第5話

 いわゆる壁ドンを食らったカレンは、その麗しい唇をわなわなと震わせながらも、その表情は微かに上気した様子を見せている。


「別に金に困っているわけでもない。あんたを抱けるなら、それだけの価値はある」


「あ、あたしの事、好きなの……?」


「いや、別に」


「はあっ!?」


 顔が真っ赤なのは変わらないが、羞恥から怒りへとその意味を変貌させて俺を睨みつけてくるカレン。


「あなたって最低ね! 良い人かと思ってたけど間違いだったわ!」


「いい女を抱きたいという思いは男として当然だろ。何なら真剣な交際をしてやっても構わないが」


 途端にカレンは、意味が分からないと目を点にする。


「は? あたしを好きじゃないのに何言ってるの?」


「お互い愛し愛された状態で始まる男女交際なんてそうそう存在しないぞ?」


 それこそ、物語の中くらいだ。


「普通はどちらかが告白して、何となく付き合っていく内にお互い育まれるものだよ。恋愛に夢見すぎだな、お嬢ちゃん」


 前世の日本だって、男女の付き合いなどそんなものだろう。大体、貴族ともなれば、会った事も無い相手との結婚なんて珍しくもないだろうに。


「現世で同い年な上に前世じゃ17歳で死んだあなたに小娘呼ばわりされる筋合いないわよ!」


「前世じゃ年増だったのか」


 処女くさいと思っていたので意外だった。


「ち、違うわよ! 事故で死んだのは19歳の時だし、まだピチピチだったんだから!」


 ピチピチって……いやまあ、あえて突っ込んで更なる怒りを買う気は無いが、19歳というのが本当だったとして、そんな年上ムーブできるほど離れてもいないじゃないか。


「そもそも、あんたヒロインで、主人公は平民なんだろ? 相当ハードル高いぞ。俺なら一応、廃嫡されているとは言え血筋は貴族だし、ゴールド級冒険者の俺なら政略的な意味では頼りにならないだろうが、いざって時の戦力的には使えるだろうから、両親を説得するのも楽だろ」


 何なら、カレンの方が身分を捨てて俺に付いてくる方でも構わない。と言うか、是非ともそちらでお願いしたい。俺はまだまだこの世界を楽しみたいのだ。ゴールド級冒険者の俺なら、そこいらの平民とは違って、貴族の女一人を不自由させない程度は難しくもない。何なら、


「一般的な平民と一緒になって平民落ちするのはお勧めしないがね。俺なら不自由はさせないぞ?」


「何で普通の平民はダメなのかしら?」


「本気で言ってるのか……?」


「貧しくてもいいじゃない、愛さえあれば」


 こいつ、ガチで夢見る乙女系お嬢様だったのかよ。現世の家族はどんな教育してやがるんだ?


 日本人の感覚が抜け切れていない。貴族ならそれでもギリギリ通用するだろうが、このままじゃ危ないと考えた俺は、懇切丁寧に教えてやる事に決めた。


 この世界の平民の生活水準はかなり酷い。魔法による技術が生活に根付いていて、それでも日本人から言わせればギリギリ文明的な暮らしが出来ている貴族と、そうでない平民との間に存在する生活水準の差は、暮らし易さを求める点においては地球上で最高のこだわりを持つ日本人の感覚で容易に想像できるレベルじゃない。


 例えばだ、人伝に聞いた話でしかないが、発展途上国に興味本位で旅行に行った日本人がまず最初に陥る罠は便秘なのだとか。トイレが汚過ぎて使いたくないあまりに男女問わずにそうなるのだそうだ。首都クラスならともかく、少し郊外に外れた瞬間に電気すらまともに無くなり、カルチャーショックですぐに帰りたくなった、とは俺の家庭教師の一人だった女から聞いた話だ。日本で暮らしている感覚で考えていたら想像もつかないだろ? 魔法文明は金が掛かり過ぎるので、現状平民には殆ど還元されていない中での暮らしなど、カルチャーショックどころでは済まない。


