第9話 月曜の朝俺は突然事務所に呼び出され
自分の記憶喪失を自覚しながら生活することにも慣れてきた。
当初はかなり不安を抱えていた。なにせ記憶喪失だ。
知らない間に自分が恋愛絡みでトラブルを起こしていて、知らない女性に夜道で刺されるかも知れない。
アルバイトを休んでいるのだって、正式な手続きや挨拶をちゃんと済ませてあるのか解らない。
そういった不安とも戦いながら日々を過ごしてきた。
しかし"この状況"になってしばらく経ち、結果的には突然人に怒られたり刺されたりすることはなかった。
今のところ無事に過ごしているのだ。
株式会社SSSの内定者懇親会で出会ったモデル体型のヘビースモーカー・髙橋美佳とは相変わらず連絡をとり合っていた。
「久原くんは?まだ頑張るの?」
「まあな。地元の会社行くかも知れんし、大阪のメーカー行くかも知れん。」
「東京来ちゃえばいいのに。」
「どうだかな」
などとやりとりしているうちに、僕が乗っている電車は目的地に着いた。
株式会社クラシコ。
大阪に本社を置く文具メーカーだ。
総従業員数は120人程度。
主要都市に小さな営業所を置き、全国の文具店、雑貨店、書店をカバーしている。
内定を受けた3社の中では最も規模の小さな会社だ。
"じょばない"でチェックしたが、社員が少ないためか口コミは見つからなかった。
SIer2社から内定を貰ってさらに文具メーカーとはミスマッチな気がするが、パソコンを見ると僕は結構な数のメーカーにエントリーシートを送っていた。
食品や製薬会社が多かった。
経済学部出身の僕が入社すればまず営業に配属されるだろう。いわばソルジャーだ。
商品企画や開発は本社の人間がする。どこかから連れて来られた秀才が勝手にやる。
彼らが商品や販促のスキームを作り、営業マンはそれに従う。
ソルジャーに必要なのは才覚よりも体力だ。
食品や製薬となれば業績が景気に左右されにくいためホワイト企業が多い。
同期に誇れる就職先だ。
故に、倍率が高い。
僕がメーカーに送ったエントリーシートは殆どがゴミ箱行きになっていた。
パソコンに残されていたエントリーシートの更新日付を見るに、僕は"メーカー全落ち"を避けたいがために文具や雑貨のメーカーも視野に入れるようになったと思われる。
さて、この会社の募集条件を見ると、固定残業制となっていた。
これは危ない。
固定残業制とは、基本給と一緒に定額の残業代が毎月支給される制度だ。
クラシコの場合は30時間分。
毎日定時で帰ったとしても30時間分の残業代が貰えるということだ。
新卒の初任給を時給換算したら概ね1,300円。
残業代は基本給の1.3倍程度だというから時給換算で1,700円程度。
30時間分の残業代とは5万円強だ。
しかしこれは「毎月固定で5万円貰える!」というよりは、ほぼ全員が毎月30時間くらいは残業させられるということを意味しているし、実際の残業時間が30時間を超えたとしてもそれ以上は支給されない。
70時間働いても差分の40時間分は支払われない。
残業が常態化していて、且つ残業代を全額払うと経営が傾きかねない会社が取り入れる制度だ。
給与支払いの事務工数も削減できる。
そんな殆どブラック企業と断定して差し支えない会社の内定者懇親会は、大阪にある本社の会議室で行われた。
「現時点の情報だけでこの会社は辞退しても良いだろ」とも思ったが、来てしまったものは仕方がない。
時間は昼過ぎ。
懇親会というよりはお菓子パーティといった感じだった。
内定者は僕と、聞いたことのない大学の女子学生との2人だった。
また僕たちの他に、東京支社で採用された男子内定者がいるらしい。
クラシコ側の社員は60代に見える男性の営業部長と、高校生くらいの息子がいそうな人事兼経理の女性が参加した。
いつ決まったのか知らないが、配属予定の部署をもう聞かされた。
