第4話 春の光
ネイは、走った。学問所を飛び出し、サリードラ邸へ向かうと、そこはもう蜂の巣をつついたような騒ぎになっていた。
「オパール!」
その中からなんとかハンナを見つけ出して駆け寄ると、ハンナはこれまでに見たこともないほどの取り乱しようでネイの手を取った。
「アメジスト」
「ねえ、これはどういうことなの? 殿下は?」
「殿下は今日は、ジェイドを連れてシトリンのところへ」
「そう、ホウタツがついてるのね。じゃあきっと大丈夫だわ、落ち着いて」
半ば自分に言い聞かせるようにネイは大丈夫、と繰り返し、ばらばらと人が去ってゆくサリードラ邸を見回した。ソールが側近を率いて前線へ出た今、使用人たちは己の身をどう守るか思案し、逃げる、という選択をしたのだろう。ネイは、唇を噛みしめつつ、それでも責められない、と思った。
「どけ! 道を開けろ! 医者を、医者を早く!」
正面玄関から怒鳴り声がし、ネイとハンナは駆け出した。それは聞き覚えのある声で、おそらくは常にソールの近くにいたヴォルガのものだろうと思われた。
「大事ない、騒ぐな、ヴォルガ」
駆けつけたネイとハンナが見たのは、ヴォルガに支えられたソールの姿で、その左足に、大きな血濡れのあとがあった。
「閣下!」
ハンナが駆け寄り、傷の具合を調べにかかる。ネイは奥の部屋の扉を開き、長椅子を整えた。ソールはそこへ身を横たえ、ハンナに包帯を巻きなおさせた。
「止血はしてある、死にはしないさ。それより妃は、リーザはどうなっている」
「……わかりません、北へ逃げているという報が入りましたが、中央街道を馬で駆けているという話もあり、どれが正しいのか」
「そうか。ジェイド・ホウタツが共にあるのであれば、逃げ切ってくれるとは思うが。よし、ではお前たちもここを去れ。俺はここに帝国軍を引き付ける。とにかく向こうの目当ては俺のようだから」
「どういう、ことです、そのお怪我は」
「うん、統率に失敗してな。まさかリードラの民がここまで独立を求めていたとは。まあ、扇動された者も多そうだが」
ソールはふう、と息をつくと、ヴォルガをちらりと見た。浅く頷き、ヴォルガが説明を引き継ぐ。
「いろいろな情報が錯綜しているのですが。民衆の中には、リードラの独立のためにリードラ公が立ち上がったのだ、と思っている者が多数あり、避難どころか、我が軍を追い抜く勢いで帝国軍に向かって行ってしまったのです」
「そんな。それでは皇族を戴いて独立を目論んでいた、という言いがかりが本物となってしまうではありませんか」
「ええ、そうです。一方で、妃殿下が性別を偽っているという噂も流れ、リードラの民を騙し続けた妃殿下さえ帝国軍に引き渡せば兵は引いていく、と信じている者も多いのです。帝国軍が閣下の命を奪いたいのは明らかなのですが、妃殿下を受け渡せ、と閣下に迫る民衆もその波に乗っており、民衆同士がぶつかるような事態にもなっていましてな」
「なにそれー。頭こんがらがってきた」
ネイがうんざりと天井を仰ぐ。
「誰かが意図的に帝国軍を呼び寄せ、民を焚きつけ、情報を混乱させているとしか思えん。王太子はやり手と聞いていたが、ここまでとはな。内通者の存在に気がつけなかった、俺の落ち度だ」
「内通者」
ハンナが、どこか呆然としたように呟く。誰かのことを思い浮かべているようだった。そこへ、通せ、という怒号が聞こえてくる。ヴォルガが血相を変えた。
「誰だ、屋敷の周囲は守りを固めているはず」
「私はジーク・サファイアです、殿下が、妃殿下が!」
全員がハッと目を見開いた。すぐさまソールが命じる。
「通せ」
扉が開かれると同時にまろび出るように入室したジークは、血と泥に汚れた姿で呼吸を乱していた。
「妃殿下が、屋敷のすぐ前まで来ているとのこと! 帝国軍に対峙するおつもりのようです。オパール、サファイア、すぐに外へ向かって妃殿下をお助けしてくれ。ヴォルガ殿は、どうか、民衆が手を出さぬよう、リードラ軍に指揮を」
ヴォルガがソールを見やると、ソールはすぐさま頷く。ネイはハンナとともにヴォルガを追って駆け出した。が。
「オパール?」
玄関先まで来たところで、不意に、ハンナが立ち止まる。
「先に行って、サファイア」
「え、でも」
「お願い。殿下が近くに来ているというのは、たぶん本当だから」