 もっとも、この点に関しては、大凡察せられるカレンの実力なら冒険者として大金を稼ぐのはそう難しくないので、何とでもなるだろう。が、問題はここからだ。


 何よりも違うのは治安と、『善良な一般市民のモラル』なのだ。


 海外旅行をする際は置き引き、スリ、引ったくりには気を付けましょう。荷物から10秒目を放したら、もうその荷物は捨てたも同然と考えて差し支えない。世界最高水準の治安を保っている日本で暮らす善良な日本人からしてみれば想像もつかない世界なのである。


 とある国で自転車にひかれた老婦人を助け起こそうとした通りすがりの日本人旅行客が、その老婦人から犯人だと警察に突き出されて慰謝料をせしめられた、なんて序の口だ。


 日本人は世界的に見て極めて押しに弱い人種だと知れ渡っているせいで、警察官も丁度いいカモとして見ており、難癖つけて罰金を取って切符を渡さず、せしめた罰金をそのまま自分の懐に入れてしまうなど普通にある。彼らにはそれが『悪事』だという認識すら無い。


 このように、現代の地球ですら、国が違えば一般市民のモラルからして決定的に違う。この程度なら彼ら自身にとっては『善良な一般市民』に数えられると言ったら、日本人ならふざけるなと声を大きくするだろうが、彼らは至って大真面目だ。


「現代の地球にそんな国があるの!?」


「大多数の日本人の感覚じゃそう思うんだろうがな、これらの話は別に世紀末みたいな国での出来事でもなく、ヨーロッパの中堅国家で、発展途上国ですらないのに、それでようやくこの民度だよ」


 大国はもう少しマシだが、それでも日本とは比べるべくもないと言ってしまって構わない。そのくらいに日本の治安は世界的に見て希少な安定を維持できている。誇りに思って良い。


 中世レベルの民度のこの世界において、日本人の感覚で貴族から平民落ちなどしようものなら、数日後には奴隷市場に並んでいても何らおかしな話ではないぞ。


「……この世界ってそんなヤバいの?」


「本当に知らなかったのかよ……」


「だって、パパは社交界に出る以外でまともに外に出してくれなかったし……今だって黙って抜け出してくるのは本当に苦労したんだから」


 当たり前だろう。こんな明らかに実戦経験も無い、しかも頭の中にお花畑が咲き乱れている小娘なんぞ、どれだけ強大な魔法の力を持っていようが、狡猾な犯罪者ならやりようなんぞ幾らでもある。これだけの美貌だけでも拉致る価値はあるし、更に大貴族のご令嬢となったらその価値は青天井だ。


「原作にはそんな事……いえ、書いてなかったと言えば、そもそも平民の暮らしに関する細かい内容自体が……」


 うーんと頭を捻っているカレンの呟きは、俺の『推測』を裏付けるに値するかなり貴重な内容だったが、そこは置いておこう。


「で、でもあたし貴族だし、うちの国は平民でも貴族と結婚して構わないし」


「それはそれで大変だぞ?」


 逆に、カレンの言う通りに平民が貴族入りというのも難易度はなかなか高い。国によるものの、確かに貴族と結婚して平民が貴族入りするケースも無いわけではないが、仕事もせずに遊んで暮らせるレベルの大貴族の末っ子の嫁とか程度ならともかく、貴族としての教育を受けていない平民がいきなり入って行ける世界じゃない。


 女なら愛妾として飼われているだけでも済むだろうが、正妻となったら求められる教養は、全く教育を受けていない平民が一朝一夕で身に付くものではない。三流大学の経済学部を卒業してブラック企業に就職した新卒に対して、働きながら更に弁護士資格を取得しろと要求するレベルで無謀だと言えば大凡の想像はつくだろうか。不可能ではないだろうが、心身を擦り減らしながら仕事と勉強以外何もできなくなり、その上で実現できるのはほんの一握りの人間だけだろう。


「大げさな。勉強に関しては小学生レベルだし、あと必要なのはダンスやお茶とかの教養くらいよ? そりゃ片手間じゃ大変かもしれないけど」


「それは中身が現代日本人のあんただからそう思うんだ」


 勉強とは無縁に生きて来た10代半ば以降の人間の知能指数を馬鹿にしてはいけない。いや、期待してはいけない、と述べるべきか。そもそも『学ぶ』という意味がまともに理解できていない、中世レベルの文明水準で生きる『既に成熟してしまった平民』に対して求めて良い事ではないのだ。


