第5話
salt side
リビングには父がいて、いきなり、
「昨日は松波くんが寂しがってたよ。久しぶりに詩音に会えると思って、楽しみにしてたらしい」
そう言われて理不尽だけどイラッとした。父は何も知らないから当然だけど、母までが申し訳なかったわねと相槌を打っている。適当に流して、部屋に戻ろうと思った時にスマホが鳴った。柚子さんからのLINEで、今週また会いましょうとメッセージが入っていた。
柚子さんに伝えたいことはたくさんある。でも今の私には、優先的にやらなければいけないことがあった。
通信制の芸術大学に通い出して、もう五年が経つ。だが単位が足りず、未だに卒業制作に取り組む資格すらない。今年こそはちゃんと単位を取り、再来年の卒業をちゃんと目指そう。そう思っていた矢先、松波さんの被害に遭い、そしてバスの事故に遭って違う世界線に飛んでしまった。
いつもの私なら挫けて、もう少し自分を甘やかしているだろう。でも柚子さんを見て、変わらなきゃと思った。私より過酷な現実に飛ばされたのに、彼女はこの世界に腰を据えて闘おうとしている。その姿勢を見習って、本業である学業にちゃんと向き合おうと思ったのだ。
部屋に戻って床にピクニックシートを敷き、しまっていたイーゼルを広げる。キャンパスを置いたり、絵の具や対象物の準備をしているうちに、少しずつ気持ちの準備も始まっていく。元々は絵を描くことに、大して興味はなかった。私には向上心とか学習意欲が欠けていて、将来は誰かと結婚して可愛いお母さんになれたらまあラッキーみたいな感じで、自主性とか承認欲求はほとんどない。趣味は読書と映画鑑賞で、人のドラマを観て満足するタイプ。だから芸術大学に入ったのも、大学だけは出てほしいとあまりにも母がうるさく言ったからだ。芸術大学は担任が勧めたのと、通信制という点が気に入って決めただけ。だから今でも、絵を描いてる自分を不思議に思う。
こんなことをしたかったの?
そう問いかけると、心の中で首を横に振る自分がいる。向上心が無いせいか、いつまでたっても上達しない。楽しくなくて、課題を出せば単位が取れる授業の、その課題にすら手を付けなくなっていた。なのに辞めたいと言えない自分が情けなかった。
とりあえず、卒業を目指して頑張ってみる。そう決めてイーゼルに向かう。何もかも中途半端な私の、今できることはきっとこれだけだ。
お風呂に入って部屋に戻り、久しぶりにスマホを開いた。描くのは好きじゃないけど、描き始めたら夢中になる。体をほぐしながら通知を見ると、松波さんからLINEが入っていた。
『今度、Sという店に行きませんか? 彼女も連れて行くので三人でディナーを楽しみましょう』
すぐに、課題が溜まっていてしばらく会えません。ごめんなさい。と返信する。絵を再開して、ちょうど良かった。嘘が苦手なので、罪悪感無しに断れることが嬉しい。そう思ってたら電話がかかってきた。驚き過ぎてスマホを落としてしまい、タイミング悪く通話ボタンに当たったらしい。
「もしもし。詩音ちゃん」
久しぶりに聞く松波さんの声に、鳥肌が立った。やっぱり無理。慌てて終了ボタンを押し、スマホの電源を切る。
ああ、本当に生きているんだ。
この世界は本当に元の世界とは違うのだと、はっきり理解した瞬間だった。
「それじゃあ、あの事件は起こってなかったのね」
メモのスクショを見せると、柚子さんは良かったぁーと嬉しそうに笑った。
「なら、こっちの世界線に来て良かったんじゃない?」
「そうかもしれませんね」
今日はカフェではなく、ブリティッシュパブに二人で来ていた。甘めのカクテルを飲むと、今日はちょっと大人っぽくて可愛いねと柚子さんに褒められた。
「いつものワンピースも可愛いけど。黒い服も似合ってるよ」
「たまに着たくなるんです。こういうシンプルな服が」
今日の服装は、白いシャツに黒で長めのベストとパンツ。私にしてはボーイッシュな組み合わせだと思う。
柚子さんも綺麗なブルーのシャツと大きな柄の入ったスカートで、とてもおしゃれだ。思い切って、柚子さんもおしゃれですねと言ってみたら、
「やだ。嬉しい」と顔を赤くした。やっぱりとても可愛らしい人だと思う。
「倍ぐらい年下の子に褒められると、なんか照れる」
「そんなに年上に見えませんよ」
お酒のせいか、思ってる言葉がさらっと口から出る。いつもこうだといいのに。人がアルコールを好きなのは、こういう自分なりのリミッターが外れるからかもしれない。
「事件が起こってないとしたら、松波さんとは今後どうするの?」
「そうですね。出来るだけ会わないように頑張ります」
「そんなこと出来るの?」
「難しいですけど……声を聞いただけで、鳥肌が立つので、会うのは難しいです」
