第3話 急転
馬にてリードラ領を走ると、領民から声をかけられる。お妃さま、とか妃殿下、と呼び止められるのにアルテムは駒を止めて逐一手を振る。ときには姫さま、と呼ばれるのにはつい笑ってしまうが。
この二年、アルテムはリードラ領の隅々まで足を運んだ。最初はソールに付き添う形で、途中からはジークやホウタツらの親衛隊の者を数名だけを連れて。とにかく人々のことを、領民の生活を知っておきたかった。人気取りだ、と陰口をたたかれたのにはやや傷ついたが、人気を得ることの何が悪い、という言葉に気を取り直した。もちろん、ソールの言葉である。光そのもののような男だ、とアルテムは思う。本人には告げないけれど。
「殿下、どこかで休憩を取りますか?」
すぐそばを併走していたホウタツが声をかけた。今日はホウタツと他三名の騎士を連れての道行きとなった。ジークは数日前から所用とやらでリードラを離れている。最近、ロベーヌの方面が落ち着かぬ様子を見せているらしく、ソールも少々神経を使っていた。
「いいえ、このまま行きましょう。この分なら予定より早く到着できるのではなくて?」
「はい、昼過ぎには」
リクの到着を待つ可能性を鑑み、学術研究所付近に数日滞在するための荷があるため、アルテム一行はいつもより早めにサリードラ邸を出発していた。が、天候に恵まれたこともあり、順調に歩を進められたようだ。
休息を省略することに決めた一行は、多い町と大通りを避け、学術研究所までもうそろそろ、というところで、不意にホウタツが動きを止めた。
「殿下、お待ちを。何か、様子がおかしい」
鋭いまなざしでホウタツが見る先には、まだ豆粒ほどの大きさにしか見えぬ学術研究所の建物があり、アルテムの目には何がおかしいかよくわからなかった。
「少し窺ってまいります。殿下はここでお待ちを」
ホウタツは部下に目配せをしてから、ひとり馬を走らせた。まっすぐには建物へ向かわず、迂回するように進んでゆく。しばらくして、ホウタツは全身に警戒をみなぎらせ、厳しい表情で戻ってきた。
「まだ詳細がわかりませんが、少々、厄介なことになっているようです。ひとまず、警戒のために研究所へは裏口から入ります。お前たちはできるだけ分散し、時間を空けて後に続け」
アルテムはともかくもホウタツの判断に任せた。剣術に自信はあるとはいえ、戦場のような有事の経験はない。あの嫁入りの道行きを戦場に数えるならば話は別だが。
研究所の裏手から入ると、そこには待ち構えていたかのようにルカが控えていた。蒼白な顔でふたりを見ると、黙ったまま小さな部屋へ連れ込む。
「ああ、殿下。ご無事でよかった。ホウタツがついていたのが幸いしましたね」
か細く震える声でそう言うルカの衣服は、よく見るとずいぶんと汚れがあり、ところどころ破れていた。
「ルカ、どうした、傷があるのでは」
「いいんだ、それよりも」
ホウタツの気遣いを遮って、ルカは早口に説明を始めた。
「先ほど、ここに帝国軍が来ました。殿下を、探しておられた」
「わたくしを? 帝国軍が?」
「なんでも、性別を偽って公妃となった罪がある、と。リードラ公はそれを知りながら、皇族を戴いてリードラの独立を目論んでいた疑いがある、と。つい、今朝のことです」
「なっ」
アルテムは、絶句した。隣でホウタツも言葉を失っている。
「無抵抗で殿下を引き渡し、リードラ公も投降すれば軍を引く、そうでなければリードラに攻撃を始める、と」
「無茶苦茶だな。そして、閣下が殿下を引き渡す約束をするとは思えない。投降も、な。そもそも何の軍事行為も起こしていないのに投降とはどういうことなんだ」
「……時間稼ぎくらいは、なさるはずだわ、閣下は」
あまりのことに、理解が追い付かない。が、その一方で帝国ならばやりかねないという気持ちもあった。帝国、いや、あの兄ならば。
「たぶん、時間稼ぎをなさっているのだと思います。けれど、殿下が今日、ここへ来ることを帝国軍はすでに知っていたようで、先回りをされたんです」
