イチゴタルトは世界を救えるか?

神崎諒

出会い

 狭いエレベーターにはあきらしかいなかった。手さげ袋には幾つかのタルトが入っている。そのため、タルトの甘い香りがエレベーター中を満たしていた。今にも、かぶりつきたいくらいだ。

 十一階でボタンの光が消えてドアがあいた。足早に降りてから館内見取り図を見た。秋山教授のへやを探す。確認した後、まっすぐ百五十メートルほど行ってから角を曲がり、さらに五十メートルほど直進する。すると『1103研究室』と書かれた室があった。秋山教授の室だ。扉はあけ放たれていた。彰はドアを三回ノックした。

「はい、どうぞ」すぐに返事があった。男の低い声だ。

 恐る恐る部屋に入った。中は数式やらグラフやらが書かれた書類で散らばっていた。

「あの、数学科の山下君の代わりに来ました。これ、彼からのおみやげです」そう言ってタルトの袋を差し出した。

「山下……?」秋山教授が振り返って言った。

「先生のゼミの」

「……あぁ、山下広大君ね。欠席の連絡は来てるよ。君が代わりに?」

「はい」

「それは、わざわざご苦労。そのへんに置いてってくれ」

 机上は書類ばかりでスペースがない。

「……ここでいいですか」

「あぁ」教授はすでに背を向けていた。

「じゃあ、失礼します」彰は室を出ようとした。

「ん? もしかして君か? このボクに"思いやり”がどうとか、吹っ掛けてきたのは」

「あの……」渋々、教授の方を向いた。不自然だと思われるのを避けるためだ。

「あぁ、やっぱり君に違いない」のぞき込むように顔を見られた。

 やらかした、と思った。

「君のことは近いうちに呼び出そうと思っていた。そこに座りなさい」

「……はい」目の前の椅子に座った。逃げ出すことも考えたが、相手が陸上短距離の元県代表なのだから、きっと無意味だ。

「そんなに長くはならない。お茶、ペットボトルになるが、いいか」

「全然、お気遣いなく……」教授は紙コップにペットボトルのお茶を注いだ。

「せっかくだ、そのタルトも開けよう」

 教授がタルトの箱を開けると、イチゴとカスタードクリームの甘い香りが室中に広がった。教授は中に入っていたタルトのうち、一個を皿に乗せて机の上に置いた。

「ありがとうございます」彰は皿とコップを自分の方へ引き寄せた。

「さて」教授が白髪まじりの頭をきながら言った。

「先日の私の講義のことだ。現代数学入門1第一回オリエンテーション。初めに私は自分のこれまでの経歴について簡単に紹介した。その後、講義の概要、および構成について説明していった……」

 数学の先生が話していると、それだけで内容が難解なことのように思えてしまう。当然だ。俺は高校入学の時点で、すでに『数学』という科目を諦めていたからだ。

 地方の地元から都内の高校に進学してから、勉強の難易度がはるかに上がった。授業についていくのがやっとで、数学にいたっては赤点ぎりぎりの点数を取ることもあった。だから二年に上がるときには、文系を選択した。俺は男二人兄弟の末っ子で、理系の兄貴からはバカにされたが、それでも留年するよりましだった。

 三年になって進路選択を迫られたとき、迷わず私文の大学にした。そうして推薦入試も利用し、ようやくこの地方私立大に合格したのだ。兄貴や母さんからは「あんたでも入れる大学があるとはね。首の皮一枚つながってよかったわ」とも言われた。電話越しだった。そんな数学コンプレックスを少しでも払拭したい一心で、この教養講義をとった。それが事のてんまつだ。


「……そして君は私にいった。先生に思いやりの気持ちはないんですか、と。これは極めて心外な発言だな。たしかに私は人類そのものに大した興味や関心はない。だが、これでも思いやりの気持ちぐらいはあるつもりだ。君の真意はなんだ」