踵を返して駆け戻ってゆくハンナを、ネイは少しだけ躊躇うように見送ってから、ネイは玄関に向き直った。ここを開けるかどうか、しばし迷う。戸の内側からでも、凄まじい喧騒と混乱が渦を巻いているのがわかった。周囲を見回したが、ヴォルガの姿はない。おそらくは、別の出入り口があるのだろう。
「しまった、訊いとけばよかったわ」
仕方がない、とネイは身を翻し、二階の窓へ向かった。まずは外の様子を見きわめなければならない。
「うっわ」
守りを固めるリードラ軍、攻め寄せんとする帝国軍、その間で騒ぐ民衆。そのどれもが、前にも後ろにも行けずにひしめき合っていた。ジークの言葉がたしかなら、殿下はこの中に突っ込もうとしているということなのではあるまいか。
「それはいくらなんでもさあ。っていうか、どこにいるのよ、殿下は」
窓から目を凝らして、ネイは何か細長いものが人々の渦に近づいているのに気がついた。
「何あれ、人? っていうか新手? 嘘でしょ!?」
それは見たことのない騎馬隊であった。
日暮れが、迫っている。サリードラ邸を目の前に、ホウタツは先へ進めずにいた。表も裏も取り囲まれ、突破口が見当たらない。ひとまずあの渦からは死角となる坂道の下で様子を窺うしかない。
「殿下、決してここから身を出さぬように」
ルカが覆いかぶさるようにして殿下の身を隠す。
「ああ。けれど、どうする。いっそ正面から突っ込んでは?」
「死ぬ気ですか?」
「けれど」
殿下は焦った声を出す。その焦りに釣られないように、とホウタツは息を整える。と、何者かの気配に気がついた。
「ルカ、誰か来る」
「はい」
ホウタツとルカが剣の柄に手をかけて身構える。そこに現れたのは。
「切り捨て御免、は困るよ、騎士サマ」
「リク!」
「ガーネット!?」
白いドレスの上に外套を着こんだ、小柄な剣士、リク・ガーネットであった。
「はー、よかった、合流できた。あいつのおかげだな」
あいつ、と言いながらリクは頭上を指差す。そこには、空高く飛翔する雪鷹の姿があった。
「もうちょっとでも陽が落ちてしまえばその手も使えなかったから、危なかった。殿下、ご無事でよかった」
「うん、そなたのおかげだ、ガーネット。よくやってくれた」
「お礼はちょっと早いかな。まだあそこの中に入らなくちゃいけないんでしょ、殿下は。閣下を見捨てるわけにはいかない」
「ああ。私と閣下が並んで、皇帝陛下と王太子殿下に話をしなければ」
自分はリードラ公妃であると示す。そのためにはドレス姿であった方がいい、と殿下は譲らなかったのだ。
「だけれど、乗り込むのが無理なのであれば、私はここで名乗りを上げようと思う」
「えええ、そんなバカな。何のために俺がここに来たと思ってるのさ」
殿下とリクのやり取りを見守りつつ、ホウタツは周囲の異変にいち早く気がつく。
「おい、リク、あれを」
「ん?」
「新手!?」
帯状にやってくるのは、騎兵隊であった。あの大混乱の中に帝国軍の新手が加われば、リードラ側の死傷者はいったいどれほどになるか想像もつかない。
「違う、あれは、閣下の隊だ」
息を飲んでそう告げたのは、殿下だった。
「閣下の隊? え、まさか」
「うん。ガイ・オニキスを所属させた隊だよ」
「なんと……」
ルカが呆然と呟く。目をこらすと、隊の姿が少しずつはっきりしてきた。リクがチッと舌打ちする。
「うっわ、ガイのやつ先頭にいやがる、腹立つわー。まあ、しかし、助かりましたね、殿下。あの隊が、正面から突っ込むときを狙いましょう。俺が正面玄関を目指すような動きをしますから、殿下はホウタツとルカと一緒に周囲が俺に気を取られている間に脇から行ってください」
「……わかった。ガーネット、無事で」
「もちろんです。嫁入り道具ってのは、一生大切にされるものなんでしょ? これからもよろしく頼みます、殿下」
冗談めかした口調でそう言ってから、リクは外套を脱いだ。白いドレスが輝かしく現れる。
「それにしても、よく持ってたな、ドレスなんか」
ホウタツが感心つつも呆れると、リクは口を尖らせた。
「持ってるわけないよ。がんばって調達したんだ。おかげで殿下へのタルド土産のインクが消えた」
「ふたりとも、オニキスの隊が来ますよ」
ルカの合図で、全員が頷きあい、飛び出した。リクが真っ先に人の渦へ突っ込んでゆく。
「なんだ!?」
