第2話 手紙

 雪鷹が戻ってきている、とハンナから聞き、アルテムはすぐさま中庭へ向かった。

「おかえり。ふふふ、元気そうだわ」

 この雪鷹は、もはや帰ってきている、という感覚を持っていないかもしれない、と思いつつアルテムは翼を撫でた。すっかりリクに懐いているらしく、アルテムにはどこかよそゆきの顔を見せる。雪鷹の首にかかった筒を外し、使用人に餌をやるように命じて、アルテムは室内に下がった。筒の中には、リクからの手紙が入っている。


  親愛なる殿下

 お元気でいらっしゃいますか。閣下とは仲良くやっていますか。まあ、きっと仲良くしているんでしょう。

 俺は今、タルドにいます。この国へ来るのは二回目ですが、やはり不思議な国です。いろんな物と人が入り混じっていて、統一感がまるでない。なのに、皆それを当然のことと思っているようなのです。俺のような余所者にも全然驚かないので気は楽です。

 タルドは毎日晴れていて、賑やかです。帝国も今は気候のいい時期でしょう。そうそう、市場で、珍しい色のインクを見つけたので買ってみました。筒には入らないので持って帰ります。そろそろ一度、リードラへ戻ろうかと思っているので。

 明日にはタルドを発ち、三日後にはロードへ入る予定です。そちらへ向かう前に、ルカのところへ寄る予定です。たしか殿下も、そのころにルカを尋ねると書かれていたかと思いますので、きっとそこで会えるでしょう。では、またそのときに。


追伸

 タルドの草原を馬で駆けていたら、不意に、殿下や閣下と遠乗りに出かけた春のことを思い出しました。まだ俺たちが全員揃っていたころのことです。すでにもう懐かしい気がします。

 リク・ガーネット


 決して長くはないその手紙を二回読んでから、アルテムは顔を上げた。

「リク、帰ってくるのね」

 もっと余裕を持って連絡をくれれば、と思うが、これでも昔よりはましになったのだ、と考え直す。以前にアルテムが書き送った予定を覚えていたのだから上出来だ。ルカのいる学術研究所は、サリードラ邸から馬で半日程度の距離にある。

「久しぶりに騎乗して行こうかしら」

 手紙をもう一度眺めて、アルテムは微笑んだ。リクが追伸に書いている遠乗りのことは、アルテムもよく覚えている。忘れられはしない。なにせ、悔しさのあまり人前で涙を流したのは、あれが初めてだったのだから。

 あの日、遠乗りに出た先でアルテムはソールの友人であるという男たちと対面した。帝国に思うところのあるらしい彼らは、アルテム、いや、エリザベータを見てこう言ったのだ。「お美しい皇女サマ」「旦那がこんなに綺麗なお妃さまを迎えられたっていうのは、よかったな、って思う」と。アルテムの全身に雷のような痺れが走った。そもそも、帝国に思うところがある、ということにも衝撃を受けたのだ。衝撃を持て余すアルテムに、己の見識について、自らに憤りを感じているのだろう、と指摘したのはソールだった。

「私が美しくなければどうなっていた? 私は何も知らなかった、帝国に反感を持つ者らが同じ帝国内にいるということを。それを知らずに寝食の心配をせず暮らしてきた。そして知らないでいたことを、ただ美しいという理由で見逃された。何もかもが理不尽だ!」

 そう叫びながら、気がつけば涙を流していた。ソールはその叫びを黙って聞き届けたのち、静かに告げた。

「そう、何もかもが理不尽だ。君は何も知らなかった。が、あいつらも何も知らない。皇女は何の苦労もなく幸せに生きてきたと思っている。たしかに、飢えや寒さに苦しめられたことはなかろう。だが、王宮から出ることができず、存在などないかのように秘匿され、さらには自分の血縁者に命を狙われる。そうした恐怖を、あいつらは知らない。違うか?」

「それはそう、だけれど」

「知らないことは、これから知ればいい。見た目で判断されたことが悔しいのなら、変えればいい。夏のうちに十日ほどでも畑仕事をしてみよ、その白い肌はあっという間に日焼けするぞ。まあ、それは少し惜しい気がするがな。折角、美しい妃を持ったと褒められたのだし」

「良いことを言っていたのに、今ので台無しになったが? まあ、この外見がなければ皇女エリザベータとなることは不可能だっただろうから、これについては私も同罪か」

「ははは、そうかもしれんな。利用できるものはなんでもすればいいのだ、はったりも時には必要だしな。だが、それは知ることと誠実さとを持ち合わせてこそ有効になる手段ではあるが。俺がロベーヌの反乱を収めたときもそうだった」

「ロベーヌ。一滴の血も流さず制圧した、という?」

「そう。一体どんな手を使ったのか、と巷で噂のアレだ。お美しい皇女を妻に迎えることができたのは、これのおかげだな」

 冗談めかしたソールの言葉に、アルテムの涙はすっかり止まってしまった。

「どんな手を?」

「どんな手もなにもない、俺は民草にただ一言こう告げただけだ。ロベーヌ公に交渉し、必ず税の取り立てを緩和させる、と」

「え」

「交渉が上手くいくとはかぎらなかったから、最初の発言は完全にはったりだ。だが、彼らが何を求めているのかを知っていたからこそできたはったりでもある。結果、反乱は収まり、収まったことによって俺は税についての交渉ができた。緘口令は敷かれたがね」

「緘口令……。だから噂のようなことになったのか、どんな手を使ったのかわからない、と。しかしなぜ、ああ、そうか、同じような反乱を誘発しかねない、か」

「まあそういうことだろうな。都合の悪い物事は消すか隠すか、だ。よくご存じだろうと思うが」

「ふふふ、そうだね。この国はそういう国であった。それでいうと、私は存在そのものが都合の悪いものということになるか」

「皇子だったころは、な」

 自嘲めいたアルテムの言葉を、ソールはあっさりと肯定した。そんなことはない、というような慰めのセリフは一切ない。だが。

「今は違う。俺の妃なのだから」

 こういう言葉もまた、あっさりと口にするのだった。

「殿下」

 ハンナの声で、アルテムはハッと顔を上げた。夢から始まって、今日はずいぶんと昔のことを思い出す日だ。

「ガーネットはなんと?」

「タルドにいるそうです。元気そうですわ。ああ、数日のうちにリードラへ帰ってくるとのことよ」

「そうですか、ようございました」

 穏やかに頷いて、ハンナが茶器を卓上に揃えた。あたたかな湯気とともにかぐわしく茶が淹れられる。

 ハンナはリードラに来てから顔つきが明るくなった。アルテムの命を守ることについて、危機的状況は完全に脱したと判断したためだろう。そう思うと、自らを投げうつような仕え方を幼少のころよりさせてきたことについて申し訳なくなるのだけれど、それを口にすることは彼女らのこれまでの働きに対して失礼というものだ。

「どうなさいました? 私の顔になにかついていますか?」

「ああ、ごめんなさい、そうではないの」

 カップを差し出しながら怪訝な顔をするハンナに、アルテムはゆるく首を横に振った。

「ただ、少ししみじみしてしまって。わたくしは、本当に良かったと思っているんです。オパールや、ガーネットのような友人を得られたことを」

「友人、でございますか。恐れ多いことにございます。我々は殿下の兵にして従者。宝石の名を持つ嫁入り道具でございます」

 深々と頭を下げるハンナに、アルテムは苦笑した。そう答えるしかないのだろうことはわかっていても、少し寂しかった。だが、ハンナが心から喜んでくれていることは、表情で伝わる。それで充分だ。

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