「そっか。そりゃそうだよね」
柚子さんは、うんうんと頷く。
「それじゃあ後は、この世界であのバスに乗った目的だよね。路線は調べた?」
「はい。あのバスは私の目的地の霊園が終点ですけど、住宅街も通りますよね。高校時代の友達がそこに住んでいるので、一度連絡しようかと思っています」
疎遠になってしまった人に、声をかけるタイプではないが、今回は仕方ない。
その友達は通称エルと呼ばれていた。おそらく最初は体型を揶揄って付けられたようだが、彼女は懐も深い人だった。誰かの役に立つのが好きで、ぼっちの私にもよく声をかけてくれ、家にも何度か遊びに行った。看護士か、介護士のどちらかを目指していたはずだが、正直よく覚えていない。唯一の友達の進路を知らないなんて、薄情だと思うけど、卒業ギリギリまで進路が決まらなかった私は、人の心配をするほどの余裕がなかったのだ。
まずはLINEで連絡した。するとすぐに返信が届いた。会いたいと伝えると、すぐに日程と場所を決めてくれて、私は指示通りにその日、彼女に会いに行った。
駅前のロータリーに立っていると、体のラインがよくわかるTシャツとヨガパンツを履いた人が私の前をうろちょろした。そして、私の顔をのぞきこむ。
「詩音?」
その声を聞いてハッとする。
「ヤッホー。久しぶり」
「え? エルなの?」
驚いた。モデルのようにスリムになってて、昔の面影がほとんどない。
「あれ? 詩音は私のこと、ご存知ない感じ?」
「ごめん。芸能人だったの?」
そう言うとエルは明るく笑って、
「ああ、思い出した。詩音は浮世離れしてたんだよね。そこが私には面白かったんだ」
ミニバンのドアを開けて、エルは私を車に乗せた。少しだけ車を走らせ、タワーマンションの駐車場に入る。
「今一人暮らししてるの。詩音の家も、確かタワマンだったよね」
そう言いながらエレベーターに乗る。着いた先は、高層階の広い部屋だった。
「今ね、ダイエット系のユーチューバーしてるの。私って昔、超太ってたでしょ? 痩せた方法教えます的な動画を載せたら、なんか人気が出ちゃって。最近は動画と、不定期で痩身体操の先生とか、エステサロンで講演とか、なんか色々してる」
「すごいね。忙しそう」
全然だよーと笑ってハーブティーを出してくれた。
「正直ホッとした。多分、詩音じゃなかったら会ってなかったよ」
「どうして?」
「詩音は知らないから。私が高校の友達にハブられてること」
「え、有り得ない」
驚いた私に、やっぱり詩音はいい子だよと微笑んだ。
「ユーチューバーでちょっと人気が出た位で、そんなに収入があるわけじゃないよ。でもね、そーゆー私がやっかみのターゲットにされたりするの。勘違いしてるとか、タワマン買っちゃって頭に乗ってるとか。タワマン買ってないし。叔母の家を間借りしてるだけだって言っても、誰も信じない」
エルは小さくため息をつく。
「私、高校の時にみんなのお世話係してたでしょ。その時だって、いい子ぶってるとか言う人はいたんだよ。確かに、多少無理してた。でも誰かの役に立つことが、普通に嬉しかったんだ。でもその頃からみんな、私のことは下に見てたんだよね。だからちょっと有名になった私が、癇に障るって感じなんだと思う。あとスリムになって、ちょっとメイクも頑張って、可愛くなったのも気に入らないのかな」
「……そうなんだ」
「介護士の専門学校も、なんか合わなくてすぐに辞めちゃったし。今は順調に見えるかもしれないけど、ダイエットもめちゃくちゃ頑張ってて、栄養とか痩身に関することも教室通って勉強いっぱいしたのに、みんなそういう努力は認めてくれないの。理不尽だよね。最近ホントに誰ともこんな話できなくて、詩音に会えて助かったよ」
エルの状況は思いもよらないことだった。またこうやって会おうねと言ってから、
「変なこと聞くけど、三か月くらい前に、私と何か約束してない? 実はバスの事故に巻き込まれて、そのあたりの記憶が少し飛んでいるの」
「もしかして、霊園前行きのバス?」
「そうなの。どうしてあのバスに乗ったのかが、気になってしまって」
「ああ、そういうこと。ううん。詩音とは何の約束もしてないけど」
エルは首を傾げて、
「私の知り合いもあのバスに乗ってたよ。その子ほとんど無傷でさ、でも最近会ったらちょっと変なこと言ってたんだよね。ある人を助けに行こうとしてバスに乗ったんだけど、その人は一年ぐらい前に亡くなってたんだよ。どういうことだろうって」
「……パラレルワールド」
「ああ、そんな感じ。ていうか、その子の場合はタイムスリップ? 未来に来たって言ってたよ」
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