「女!?」
「白いドレスだぞ、皇女じゃないか!?」
「違う、皇女を騙った皇子だ!」
「ええい、どっちでもいい、捕らえろ!」
色めき立つ帝国軍の兵たちを、リクは容赦なく斬り倒してゆく。
「皇女でも皇子でもどっちでもよかったならさあ、最初からそう言ってくれよ。そしたら殿下はもっと自由に空を見られたはずなんだ」
口の中で呟きながら、リクは鮮やかに刃を舞わせた。まさか皇女が突然刃物をふるうと思っていなかったらしい兵たちが目に見えて狼狽する。が、多勢に無勢には変わりなく、リクはあっという間に取り囲まれかけた。が、そこに。
「佳人にうつつ抜かしてると命とられるぜ!」
騎兵が、割り込んだ。ガイ・オニキス。その姿を見るのは、リクも久しぶりだった。
「お守りするぜ、おうじさま」
「……最初で最後だからね、そう呼んで俺が怒らないのは」
ニヤリと笑いあって、ふたりは兵をなぎ倒した。
リクとガイの大暴れに、人々の目は見事に奪われた。ホウタツとルカはもっとも人気の薄い場所を選び、殿下の脇をかためてそろりと進んだ。屋敷の壁まで、あと少しというところで。
「妃殿下?」
「おい、ここにも白いドレスの女がいるぞ」
気がついた者が、いた。ホウタツが即座に腕を振り上げるが、それを殿下が止めた。
「いけない、ジェイド、相手は民です」
「ですが!」
「うわあああ、殺される、殺されるぞ、殺せ、皇女を!」
「なんで、妃殿下が」
「誰も中に入れるな、押し戻せ!」
「妃殿下だと? 本当か?」
「まずい、殿下、突っ切ってください!」
じわじわと広がる混乱と、武器を取り上げる気配に、ルカが殿下の体を奥へ押しやる。殿下が一気に駆け抜けようとしたところに、誰かの剣が振り下ろされようと、して。
「殿下に触るんじゃないわよッ!」
甲高い叫び声とともに、何かが上から降ってきた。パキン、と刃が折れる音がする。
「ネイ!」
「行って、殿下!」
屋敷の二階から飛び降りてきたネイが、叫ぶ。普段ならばあと数歩の距離だった。殿下が必死に人をかきわけて進むのを、三人もまた命を捨てる思いで守った。ひょう、ひょう、と矢が放たれる音がし始めていた。
どこに繋がっているかわからないまま、アルテムは扉を突き破るようにしてサリードラ邸へ入った。背後では、リードラ兵たちが必死に民衆を押しとどめているのがわかる。
「っ、」
腹に熱いものを感じると思ったら、矢傷らしい亀裂が入っていた。鮮血があふれ、白いドレスをみるみる赤く染め上げる。
「いっ……、あーあ。これなら赤いドレスにしてくればよかったかな」
誰に聞かれることもない軽口で己を励ましながら、アルテムはよろよろと歩き出す。動けないほどの傷ではないが、このまま血が流れ続ければ危ないのではないかとは思う。
「閣下は、どこに」
見回せば、まるで誘導するように一本道となって扉が開け放たれていた。ふらふらとそちらへ向かうと、その奥から、聞き慣れた声が響いてくる。
「お兄さま!!」
「……ハンナ……?」
アルテムは、その声の方へ向かい、進むにつれて見えてくる光景に、我が目を疑った。
「どういう、こと」
腹の痛みと目の前の光景とで、声が上手く出ない。
剣を構えるハンナが睨みつけているのは、ジーク。ジークの手には、彼が愛用しているタガー。そのタガーは、赤く染まっており、そして、ソールがうつぶせに倒れていた。
「なんてことを!」
ハンナが叫ぶ。アルテムが近づいてきていることに、まだ誰も気が付いていないようだった。
「ソール・サリードラの命と引き換えに妃殿下の命はお助けいただく。そういうようにアレクサンドル王太子殿下と話がついている」
「嘘よ!」
「嘘ではない」
「いいえ、嘘だわ、そんな約束、果たされるわけないとお兄さまはわかっているはずよ。お兄さまは殿下の命すら奪われても構わないと思ったんだわ、そうでなければ! そうでなければ! こんな無茶苦茶なことするはずがない、殿下を真っ先に安全なところへお隠しになるはずよ!」
喉が裂けるのではないかと思うほどの、渾身の叫びだった。アルテムの足が、止まる。
「……そうだね。その通りだ。俺は、殿下を解放して差し上げたかった。望まぬ婚姻を結んで、いつまでも女性のふりをして生きていかれるのが、不憫だった。いや、それも嘘かもしれない。もう、わからないな」
