第10話
citrus side
あの日以来、高春が私のベッドで眠るようになった。ちょっと硬めの安眠枕だと思ってたけど、本当に一向に手を出してこない。いや、出してほしいと思ってる訳じゃないけど、タラシのイメージが強いせいか不思議で仕方ない。
だからと言って、なんで手を出さないのか聞くのもおかしいし、モヤモヤしたまま日々が過ぎていく。
「棚橋さんと会うの、明日だよね」
ベッドに座り、スマホゲームをしながら私に聞く。頷くと嫌だと、勢いよく横になった。
「埃が立つからやめなさい」
「お母さんみたいなこと、言うなよ」
嫌だよと何度もごねる。子供か。
「ね、俺も一緒に行っていい?」
「なんでやねん」
クローゼットを開けて、明日の服を見繕ってたら、
「じゃあキスして」と甘えてきた。
「何言ってんの」
「いいじゃん、一回だけ」
無視して服を出し、気に入ってるカーディガンと合わせてみた。結構いい感じ。ちらっと高春を見ると、横を向いて拗ねている。面倒くさい奴。
「そんなに心配なら、駅まで迎えにきてよ」
私が譲歩すると振り返って、
「店まで?」
「それは、涼介が嫌がるに決まってるでしょ。駅まで来てよ。それから二人で飲みに行こ」
ドアが急にばたんと開いて、ユキオが入ってきた。
「僕もここで一緒する」
「え、狭いよ?」
「いいの」
そう言って、布団に入る。高春が絵本持って来ようかと聞くと、
「いいの。今日はもう眠いから」そう言って目を閉じて、しばらくしたら寝息を立て始めた。
「いいな、こういうの」
高春がユキオの頭を撫でる。
「柚ちゃんと一緒に子供を育てるって、なんか最高じゃない?」
「甥っ子ですが」
「それでも、なんか家族っぽい。俺は父子家庭で、親父は家にあんまり帰って来なかったからさ。こういうのに憧れるんだ。俺さ、泉から妊娠したって聞かされた時、実は嬉しかったんだよ。そういうのもいいなって。お父さんやってみたいって思ったから結婚したんだけど。それが嘘だって分かった時は、悲しくて仕方なかった」
どうしてだろう。この話をどこかで、聞いたことがあるような。
「あんまり落ち込んでたら泉が、本当に子供作ろうよって誘ってきて。その時にああ、こいつじゃないって、すごく思ったんだよ。それで、やっぱり柚ちゃんを諦めなきゃ良かったって反省した。だから今は、すごく幸せなんだ。どういう形でも、柚ちゃんと家族みたいに過ごせて、俺は本当に幸せだって思ってる」
ベッドに座って、私もユキオの顔を撫でる。高春が年上好きなのも、私を想ってくれてるのも、きっと母親の面影を重ねているんだろう。あのグループで子持ちは私と涼介と、駿河くんだけだ。
高春は、子供を産んでくれる人と再婚した方が幸せになれるよ。
そう言いたくなったけど、やめておいた。
麻里奈がユキオを運んでいって、先に眠った高春の隣に潜り込む。寂しい時は人の温もりで救われる。この人は希菜子や風雅の代わりにはならない。だけど、こうして一緒にいると、家族のような情が芽生える。
でも、それはそれ。
私はやっぱり、あの家族と暮らしたい。
涼介と待ち合わせたのは、馴染みの店でなく初めて行く日本料理の店で、こぢんまりした個室には既に涼介が座っていた。
「こないだはごめん」
お酒を頼んだ後、彼は頭を下げた。
「麻美とはある時期に少しだけ、そういう関係があった。離婚する時に言わなくて、本当に申し訳なかった」
「うん。麻美から聞いた。悲しかったよ」
店員がお酒と付き出しを持ってきて、私たちは軽く乾杯する。
「正直な話をするとね。記憶が無いの。離婚に至った経緯とか、高春との不倫とかも、全く分からないというか、知らないの。違う世界の話だから」
「……どういう意味?」
私は今までのことをかいつまんで話す。どこまで信じたかは分からないけど、そういう前提で話を進めようと言ってくれた。
