水利土木を扱う建設大臣である。

「――――いやいや、素直に喜ぶわけにはいかない。天下の不幸が重なったばかりだというのに」

 袁逢は手と首を同時に振って、曹操の祝辞を拒むように言った。

 袁逢は宋氏誅滅事件の直前に司空に就任した。前任の来豔らいえんが亡くなったので、それに代わって就任したのである。

 来豔はあざな季徳きとくといい、よく士にへりくだり、学問を好んだ誠実な人であった。

「――――それにしても、災難だったな。これからどう身を振るつもりか?」

 袁逢が宋氏誅滅を天下の不幸と言うのだから、それが冤罪えんざいだと分かっているのだ。中道派と目されている人物ではあるが、それに連座した曹氏を気の毒に思っている。

「――――悠々自適に天下を回ってみようかと思っています」

 曹操は現況を楽しむかのように言う。凶悪な宦官に命を狙われているとは到底思えない。公的には官職を罷免ひめんされたわけだが、再び自由の身になれたわけである。昔の遊侠無頼ゆうきょうぶらい時代を頭に描くと、気が楽になる。もちろん、復讐は忘れてはいない。

「――――宛てはあるのか?」

「――――とりあえず西へ。十年さかのぼりたいと思います」

 それを聞いて、袁逢はピンときた。

「――――ついに禁断の扉を開けるか」

「――――ま、ここまでされたので、黙っているわけにもいきませんね。我が家は喉元のどもとに剣を突き付けられたわけですから。私的には報復ですが、公的には報国と言えましょう」

 袁逢は押し黙った。この若き曹家の子息は敢然かんぜんと濁流派に立ち向かおうとしているのである。それに対して、袁家は未だ中道的態度を保持して事態を傍観ぼうかんしている。

 強大な影響力を持っていながら、それを自家の保守防衛にのみ使っていることに息子の紹は納得していない。母の喪を理由に汝陽に帰ってから、逢に便りの一つも寄こさない。不服の表れだった。

 紹の気持ちは分からないでもない。清流派官僚の面々から協力を要請されている。

 曹操は袁家を襲った百鬼ひゃっきの壊滅に尽力した男だ。いろいろと理由はあるが、息子の友人である曹操をバックアップしてやりたくもなる。

「――――十年か。いい区切りかもしれん。……陽方正ようほうせいのことは任せておけ。時期を見て司隷校尉に推薦しよう。……それより、一つ頼みたいことがあるのだが」

「――――何でしょう?」

「――――先頃、鮮卑討伐軍を率いて行方が分からなくなっていた臧公の消息が掴めた。臧公には我が袁家は恩があってな、何とか助けてやりたいと思っているのだ」

「――――敗軍の将ですね。そのお方の身柄を奪えばよろしいのですか?」

 曹操は陳逸ちんいつ朱震しゅしんの前例があったので、また自分にそんな役割が期待されているのではないかと勘繰かんぐったのだ。

「――――いや、その必要はない。これから朝廷に金を積む。それで罪は帳消しにできる。頼みというのは、臧公にこの書簡を手渡してほしいのだ。これは特に大事な書簡でな、本当なら本初ほんしょに頼みたいのだが、母の喪で引き籠っている。そなたは頼れる男だと評判だ。引き受けてくれるか?」

「――――お安い御用です。で、その臧公は今どちらに?」

「――――涼州酒泉」

 もともと張奐ちょうかんを敦煌に訪ねるつもりだったから、ちょうどよかった。道中、その頼まれ事を果たせばよいのだから。そして、武威郡で鮮卑の酒泉侵攻を聞き、段熲が軍を集めているのを目撃したのである。

 

 一方、蔡邕さいよう救出に向かっていた劉備りゅうび長生ちょうせいは河水(黄河)を渡河して、上郡じょうぐんの郡治が置かれている夏陽かよう県に入っていた。

太史公たいしこうはこの地の生まれだそうだ」

 太史公とは、前漢の武帝の時に太史令(天文暦算や史書の編纂へんさんつかさどる)を長く務めた司馬遷しばせんのことをいう。司馬遷はあざな子長しちょう、全国を旅した後に不朽の名著である『史記しき』をあらわし、万世ばんせいに英名を残す。

龍門りゅうもんの激流を登った鯉は龍になるという伝説は太史公の出世から生まれたという」

 龍門山を越えるこの辺りの河水の流れは激しく、〝登龍門とうりゅうもん〟の語源となった地である。

「お詳しいですね」

「いや、私の師が言っていたのだ。私の師は都で歴史書を編纂する仕事にあたっている。よく『史記』や『漢書』を読んで研究しておられた」

 劉備が護衛に向かう蔡邕も、流刑前は盧植ろしょくとともに『後漢記』の編纂任務にあったのだ。

『漢書』は西域都護として活躍した班超はんちょうの兄・班固はんこあざな孟堅もうけんの著である。

「私はもっぱら『左伝さでん』です」

 長生の口から意外な言葉が漏れた。

『左伝』とは、左丘明さきゅうめいの著作『春秋左氏伝しゅんじゅうさしでん』のことである。

 儒学の五経典の一つに『春秋』があるが、それを補足説明したのが〝伝〟である。

 公羊高くようこうの著『公羊くよう伝』、穀梁赤こくりょうせきの著『穀梁こくりょう伝』、そして『左伝』の三つを「春秋三伝」という。

 宋の儒学者、朱熹しゅきいわく、左伝は史学、公羊・穀梁は経学なり――――。

「ほぅ、学問も得意なのか。人は見かけによらないな」

「子供の頃、よろい代わりに竹簡を体に巻きつけて遊んでいたのですが、暇な時に読むようになりました。今ではそらんじることもできます」

「妙なきっかけだな」

「何事もきっかけは奇妙なものですよ」

「確かにそうだ」

 都で兄弟子が酔っぱらって蔡邕邸の前を通らなければ、こんな危うい道を進んでいなかっただろう。劉備が進む道は川沿いに続く、細くて荒れた黄土の道だ。それは洛水らくすいさかのぼるように黄土高原を北西に上って、〝直道ちょくどう〟に繋がる。