乾いた笑いがジークの口から洩れるのと同時に、床に伏したソールからうめき声が上がった。
「閣下、動いてはなりません!」
ハンナの制止が聞こえなかったように、ソールが身を起こし、長椅子にもたれかかるようにして顔を上げた。生きていらっしゃった、とアルテムは安堵するが、決して安心できる状態ではない。もはやどこに怪我があるのかもわからぬほどソールの全身は血まみれで、おびただしく出血していた。
「不憫だった、というならば、他にやり方があったのではないのか、ジーク・サファイア。リーザは、望まぬ婚姻をすることでしか、自由を得ることができなかった。そのようなことは、本来あってはならないんだ。性別を偽って、女性のふりをすることから解放したかったならば、変えなければならないことがたくさんあった。……起こりうる問題の原因がなんであるのかを考えてくれと俺はあの大樹の下で諸君らに言った。これが、その答えか。自由になりたければ死を選ぶしかないのだと、リーザに言えるか」
一息に言ったソールの息が、ぜえぜえと上がっていた。止まっていたアルテムの足が、再び動き出す。
「なにが、リーザだ」
ジークが、低く言う。血に濡れたタガーが、振り上げられた。
「そんな名で、殿下を呼ぶな!!!!!」
「お兄さま!!!!!」
ふたりが、同時に叫んだ。そして、アルテムも、駆け出した。
「ジーク! ハンナ! やめろ!!」
アルテムのその声が、届いたのか、どうか。アルテムは足をすべらせて倒れこみ、その目の前に、ジークの体が、落ちてきた。そこへ折り重なるように、ハンナの体が伏す。互いの刃が互いの喉笛を切り裂いたらしいということは、勢いよく噴き出す血しぶきでわかった。
「で、んか」
呼んだのが、ジークなのか、ハンナなのか、わからなかった。
「ああ、ああああ……」
呻くごとに、自分の腹の傷も開いていくのがわかる。力を振り絞って身を起こせば、ジークとハンナの体の向こうに、苦しげに息をしながらアルテムを見つめるソールの姿があった。長年の従者の死を悲しんでいる時間は、誰も与えてくれそうにない。
這うようにして、アルテムはソールに近づいた。ソールも、必死に腕を伸ばしているのが見える。ようやく、その手を取ったと思ったら、ソールはどこにそんな力が残されていたのかと思うほど強く、アルテムを抱き寄せた。
「なぜ来た。なぜ逃げなかった」
「なぜ、って、そんなの、決まってる、私が、リードラ公妃だからだよ」
「バカなことを。逃げれば、今度こそ本物の自由が手に入っただろうに」
「まさか」
もう誰の血で濡れているのかもわからない手で、アルテムは必死にソールにしがみつき、その顔に己の顔を近づけた。
「私は、空が見たかったんだ。王宮の窓に切り取られているのではない、違う空が」
「では逃げて、その違う空を見に行けばよかったのだ」
「見れないよ。空は、光がなければ見れないんだ。……あなたが、私の光だ。あなたのいるところで見る空が、私の見たかった空だ」
「っ、は、ははは」
ソールが、笑った。渾身の力でつくりだした、笑い声だった。ふたりの体を、溢れだす血が温かく濡らし、そして冷やしてゆく。
「とんだ殺し文句だ。その言葉に殺されるなら、悪くない」
「で、しょう……?」
「アルテム、お前が、妃で、よかった」
それも殺し文句だね、とアルテムは言いたかった。声になったかどうか、よくわからなかった。春なのに、ひどく寒いと、思った。
ふたつの光が、ついえたのだった。
ぽた、ぽた、と雫が落ちる音がしたような気がして、リザは目を覚ました。今年もまた待ちに待った雪解けの季節、春が来たのだ。
「おはよう、マァマ!」
飛び起きて、窓に張りつくように外を見る。
「リザはこの時期にばっかり、早起きね」
オリガがくすくす笑うのを背に聞きながら、リザは春と同じくらい待ち遠しく思っているものを懸命に探した。
「あの、きれいなめの、おうじさま、またこないかな」
宝石のような目を持った、美しい青年を、リザは春に来るひとだと信じてずっと待っていた。
けれど、何年待っても、二度と、その姿を見ることはなかった。
皇子殿下の嫁入り道具 完結編 紺堂 カヤ @kaya-kon
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