 意識を遠くに飛ばしていたので、焦った。

「えーと、講義内の質問で戦争や平和に関する話題になったときに先生が、平和について考えること自体時間のむだで、人間がいる限りそんなものは決して訪れない、とおっしゃっていたので、少し疑問に思ってそういいました」

「ほお。では君は戦争とはどういうものだと思うんだね?」

「戦争とは……国と国が各自の主権を争って武力行使することです」

「ふん。では平和は」

「平和は、些細なことが幸せだと思える余裕が万人にあること……だと思います」

「君、学部は」

「文学部です」

 教授はとても小さな音で舌打ちした。

「これだから文学部は」

 教授はぶつぶつ言いながら、自分のコップの茶を一口飲んだ。


「平和というのはね、全ての人が平等に扱われて差別なく生きられる状態のことなんだ。しかし、人間がいる限りそんなことは決してあり得ない。それは君にも分かるだろ? もちろん、戦争があろうがなかろうが、それは同じだ。無論、やはり人間がいる限り戦争もなくならないだろうがね」

「先生は、人間がいる限り平和はないとおっしゃいますけれど、人間がいるからこそ平和があるんじゃないですか?」

「ふん。では君の前にイチゴタルトがあるが」教授はタルトを指さした。「そのイチゴタルトには、イチゴやクリーム、パイ生地、砂糖、バター、など様々な食材が使われている。これらの食材はそれぞれ異なる文化や宗教を象徴しているわけだ。イチゴは西洋文化、クリームは東洋文化、パイ生地は北欧文化、砂糖は南米文化、バターはフランス文化。つまり、そのタルトは異なる文化や宗教の食材を組み合わせて作られている。多様な人材が共存し、互いの違いを受け入れることで成り立っている。そういったことを分析するのが多変量解析といった数学的・統計学的手法だ」

「あの、多変……って」

「多変量解析とは、手短にいって複数の変数間相互作用を分析する統計学的手法のことだ。以前、別の講義で説明したはずだが」

「あ、そうですね……」

 早口でまくし立てる教授に、「僕、その講義とってません」とは、とても言えなかった。


「多変量解析を用いることで、文化や宗教の違いが人々の価値観や行動にどういった影響を与えるかを分析できる。だが、これはあくまで『分析』であって『撲滅』ではない。一方が平和を重視し、もう一方が戦争を重視すれば、戦争や紛争は発生する。さらに、戦争がないということは、平和があることの十分条件にはなり得ない」

 彰は頭がこんがらがってきた。一刻も早くこのから抜け出したい。お茶を一口飲んだ。そして言った。

「つまり、人がいるからだめだってことですよね?」

「そうだ」

 教授の返答に間髪は無かった。

「でも……平和はきっとそんな単純じゃないと思います。人がいるから平和がある。人間が平和を生み出すんです」

「ふん」

 教授は後ろに積まれた書類の山を背に、もたれかかった。

「具体的にどのような手順でそれを証明する?」

 彰は一瞬ひるんだが、すぐに言った。

「じゃあ、僕が証明します。僕がその具体例になります」

 秋山教授は口もとを緩ませた。

「残念だが、具体例をいくら列挙したところで証明にはならない」

「それでも、重要なにはなるはずです」

 彰はまっすぐ教授を見つめた。

 教授は苦笑した。

「それは、見物みものだな」

 そして茶を飲みきると、腕時計を見た。つられて彰も自分の腕時計を見た。時刻は十七時半を回っている。

「普段数学の話ばかりだから、いい脳トレになった。君とは、また話がしたい。次回の講義で会おう」

 今のも数学っぽい話だったけどな、と思った。彰は会釈して研究室を出た。

 長い通路を歩くなかで、自分が虚勢を張ったことを後悔した。上の者に立てついて良いことなどないのだ。

 だが、一つはっきりしたことがある。薄々気づいてはいたこと。

 ―――やっぱり、あの講師はキライだ。



 第一印象は最悪だった。






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