僕は大阪の営業。やっぱり営業かよ。
もう1人の女子は大阪で商品企画。
今日ここにいないもう1人の男子は東京の営業だそうだ。
他にも品質管理や総務などあるが今回の内定者はみな営業か企画だった。
簡単に両部署の説明を受けたところ、僕たちは配属は別になるが、僕たち3人がゆくゆくは密に連携をとることになるという。
この会社で営業としてある程度キャリアを積むと、商品企画にも口を出せるようになるらしい。
現場で商品を売る営業担当者の声は、作る側の社員に有難がられるそうだ。
営業と聞いてつまらなそうだと感じたが、"作る側"に片足を突っ込んで営業をやるというのは面白そうだ。
それはマーケティングの全工程に関与するということだ。
コンパクトな組織だからこそそれができるのだろう。
小さなブラック企業ではあるが想像していなかった旨味だった。
途中から、商品企画部らしい30代くらいの女性社員が会議室に入ってきた。
ここからは部署ごとに分かれてレクチャーを受けるらしい。
つまりここからは僕一人だ。
企画の女子は女性社員に連れられ、どこか別の部屋へ。
営業部長はいつの間にかいなくなっていた。
会議室は人事兼経理の女性と僕の二人きりになる。
絵本に登場するような優しい空気を纏ったおばさんだった。
僕は入社後まず阪神間の小売店を訪問するルート営業を経験すること、いずれは新規の営業先も開拓すること、零細ゆえ福利厚生らしい制度はないがデザイナーが激務で体調を崩す事例が続いたため徐々に整備されていくことなどを聞いた。
おばさんは「最後ご質問ありますか?」と薄めの関西弁のイントネーションで聞く。
「自分が内定を頂けた経緯や決め手など伺っても大丈夫ですか?」
この前行った大企業様は僕のことなどワンオブゼムとしか思っていないだろうが、こういった小さな組織なら何か考えているのではと思ったのだ。
おばさんはひと呼吸おいて、少しだけ声のトーンを落とした。
「多分、幹部候補生やと思います」
「はあ」としか返事ができず固まってしまう。
「久原さんは学歴もおありやし、女子社員は産休育休でブランクができる方が多いので……。
こう言うてる今も久原さんと同年代の女性が一人育休中なんですよ」
男の営業がもう1人いるはずだがそいつはどうなるのか。
この会社は多少学歴に拘っているようだがそいつは僕よりも偏差値が低い大学なのだろうか。
おばさんはもう1人の内定者の現時点の評価には言及しなかったが、さっき出会った女子内定者も学歴は高くないようだし、もしや僕が同期の中で一番整った経歴の持ち主なのか。
「なので将来うちの会社をしょって立つ人が欲しいと、上の人が考えたんやと思います」
「そう……なんですか……」
予想していなかった。
出世コースに僕は乗ろうとしているのか。
「ほか大丈夫です?」
「あ、あと、入社までにやっておくべき事があれば伺っておきたいです」
動揺していたが模範的な内定者を演じられたと思う。
「うーん」
しばらく考えて、おばさんが答える。
「簿記と、できれば英語の勉強をされた方がええと思います。
久原さんは多分営業だけでキャリアを終えることはないので。
頭の良い方なのでいけると思います」
いつか経営層に入るということか。
本当に幹部候補らしい。
帰り道。
電車に揺られながら考えた。
自分がこんな選ばれ方をするとは思っていなかった。
激務が予想されるが、ここで辛抱すれば小さな城の主になれるかも知れない。
小さな会社なのでライバルは少ない。
動揺しつつ、少し浮かれてもいた。
それに、営業の仕事にも魅力を感じ始めていた。
しかし、僕でものし上がれるような会社に未来があるのか。
それは馬鹿しかいない事を意味しないか。
会社選びはまだ続きそうだった。
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