 直道は始皇帝が建設を命じた黄土高原を南北に貫く一本道である。長安北西の雲陽うんようから五原ごげん九原きゅうげんまで、およそ千五百里(約六百キロ)を結ぶ長大なもので、秦の都・咸陽かんようから長城まで迅速に軍隊の派遣ができるように山を削り、谷を埋めて、約二年半の歳月をかけて整備された。

 河水に囲まれた河南かなんの地(オルドス)は豊かな草原地帯で、この地を巡って、秦漢と匈奴の間で争奪戦が繰り返された。前漢武帝の時代、名将・衛青えいせいが匈奴を撃って河南を制圧し、五原郡と朔方郡が設置された。

 武帝は全国巡幸じゅんこうの旅で、この新たな土地を訪れている。

 武帝の死後、匈奴は分裂し、その一部が漢に服属した。彼らは南匈奴と呼ばれ、河南の地に居住地を与えられた。ちょうど河南の地を北東から南西へ縦断するように、風化した土の壁が延々と連なっている。戦国時代に秦が築いた長城である。

 その長城の向こう側が南匈奴の住まう地域だ。そして、南匈奴を管理するために漢が派遣した官職が使匈奴中郎将である。

 昨年の鮮卑討伐には使匈奴中郎将の臧旻に従って匈奴も軍を派遣したが、その時々の情勢によって漢に反抗することもしばしばで、後漢の永和えいわ五(一四〇)年に大規模な反乱を起こした。この大動乱のために朔方郡はその領地を大幅縮小して五原郡に付属させる形となり、西河せいが郡の郡治は河水東岸の離石りせき県に、上郡の郡治は南方の夏陽県に遷されるという窮余きゅうよの策がられた。そして、この反乱鎮圧に功績があったのが、度遼どりょう将軍の馬続ばしょく、使匈奴中郎将の陳亀ちんき張耽ちょうたんといった将軍たちであった。

 馬続はあざな季則きそくといい、扶風ふふう茂陵ぼうりょうの人である。彼は盧植の師である馬融ばゆうの兄で、兵法にも明るかった。

 陳亀はあざな叔珍しゅくちん、幷州の上党じょうとう泫氏げんしの人で、五原太守、使匈奴中郎将、度遼将軍となって功績があった。張耽も勇猛果敢な人物で、その後も異民族との戦いに活躍した。

 漢代においても、直道は依然河南の地における重要な交通ルートで、馬続らが匈奴の反乱を鎮圧する際も大軍がこの直道を通った。原野に散らばるおびただしい白骨が激戦を物語る。

 劉備と長生は夏陽から梁山りょうざんを越え、道なき道を進み、洛水沿いでようやく直道に入った。

「あとは真っすぐ駆けるだけだ」

 劉備と長生は馬を手に入れると、昼夜兼行でそんな歴史を刻む直道を北上した。

 

 臧旻は罪人から一庶民に身分を回復した。不精髭をり落とし、身なりを整え、

「私は西域に出ようと思う」

 そう孫堅に告げた。袁氏からの書簡は揚州刺史の時に一族の袁忠えんちゅう庇護ひごしてくれたことへの感謝がつづられていた。それが袁氏による贖罪へ繋がった。

 それに加えて、揚州での反乱鎮圧の過程で知った四神器の存在がある。

 袁氏は臧旻に四神器の一つ、白銀でできた虎をかたどった香炉こうろ、〝白虎炉びゃっころ〟の捜索を臧旻に託したのである。

 西域都護せいいきとごという職がある。漢に帰順した西域諸国を監督し、管轄内の治安の安定をはかる職務で、前漢の時代に置かれた。西域諸国は敦煌の玉門関ぎょくもんかん陽関ようかんより西の地域に点在する国々で、前漢末期時点で五十五カ国があった。漢の外交戦略の変化によって西域都護は廃置が繰り返されたが、後漢の和帝の時代、班超の活躍で五十余国が全て漢朝に服属した。

 班超はあざな仲升ちゅうしょう扶風安陵あんりょうの人で、歴史に名を残す西域の名将である。

 後に超の子の班勇はんゆうあざな宜僚ぎりょうも西域で活躍した。清流派の調査では、班超の時代に白虎炉が西域都護府に置かれていたのが確認できたということであるが、それ以後の行方が不明なのだという。西域が僻遠へきえんである上、西域諸国の離反と国内の混乱が重なって、長い間実地調査が行われてこなかった。

 西域都護は現在は〝西域長史ちょうし〟という名称で存続するものの、漢の国力が衰退するにつれ、近年再び西域諸国の離反が始まっていて、情勢が不安定になっていた。

 一端西域が制御不能になってしまうと、漢朝は再び玉門関・陽関の二関を閉鎖して、国交を断絶する可能性が強い。そうなると、実地調査ができなくなってしまう恐れがあった。時間の余裕はない。

「では、私もお供を」

 孫堅が志願した。

「我等も敦煌に向かいます。それまで御一緒しましょう」

「君は袁家の縁者えんじゃか?」

「先祖からの腐れ縁ですよ」

 曹操が何とも困ったような顔をした。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る