第4話 七時スタート

病院から帰った日、テレビでは野球中継を放送していた。

僕の地元球団の試合だった。

子供の頃から、時間が合えば欠かさずチェックしていた、大好きな野球。

しかしその日は何故だか楽しめなかった。


この状況で呑気に野球など観れる方が異常というものだろう。

僕は記憶喪失者なのだ。

病院を受診してただ病名を告げられるのとは訳が違う。

知らない間に季節が進んでいて、自分でも知らない自分が勝手に就職活動をしていたのだ。

知らないうちに内定をもらった会社に内定辞退を詫びる手紙を送らなければいけないのだ。


パソコンに残されたファイルや進んだカレンダーが事実を伝えてくるが、僕はその状況を頭では理解しつつ心では拒絶していた。


それに、記憶が消えているらしい半年もの間自分が何をしていたのか、痕跡こそあれど実感として理解できない。何せ記憶がないのだ。

非常に恐ろしいことだ。


そんな状況で野球など観ても楽しい訳がない。


それに、就職活動以外にも問題はある。

僕は塾講師のアルバイトをしていたはずだ。バイトはどうした。

出勤予定の日は全てスマートフォンのスケジュール帳に記入していたが、今月のスケジュールに「出勤」の文字はなかった。

就職活動のために辞めたか、休んでいるのか。

塾に行って社員に聞いてみれば簡単に解る事だが、「僕ってまだここで働いてます?辞めました?」なんて質問した日には頭がいかれたと思われてしまう。

まあ実際そう言っても過言ではない状況だが。

とにかく怪しまれることは避けてこの日々をやり過ごしたい。


この日々と言ったが、"この日々"とはいつまでを指すのか。

「半年分の記憶を失ったことから来る不安感はどれくらいで消えますか」などという疑問に誰が答えてくれるのか。


贔屓球団のチームカラーを見ると血が滾る程度には野球が好きだが、しばらく野球ファンは休業してもいいかも知れない。



不明な事も多く混乱しているが、僕のパソコンやスマートフォンからはたくさんの情報が得られた。

僕の就職活動のおさらいといこう。


僕は覚えていないが、就職活動を始めたばかりの僕は製造業やマーケティングリサーチの企業に多くエントリーしていた。

製造業は食品メーカーや製薬会社が主だった。


マーケティングリサーチとは、メーカーなどのクライアントに対して情報を売る商売だ。

様々な手法で市場調査を行い、その結果をメーカーの商品企画部署にプレゼンする。

「御社の製品は30代の女性から多く支持されている一方で、同男性はあまり購買していません」

「30代の男性にリーチするためのキーワードとして、AやBなどがあります」

「AとBを抑えた商品を打ち出せれば新規顧客を獲得できます」

ざっくばらんに言えばこういった感じだ。


ここまで見るとモノ作りやマーケティングに関心をもっていたと見受けられるが、僕はその後SIer(エスアイヤー)にもエントリーシートを送るようになる。


SIerとはシステムインテグレーターの略で、いわばゼネコンの電子版だ。

あらゆる企業が社員の数だけパソコンを用意し、社内ネットワークを構築し、業務や手続きをシステム化している現代において、企業の活動をシステムの面から支える技術者は必要不可欠だ。


