古いギターと年老いた犬

第1話

　古い町の古い店に、一本の古いギターがありました。古いギターはもう長い間店の片隅で土ぼこりをかぶっているのですが、店の主人は決してそれを見ようとしないのでした。

　からりと晴れた昼下がりのことです。年老いた犬がやって来て、古いギターにあいさつをしました。

「やぁ」

「やぁ」

「いい昼だね」

「まったくそうだね」

「君の隣で眠ってもいいかい？」

「どうぞ、喜んで」

そこで年老いた犬はひんやりとした床にぺたりと腹這いになり、前足に顎をのせました。

　古いギターが言います。

「久しぶりじゃないか。君も年をとったね」

「ああ、生きていれば年をとるものさ」

「僕もそうかな？」

古いギターの問いかけに、年老いた犬は顔をあげてまじまじと古いギターを見つめました。

　この国の眩しい太陽の光と風に乗って届く土ぼこりにさらされ続けたギターは、形も大きさも昔から変わらないままでしたが、この店の主人に連れて来られたときよりもずっと色褪せています。

　この平和な田舎町にも、気がつかないほど小さな戦争の面影が、至るところに残っていました。戦火をまぬがれた町並みは古く美しいままでしたが、教会から響く鐘の音はなくなりました。

　絶えず息子を自慢していたお客の一人は、ある日からパタリとしゃべらなくなりました。

　都会へと出かけた店の主人が帰って来たとき、彼はギターを弾くことが出来なくなっていました。

　けれど誰もそれを口にはしないので、古いギターも年老いた犬も、黙って店の片隅でじっとしているのです。

　陽気な町の人々は毎夜酒を飲み、朗らかに歌ってステップを踏んでは笑います。古いギターはそれを見つめながら、再び自分を掻き鳴らしてくれる人が現れるのを待っているのでした。

　太陽が西の空に傾き、渇いた風が心地よくそよぐようになると、夕暮れの町は賑わい始めます。二階から降りてきた店の主人は、年老いた犬を見てちょっと驚き、困ったように笑いました。この季節はお前も暑いだろうと、古ぼけた器に冷たい牛乳を注いでくれます。それからふと古いギターに目を向けると、何も言わずにその手でギターの埃を払い、傾いていた体をまっすぐに直しました。それから大きく伸びをして、店を開く準備を始めます。酒好きなお客たちのために並べられたワインやウィスキー、古くても磨かれてピカピカのグラス。そうして馴染みの客が来る頃には、お店はすっかり整っているのです。

　やがてお店が満員になった頃、年老いた犬が立ち上がって言いました。

「誰か、この古いギターを弾いてくれませんか」

しかしいくら吠えても、おしゃべりに夢中な人々は見向きもしません。

「お願いだ、僕はもう一度このギターの音が聞きたいんです。あなたたちだって」

それでも変わらず空っぽの笑い声をあげているお客に、年老いた犬はぶるりと一度身震いをしました。そしてふいに前足をあげると、ビィン、とその弦を弾いたのです。

　それまで笑いさざめいていた人々は、驚いてピタリと動きを止めました。それからシンと静まり返り、ゆっくりと店の片隅に目を向けたのです。そこには一本の古いギターと、一匹の年老いた犬がいました。ずっとそこにいたはずなのに、なぜか懐かしい姿でした。

　かつて、人々はどれほどこの一本と一匹を愛したことでしょう。この町の見えないところにぽっかりと穴が空く前の、幸せな昔のことです。悲しいことばかり忘れたふりをして陽気な人々は、ビィンビィンと響く調子外れなギターの音に、呆然と聞きいるしかありませんでした。

　やがて一人のお客がゆっくりと動き、古いギターをとり上げました。震える指が一つの和音を奏でると、人々の足は自然に動き始めます。それは彼らの内に流れる、脈動の音楽でした。どんなに強い敵にも奪えない、彼らのたましいでした。

　戦争には、奪えるものと奪えないものがあります。悲しみに沈むことを恐れて、奪われなかったものまで自ら手放していた小さな田舎町。失われたものはもう二度と戻らないけれど、過ぎ去った時間から聞こえてくるギターの音は、こんなにも愛おしいのです。

　人々の足は、不思議と再びステップを踏み始めました。ギターの音に重なって、歌声が店中に響いています。店の主人は、踊りながらお客のグラスに酒を注いで回りました。

　忘却のためではない、弔いのための酒でした。

　本当に変らないのはゆっくりと流れる時間だけで、長い間止まっていた時計の針が、再び動き始めたのです。

　人々は踊り、歌い、笑いながら泣きました。泣きながら語り、語りながら祈り、祈りを終えると抱き合いました。

　それからかつてのように、古いギターと年老いた犬にキスをして、明日のための眠りについたのでした。