「あれからだいぶ経って、僕の方も気持ちが少し落ち着いたよ。柚子のいない家は、太陽が消えたって感じだったけど。希菜子が頑張って、色々やってくれて助かってる」
「そうなんだ」
「高春くんとは、上手く行ってる?」
「そうね。手のかかる弟みたいな感じ。少なくとも恋人ではないかな」
「そうか。なら、戻ってくるか?」
「え?」
驚いた。こんな提案をされるとは、思ってもみなかった。
「経緯を知らないって言ってたね。僕たちが別れたのは、柚子が不倫をしたからだ。柚子はこう言ってた。あなたより好きな人が出来たので、お別れしてくださいって」
「……涼介から、別れようって言ったんじゃないの?」
驚きすぎて、頭がうまく回らない。あんなに愛した家庭を、私の方から手放したなんて。
「違うよ。君たちのことはもうだいぶ前から知ってた。最初は本当に驚いた。問い詰める勇気がなくて、毎日外で飲むようになった。家に帰って、君を見るのが辛くてね。麻美と関係があったのも、ちょうどその頃だよ」
でもある日、君は言ったんだ。
弟みたいに思う人がいる。二人で遊ぶけど浮気じゃないから、心配しないでねって。
それで少し安心して、君たちのデートを見て見ぬふりをしてた。それから月日が経って、君から急に離婚してほしいと言われたんだ。
そう言って、涼介は目尻を拭った。
「ある時から急に、高春を愛しく思うようになった。泉と上手くいけばいいと思っていたが、もう無理らしい。私と一緒にいたいって言ってくれて、私も彼と恋愛したいと思うようになった。私たちに体の関係は無いけど、これは浮気だし、不倫と呼ばれても仕方ない。だから申し訳ないけど、別れてくださいって」
何故だろう。私も泣けてきた。涼介の涙を見たせいじゃない。その言葉を放った自分の、おそらく一世一代の覚悟のようなものを感じて、心が震えたのだ。
「僕は嫌だって言った。別れたくないと、珍しくカッとなって君を平手で打った。そんな自分に驚いたよ。すぐに謝ったら君は、あなたは悪くない。私が悪いの。あなたより好きな人が出来たので、お別れしてください。本当にごめんなさいと言って、涙をいっぱい目に溜めて僕の顔を見た。もう、どうしようもないと悟った」
しばらく無言でお酒を飲んだ。涼介は鼻を噛んで、天ぷらを頼もうかと笑顔を見せる。そうねと言ってメニューを開き、私も鼻を噛んだ。二人で真っ赤な目をしたまま、料理を食べたりお酒を飲んだ。涼介はやっぱり涼介で、世界線が違っても愛しい私の家族だ。この人と会わない人生なんて有り得ないなと、改めて気づいた時間だった。
彼と別れて、高春と待ち合わせている店に行く。バーカウンターに彼はいて、私を見るとホッとしたように笑顔を見せた。
「棚橋さんは、元気だった?」
「うん。ちょっと白髪が増えたかな」
椅子に座って、サッパリした柑橘系のカクテルが飲みたいとマスターに伝えると、ホワイトレディを作ってくれた。
「大体は麻美の言った通りだったよ。あとは、離婚に至る経緯も教えてくれた」
「なんて言ってた?」
ぐいっと寄ってくるから、肩を軽く押して元のポジションに戻す。
「……ちょっと言いたくない、かな」
「もったいぶってるね」
高春が拗ねた。私は黙ってカクテルを飲む。
「やっぱり会わすんじゃなかった。柚ちゃんが女の顔してるの、めっちゃ腹立つ」
そんな訳あるかい。
「いい店にいると自然にこうなるでしょ」
聴いたことのあるクラシックが耳に心地いい。この店は前に、涼介と来たことがあった。まだ結婚したばかりで、生活の変化に疲れてる私を労い、気分転換にと連れてきてくれたのだ。周りが大人に見えて、場違いな気がしてすぐに帰ってしまったけど、今では楽しい思い出だ。
この世界線も悪くなかった、と初めて思う。始まりは最低だったけど、どんな場所だろうと結局は自分次第だ。選択の数だけ未来があって、過去にはもう戻れない。
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