第7話
salt side
課題を何とかひとつ仕上げて、私は洗面所に向かう。筆を丁寧に洗っていたら、玄関の扉が開く音がした。
「それにしても、どうしたんだい急に。婚約破棄だなんて、君らしくない」
父の声だ。それに続いて、
「いえ。ようやく決心がついたんですよ。気に入らない縁談なら、家がなんて言っても断ればいいんだって」
松波さんの声。リビングに繋がるドアが閉まる音がして、私は我に帰った。
縁談を断るって本気だろうか。
急に寒気がした。もし彼女と別れたら、ターゲットはきっと私になる。
彼が結婚さえすれば、被害に遭うことはないと安心していたのに。
エプロンのポケットにスマホがあることを確認して、私はそっと家を出た。髪はボサボサ、メガネにエプロンと最悪の格好だが仕方ない。エルにLINEを入れるとすぐに既読が付いて、ここまで迎えにきてもらうことにした。会うなり彼女は、
「どうしたの、その格好。緊急事態って本当だったのね」と笑った。ホッとして車に乗りお礼を言う。
「忙しいのに無理言ってごめんね」
「全然ヒマだよ。動画作るの疲れちゃって、今日は何にも食べてなかったんだ」
エプロンちょうどいいじゃんと言って焼肉屋に入り、エルはビックリするぐらいたくさん食べた。
「こんなに食べるの久しぶり」
「無理すると胃がもたれるよ」
「たまにはいいって」
明るく笑う彼女に、私は松波さんの話を打ち明けた。
「なるほど。詩音が狙われてるんだ」
「多分ね。ちょっと記憶が飛んでるから、はっきり言い切れないけど」
パラレルワールドの話はさすがに言えなくて、
「性格的にちょっと合わないというか、うまく言えないけど、薬で眠らせて裸の写真を撮りそうなタイプの人なの」
「具体的!」
エルが笑う。
「どうすればいいかな?」
「え、簡単じゃん。彼氏いるって言えばいいんだよ」
自分では思いつかなかった解決案に、思わず拍手してしまった。
「なるほど。彼氏作ればいいんだ」
「まあ、実際作ってもいいけど。誰でもいいんだよ。男の人を紹介するだけで、そういうタイプは身を引くと思うよ」
「わかった。エル、ありがとう」
昔からそうだった。彼女と話してると元気になるし、物事はもっとシンプルになる。私はようやく安心して、その日はエルの家に泊まらせてもらった。
それから一月後、私はSというレストランで松波さんと婚約者の月夜さん、そして高春さんという柚子さんの知り合いと一緒にテーブルを囲んでいた。
松波さんに会うことはギリギリまで迷っていた。でも柚子さんが力を貸してくれると言ってくれたので、思い切って対峙することを決めた。
久しぶりに顔を見て、なんだ、会ってみたら普通の人だと拍子抜けした。いかにも善良そうで、家が金持ちで、苦労知らずのボンボンって感じ。幼いのか老けてるのかよくわからない怖さはあるものの、言ってしまえばどこにでもいる普通のおじさんだった。
高春さんに対しても彼は丁寧で、おそらく初対面の人には彼の異常は見抜けないだろう。
それにしても。初めて会った高春さんは、とても感じのいい方だった。物腰が柔らかくて、清潔感のあるイケメン。35歳と聞いていたけど、20代にしか見えない。
「初めまして。詩音さんとお付き合いさせていただいてる、時任高春と申します」
丸っきりの嘘が本物らしく聞こえるほど、彼は堂々とした態度で、
「出会ってからまだ日が浅いので、普段の彼女のことを教えていただければ有り難いです」と微笑んだ。
「僕の知ってる範囲で良ければいくらでも」と松波さんは微笑んだ。
「詩音ちゃんは今、大学の課題制作をすごく頑張ってるよ。だから最近は全然、会えてなかったんだよね」
私を見るので仕方なく、
「そうですね。すみません、お断りばかりしてしまって」と頭を下げる。
「いやいや、学業を優先するのは当たり前だよ。でもまさか、その隙に彼氏を作るとは思わなかったなあ」
ハハハと軽快に笑うので、合わせてみんなも笑う。
「僕が無理言って、紹介してもらったんです」
すかさず高春さんがフォローしてくれる。
「詩音さんの、年齢の割に落ち着いてるところや、物静かな佇まいがいいなと思って。僕はこういう女性を甘やかすのが好きなんですよ」
「なるほど。そういう考えは僕には無いから、とても新鮮です」
「そうなんですか? 僕は変わっているのかもしれませんね。強く張っている弓みたいな部分を、もっと緩めていいんだよって。わがままをいっぱい聞いてあげたり、頭を撫でて目一杯可愛がってあげたくなるんです」
あまりにも滔々と喋るので、これは彼の本音かもしれないと気づく。柚子さんとの関係性を知ってる私には、これは彼女のことを話してるって分かるけど、知らない人にすれば私の話にしか聞こえない。嘘をつくのがとても上手い人だと感心する。
案の定、松波さんは気圧されてて、
「なるほど。そういう愛し方もあるんですね」と口を歪めた。
「松波さんはどんな方なんですか?」
高春さんは、今まで一言も話さなかった婚約者の月夜さんに話を振った。彼女はゆっくり頭を傾げて、
「……そうですね。見たままの方だと思います」と微笑んだ。
「ふうん。月夜さんはどういう風に見ています?」
「私ですか? そうですね。明るくて、頭のいい方。優しい方だと思っています」
「素晴らしい」
高春さんは松波さんを見て、
「どうですか? 松波さんにとって月夜さんはどういう方なんですか? 僕にも教えてください」
そう言ってにっこり微笑む。松波さんも微笑んで、
「清楚で、心の綺麗な女性です。そしてとても優しい方です」
「わお。パーフェクトなカップルですね。詩音もそう思わない?」
急に呼び捨てにされて、自然に顔が赤くなった。
「はい。とても素敵です」
高春さんと見つめ合っていると、軽い咳払いが聞こえた。
「それじゃあ、詩音ちゃんからも聞かせてくれないか? 彼のどこを好きになったのか」
松波さんの目が、強く光って見えた。負けるもんかと思って彼を見返す。
「私の意思を尊重してくれたり、嫌なことは絶対にしないところ。あと、私の気持ちをすぐに察してくれるから、一緒にいてとても居心地がいいんです」
「照れるなあ」
高春さんは頭を掻いた。さりげない仕草がかっこいい。
本当に、彼が私の彼氏だったらいいのに。
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