第17話 To be, to be, ten made
大学の近くに借りたアパート。
その日僕は雨の音で目を覚ました。
すぐにスマートフォンで天気を調べる。
昼には止むそうだ。
ベッドの上で胡坐をかいて座る。
影山は、僕にもっとしゃきっとしてもらわないと困るという。
このところの僕は、記憶喪失に陥って困惑し、記憶がなくなっている半年間の自分が何を考えてどんな行動をとっていたのか判らず、考えなければいけないことだらけで、
はっきり言って参っていた。
誰か、答えを教えてくれる人はいないものか。
そこでふと思った。
僕が頭を打って記憶をなくした時、そばに誰かいなかったのか?
僕が転倒したらしい大学の正門前。
朝方に降った雨が地面を濡らしていて、僕はまたも足を滑らせて転びそうになる。
コンバースは、雨の日は滑る。
来てみたところで、失った記憶が突然戻ってくる訳ではない。
現場に来ればいいというものではない。
深く考えずにこの場所に来てしまったが収穫などあるはずもなく。
僕はアパートに帰ろうと歩き出した。
「久原君?」
「はい?」
背後から、おじさんに話しかけられた。
「おお、やっぱ久原君か。あの手紙出せた?」
振り返ると、グレーのスーツに身を包んだ50代くらいの男性が立っていた。
髪は白髪交じりで、太めの眉毛まで少し白い。
白いシャツに紺色の無地のネクタイをしている。
そうだ。
僕は記憶喪失者。
直近の半年程度の記憶をなくしている。
その半年間に知り合った人がいたとして、その記憶は全てなくしている。
この男性は僕のことを知っているようだが、僕はこの人が何者か解らない。
これが記憶喪失の怖いところだ。
しかし、我ながら落ち着いていたと思う。
男性は首から大学の職員証らしきものを下げている。
キャリア支援センターと書いてある。
それから、「あの手紙出せた?」という言葉。
この人は大学のキャリア支援センターの職員で、記憶をなくす直前の僕が下書きした内定辞退の手紙を添削してくれた相手なのだろう。
氏名は県(あがた)と書いてある。
「どうした?」
言葉を探すのに時間がかかってしまい、男性が続けて問いかける。
何か返事をしなければ。
「実は、まだ手紙出せてないんです」
「どないしたん。今更迷いが出た?」
「まだ悩みよります」
「そうなんや。
クラシコやっけ? 文具メーカーが不安になってきた?」
クラシコ…………?
…………何てことだ。
この県という男性は、記憶をなくす前の僕がどの会社に入社するつもりだったのか知っていた。
僕は大阪の文具メーカー・株式会社クラシコを選んでいたのだ。
内定辞退の手紙は、株式会社SSSと鯉城電子株式会社に送るものだったのだ。
うだうだ悩んだり必死になって情報収集をするより先にこの場所に来るべきだった。
そうすれば結論など最短で出せたのだ。
「そうですね。最近ずっと考えよります」
「クラシコのどの辺が引っかかってる?」
「クラシコが不満というより、ただ、人としてちゃんとしたいなあと」
そんな言葉を口にした自分に驚く。
「ほお、人間として成長できそうな会社に入りたい?」
「言うなれば、そうなんですかね」
僕は何を言っているのだ。
「そういう選び方もあるよ。働き方や待遇が全てやない」
優しい関西弁で話すこの県という男性に、今更ながら尋ねた。
「クラシコの方がええんですかね」
すると、県さんの返答はこうだった。
「僕が決める事やないよ。久原君本人が一番納得できる選択肢が正解や。
こっから先は本能よ。
僕は学生さんが自分の考えを整理できるよう手助けするだけ」
「……なるほど……」
県さんは仕事中のため長話はできず、僕は大学を後にした。
(本当は前から知っていたが)今ここで出会った県さん。
お気楽なようで僕の進路を気にかけてくれている髙橋美佳。
僕を同期として大事に思ってくれている影山や、鹿島や髙山。
周りの人がどれだけ僕を気遣ってくれていたか、僕は知らなければいけないのではないか。
人の温もりを受け止めて、人を許して、人に許す。
僕は何だ。
無意識に人を見下しているし、人に多くを求めているし、自分本位だ。
どの会社を選ぶにしろ、これを矯正しなくてはいけない。
4年間苦楽を共にした影山をはじめ同期達に対してさえ、彼らの良いところを見つけるたびにそれを妬み、遠ざけてきた。
人の短所ばかり見て、長所には気付いた上で認めない。
働くこと以前に、この汚い心を正してくれる環境が必要ではないのか。
季節が変わり、秋になった。
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