第11話

salt side


 目が覚めたら、松波さんの顔が間近にあった。とっさに起きあがろうとして、頭の痛みで顔が歪む。しかも手が背中側に縛られていて、うまく起き上がれない。

 ここはどこだろう。

 シンプルな内装の部屋にはベッドが二つ、鏡の前にカウンターのような作りの机と椅子があって、おそらくビジネスホテルだと当たりをつける。

 そうだ。思い出した。

 高春さんと公園で別れ、家に帰ろうと歩いている時に、後ろから襲われてそのまま気を失ったのだ。

 松波さんは私から離れて椅子に座り、ウイスキーのような物を飲んだ。

「どうして、こんなことを?」

 恐る恐る聞いてみる。すると彼は、分からないと言った。

「君と時任くんの姿を見た時に、頭に血が昇ってしまってね。僕とは忙しくて会えないって言ってたのに。しかも見せつけるように、あんなところでキスをして。許せないと思った。気がついたら君を殴って、こんなところに連れてきてしまった」

 僕は君のことになると、おかしくなる。

 ひとりごとのように、松波さんは話し続ける。

 僕には小さい頃から許嫁がいて、誰かを好きになってもその人とはいずれ別れることが決まっていた。そう思うと恋愛するのが怖かった。詩音ちゃんに初めて会った時も、年も離れてるし妹のように感じていたよ。だけどいつからか、異性だと意識するようになった。月夜には一度も感じたことのない、女性としての魅力を強く感じてしまったんだ。

 自分でも抑えようとしたけど、一向に治らない。月夜との婚約を破棄しようとしたが、逆に絶対に避けられないと思い知って、とても辛かった。そんな時に、君から恋人が出来たと連絡を受けたんだ。その時の怒りと悲しみは、君には想像もつかないだろうね。

 松波さんは私を見た。目から涙を流している。

「君と僕とは結ばれない運命だ。それならいっそ、僕のことを刻みつけて、一生忘れない傷をつけてしまえばいい」

 ウイスキーを一口で飲み干して、松波さんが近づいてきた。顔をつかまれて、無理やり口を押し付ける。私は大声を出して、松波さんの鼻に頭突きをし、ベッドから飛び降りた。

「私に近づいたら、舌を噛んで死んでやる」

 そうすごむと、彼は鼻を押さえながら、

「わかった。何もしない。申し訳なかった」と謝った。

「悪いけど、あんたみたいな異常者を好きになることは一生無い。自分の欲望だけ押し付けて、迷惑かけるなんて最低。私のことが好きなら、私の意思を尊重して。あんたのは愛じゃなくて、ただのエゴだから」

 手首に巻かれた紐がようやく解け、私はドアの鍵を開けて外に出る。そして、

「キモいんだよマジで」とわざとギャルっぽく言い捨て、キルミーの仕草をしてから部屋を出た。上手くいったかどうかわからないけど、松波さんはもう追いかけてこなかった。


 外に出てタクシーに乗り、家に帰ってすぐ、両親に手首のアザを見せた。そして、松波さんに襲われたと言って、証拠を残すために写真を撮ってもらった。

 父はとても驚いて放心状態になっていたが、母の方は頭から湯気が出てるみたいに怒って、すぐに訴えましょうと弁護士へ電話をかけようとした。その手を押さえて、

「問題にはしない。向こうが何か仕掛けてきたら、その時は容赦しないけどまずはこのまま放っておいて。ただし、もう二度と会わないように手を打って」

「……詩音はそれでいいの? また何かあってからでは遅いわよ?」

「大丈夫よ。多分向こうも、もう熱が冷めたと思うから」

「いや、訴える!」

 急に父が立ち上がったので、二人で必死で止めた。

 翌日、病院で検査をして帰ってきたら、松波さんからお詫びの品物や慰謝料の書留が送られていた。私たちはそれらを写真に撮ってから全て返品した。LINEの方で、一度だけお詫びさせてほしいと連絡があったが、その画面もスクショで保存したあとにブロックした。