「帝国軍が、知っていた? 殿下がここに来ることを?」
「はい。先回りが可能ということになると、おそらくはサリードラ邸で聞き出した情報ではないはずです。……どうやら、密告をした者がいるようです。殿下の性別のことも、おそらくはそのように」
「一体、誰が? 殿下の性別のことを知っている者など、限られているだろう」
「わかりません」
ホウタツとルカのやりとりを耳に入れつつ、アルテムは考え続けていた。たとえここでアルテムが姿を現し、帝国に身柄を預けたとてリードラに対する攻撃が取りやめになることはないだろう。ソールはすぐさま自軍を動かしているはずで、おそらくはもう戦闘が始まっている。
「で、今、兵は? 隠れている、というわけでもなさそうだが」
「引いて行きました。さんざん家探しをされたのですが、先ほど、帝国軍の伝令が『エリザベータはリードラの北端へ向かっているらしい、白いドレス姿で、自分で馬を走らせている、追え』と情報を持って走りこんできまして」
「白いドレス姿で?」
「そんな恰好で馬に乗るわけ……、あるな、私はそうやってリードラに嫁いだんだった」
アルテムは乾いた笑いを浮かべようとしたが、その口元すら引きつっていた。もはやエリザベータとしての振る舞いは投げ捨てている。語っているのがルカでなければ、どんな大掛かりな嘘かと疑うところだ。
「では兵は北へ向かったわけか。しかし、助かったのはたしかだが、なぜそんな情報が?」
ホウタツが言うのと同じことを、アルテムも考えていた。が、はたと思い当たる。
「……ガーネットだ」
「リク?」
「ガーネットは、今日私がここに来ることを知っているんだよ。どこかで帝国軍のことを耳に入れ、私の身替わりとなって誤った情報をわざと流したのでは」
「なるほど、そういうことですか。と、なると……、密告者は……」
ルカが沈痛な面持ちでうつむき、言葉尻を濁した。発せられなかった名前を、アルテムは察した。ルカはおそらく、リクかガイを疑っていたのだろう。心情を排して、状況的に、冷静に。そうだ、冷静にならなければならない。アルテムはそっと深呼吸をした。
「いずれにせよ、今のうちです、殿下。リクの身替わりがバレないうちに、リードラを出ましょう」
「……なぜ?」
「なぜ、って、このままでは殿下のお命が」
「命を惜しんで、私だけ逃げよと? 戦っている閣下を置いて? そんなことに、どんな意味がある」
目を見開いて驚愕しているホウタツとルカを、アルテムは見据えた。
「私は、たしかに性別を偽った。女ではないし、エリザベータという名も嘘だ。けれど、それでも、リードラ公ソール・サリードラの妃だ。それだけは、本当だ」
俺の妃だと、言われた。ほかならぬソール・サリードラに。
「閣下のもとへ参る。……そなたたちは、逃げてよい」
もっと早くそうすべきだった、とアルテムは悔いた。本当は、リードラへ嫁すまでの護衛という約束だったのに、ずいぶんと長く手元に留めてしまった。彼ら宝石たちの輝きゆえに。
「いまさら何を」
はあ、とホウタツがため息をつく。彼のそんな様子は珍しかった。ルカも苦笑して微笑む。
「こんなところで手放していただいては困りますよ、殿下。宝石は身に着ける者があってこそ、なのですから」
アルテムには、返す言葉がなかった。ありふれた感謝の言葉では、とても言い表せない。複雑な笑みで口を引き結ぶアルテムを見て、ホウタツが少しだけ笑んだあと、すぐに眼光を鋭くした。
「のんびりしている時間はありません、行きましょう、殿下」
「ええ。けれどその前に。私の荷物の中から、白いドレスを」
「殿下!」
「お願いだ」
アルテムの青い両眼は、ホウタツに負けず劣らず鋭いものであった。
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