しかし、ITの素人が自社の抱える課題に対処できるシステムエンジニアを自力で探すことは殆ど不可能だ。

だからSIerと契約する。

SIerが子会社や外注業者からその時その時に適した技術者を連れてくる。

事業会社が直接契約するSIerの先にいくつもの二次請け、三次請け企業がいる多重下請け構造だ。


先ほど内定通知書を見つけた鯉城電子株式会社もSIerのカテゴリに入る。

僕が就職活動をしている時、こういったシステム屋の需要は恐ろしく増加していて人手不足であり、大卒ならどこかしらのIT企業に労せず入社できる、くらいの状況があった。

そんな会社に、僕は合格していた。


メーカーか、リサーチャーか、SIerか。

僕はどの業界を第一志望にしていたのだろうか。

それが解らなかった。



さて、数多くの企業にエントリーした僕が内定を受けたのは前述の鯉城電子だけではなかったらしい。


スマートフォンのメールフォルダを遡っていると、株式会社SSS(スリーエス)というSIerからのメールを見つけた。

タイトルは「選考結果のお知らせ」。

本文には「選考結果を公開しました」「マイページをご確認ください」とあった。

結果、合格していた。



さらに、送信者に"BizBox"と表示されたメールもあった。

これは知っている。求職者と企業の採用担当者をマッチングさせるためのサイトだ。

大学の同期に、早くから就職活動を始めてベンチャー企業から内定を貰いまくっている鹿島という小太りで天然パーマの男がいて、そいつから紹介してもらった。

鹿島は善意から、「久原もBizBoxつこたらええで」と教えてくれたのだ。

企業の方から、自社に合いそうな学生を探してオファーを送るいわゆる逆求人型の就職サイトだ。

それは楽そうだなと魅力に感じていた。


中小企業の求人が多く大手企業はあまりないが、中小企業の採用担当者は学生の情報をしっかり精査してからオファーを送るため、入社後のミスマッチが少ない、というのが鹿島のいう美点だった。


鹿島から存在を教えてもらった"BizBox"。

僕は就職活動中にそのサイトに登録していたらしい。

マイページにログインすると、株式会社クラシコという文具メーカーから内定を知らせるメッセージが来ていた。



SIer・株式会社SSS。

文具メーカー・株式会社クラシコ。

SIer・鯉城電子株式会社。


3つの会社から受け取った内定。

僕は内定辞退の手紙を下書きしていた。

既に入社する会社を1つに決めていて、残る2社は辞退するつもりだったのか。


その内定辞退の手紙はどこに送るつもりだった?


僕は再度PCの中を探した。

果たして、内定辞退の手紙は「就活」フォルダの外、デスクトップ直下にあった。

ファイル名は「【汎用】内定辞退」。

内容を見ると、文面は仕上げているものの担当者名を〇〇様と伏字にしているし、送る先の会社名も書いていなかった。


先に文章を完成させて会社名や個人名は後から入力するつもりだったのか。

これでは手がかりにならない。

ファイル名の頭にある【汎用】の文字が憎らしかった。



記憶を失う前の僕はどの会社に入社しようとしていたのか。

それを突き止めなければいけない。

いや、今の僕の気持ちで再度決め直しても良いかも知れない。


いずれにしても、この3社の中から就職先を選ばなければいけない。


しかし、僕はこの3社のことを全く知らない。厳密に言うと覚えていない。

どうやって決めろというのだ。

こんな恋愛小説を読んだことがある気がする。いつ読んだのだろう。思い出せない。その記憶も消えたのだろうか。




また、メールフォルダをチェックしている最中にチケット販売サイトからのメールも見つけた。

チケットをお餅のライブの日が近付いています、という内容だ。

勿論、記憶を失っている期間にチケットを買ったのだと思う。

この状況でライブなど行っている場合かという声がありそうだが、チケットを買っているようだし行くことにした。


僕の趣味は、野球観戦と、シーシャと、音楽鑑賞だった。


ひとまず、今日はこれからシーシャを吸いに行こう。


自分のマメな性格が幸いして、記憶をなくしながらも有益な情報はある程度手に入った。

しかし少し頭を整理する時間が欲しい。

あまりに大きな決断を、予備知識ゼロの状況から始めなければいけないのだ。

宛名を最後に書く僕のちょっとした癖がこんな事態を招くとは。


「ぶちくそたいぎいのぉー」

パソコンを閉じ、野球中継を放送しているテレビを消し、財布とスマートフォンを持って家を出た。


僕は記憶のない半年間も就職活動の合間にライブに行きシーシャを吸っていたのだろうか。

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