 それに、正妻に最も求められるのはそれらを用いての卒のない人付き合いだ。これは本当に難しい。


 それが更に、カレンの場合は平民の方が男と確定している。大商人の息子で元々ある程度の教育は受けていたとかでもないと、ついて行くのはまず不可能だ。


 貴族同士でも、あまりにも身分の違う婚姻が歓迎されないのは、こういった事情の延長だ。宝くじで突然に思いもしなかった大金を得たせいで身を持ち崩した人間の話くらいは聞いた事はあるだろうが、政略的な意味だけではなく、そもそも本当に本人達のためにならないから好まれないのだ。


 若さは無謀と同義だからな。自分達だけは大丈夫だと愛し合う二人は思うのだろうが、数年後には離婚しているか、二人揃って破滅するのが大半だ。それが二人だけの問題で済むならまだいいが、その二人の関係によって領民まで巻き添えを食う恐れがあるのが貴族という存在なのだから、善良な貴族の親ならばこそ、子供の馬鹿な考えを諫めるのは当然なのだ。


 ここら辺は前世で富豪の跡取りだった俺が受けた教育の一端でもある。


「夢が無さすぎる……ファンタジーなのにファンタジーしてなさすぎないかしらこの世界!?」


「……そんなに平民と劇的な恋愛がしたいのか?」


「え?」


「言い換えようか。そんなに主人公とやらがいいのか?」


 まあ、ヒロインであるらしいカレンのお相手は物語の主人公様だから、そこら辺の事情はご都合主義で何とでもなる天才様なのかもしれんがね。


 まだ会ってもいない主人公に、既にそこまでご執心なのか? 俺には分らんね、物語の中の人物に本気で惚れこめるものなのかは。


「は?」


 それまでの不思議そうな顔から、何馬鹿な事言ってるの、という顔に変えて見られた俺こそ、何言ってんだという話だぞ。


「主人公に操を立ててるとかじゃないのか?」


「何であんな優柔不断なだけのハーレム野郎のハーレム要員にならなきゃならないのよ。あたしは純愛主義なの。ハーレムでも逆ハーレムでも純愛だとかほざく人種は永遠に相いれない存在だわ」


「あんたな、俺には原作の行動をなぞれとか言いながら、自分はそんな気一切無いのか?」


「うっ……で、でも、あたしがハーレム入りしなきゃ破綻するわけじゃないし……あたしが居なきゃ破綻する部分は友達として手を貸すだけで解決する……と思うし……」


 自信無いのかよ、と俺は呆れを隠し切れなかった。


「まあ、好きでもない相手に体を売れと要求するに等しいだろうし、俺もそこまで言うつもりはない。それで世界が滅びたとしても、あんたの貞操を生贄に捧げて生き延びたという罪悪感を背負うくらいなら、俺は死んだ方がマシだ」


 あからさまにほっとするカレンだが、しかし。


「なら尚更、俺抜きでやってくれ。お互い好きに生きれば良いだろ」


「待ってよ! 分かった! エッチさせてあげるから一緒に居てよ! 一人じゃ不安なの!」


 カレンから身を放してドアノブに手を掛けた俺だったが、押し殺した小声ながらも、心からの絶叫のようなセリフが足を止めさせる。


 未来を知っているのが自分だけで、その孤独感に押し潰されそうになった事は一度や二度ではない。原作を知らなくても、転生者という仲間に出会えて、その相手が善人で頼れそうと思えた事が、自分でも思いもよらなかったくらいに、自分の気持ちを楽にしてくれたのだと、カレンは瞳を潤ませながら告白した。


「いいのか? 俺は遠慮せずに食っちまう男だぞ」


「真剣に付き合ってくれるなら……いいわ」


 現在は平民だが血筋は貴族だし、ゴールド級冒険者の俺となら、最悪平民落ちでも生活水準を落とす羽目にはならないだろう……という計算があるようには見えないが。


 しかし、本人が構わないと言うなら遠慮なく頂いてしまおうかと、俺はカレンの腕を掴んでベッドの方へと足を向ける。


 大人しくついて来るカレンをベッドの上に放り投げるようにして横たわらせ、その上に覆い被さり、彼女の体に手を這わせようと差し出した。

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