 父の方も水面下で動いてくれて、松波さんは会社を退職。家も引っ越して文字通り私の前から消えた。

 

 それから数ヶ月後、久しぶりに柚子さんとブリティッシュパブで会った。

「それにしても、松波さんの件が解決して良かったわね」

 柚子さんがグラスを傾けるので乾杯する。

「本当に良かったです。月夜さんとの婚約も白紙になったので、松波さんには良い相手が見つかるようにって祈ってます」

「詩音ちゃん、いい子過ぎない?」

 私が微笑むと、前より明るくなって本当に良かったと胸を押さえた。

「柚子さんも順調じゃないですか。お子さんたちと会ったんでしょ?」

「うん。二人とも、会った途端に泣いちゃった。でも許してあげるって言ってくれたの」

「良かったですね」

 胸があったかくなって、自然に笑顔になる。

「うん。そういえば詩音ちゃん落ち着いた? 課題が大変って聞いてたけど」

「……その大学なんですけど、やっぱり辞めようと思って」

「そうなの? たくさん単位が取れたって言ってたのに」

「はい。もったいないんですけど、元々絵が好きで入った訳じゃないし、未だに全然上手くならないんです。なので思い切って、映像の大学か、専門学校に行こうかなって思ってます。昔から映画が好きなので」

「そっか。他に目標があったのね。それがいいわよ。好きなものなら、人ってもっと頑張れるからね」

「はい。それで、ユーチューバーの友達のお手伝いをしようと思ってたら、その子もアッサリやめちゃって。イジメとか友達関係で悩んでる生徒のための、スクールカウンセラーになりたいって今、学校を探してるんらしいんです」

 前に会った時、エルはとてもサッパリした笑顔で、次は対面で人を助けるんだと息巻いていた。つくづく強い子だと思う。

「あ、そうだ。こないだばったり、八重樫くんに会ったのよ」

「ああ、高校生の男の子ですね」

「なんかジャージで走ってる子がいるなと思ってたら、向こうも気づいてくれて。それでね、あのバスに乗ってる人、全員パラレルワールドでこっちに来てるのかなって話したら、乗ってたお婆ちゃんは二人とも知り合いだけど、パラレルワールドっていう言葉が通じないって笑ってた」

「なるほど。その概念がそもそも無いっていう」

「そうなの。あと、運転士さんはあれからすぐ、転勤になったみたい」

 そう言って柚子さんはビールを飲む。結局、私があのバスに乗った意味だけわからないままだったなと思ってたら、

「この世界線に来たお陰で色々なことに気づいたし、詩音ちゃんにも会えたし。私たちにとってはラッキーなバスに乗ったと思って、これからもここで生きていきましょう」

 柚子さんに求められて、私は彼女の手を取り握手する。

 どの世界線にいても悩みや嫌なことはあるし、ハッピーなこともたくさんある。それなら今の状況を変える努力をしたり、もっと楽しんだ方が後悔しない生き方だと思う。

 こんなことは、元の世界線では考えたことすらなかった。

 成長のきっかけをくれた、あのバスにお礼を言いたくなった。あ、でも重症の人もいたから、ラッキーとかお礼を言うのは不謹慎かもしれない。

 今度、エルの家に行く時は、迎えに来てもらわずに路線バスに乗ってみようと思った。

「あ、ケンタくん?」

 柚子さんが突然、通りかかった男の人に声をかけた。振り返った彼は青い目で柚子さんをじっと見て、

「ごめんなさい。覚えてないです」と拝む仕草をした。

「ああ、いいのよ。気にしないでね」

 柚子さんが笑顔で手を振る。軽く会釈して歩き出す背中を追ってたら、

「また違う世界線に来ちゃったのかも」

 柚子さんが耳打ちする。

「まさか。ケンタさんが忘れちゃっただけですよ」

「えー? こんな美人を忘れるの?」

「柚子さん、酔ってますね」

「だって楽しいもん。この世界線、最高!」

 また乾杯をして、私もカクテルを飲む。最高とまでは、まだ言えないけど。いつか最高と言える日が来るように、私も精一杯ここで頑張ろうと心に決めた。

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