第4話

citrus side


 詩音ちゃんにはかっこいいことを言ったものの、私は少し怖気付いていた。スマホを持ち、深呼吸してからセンドボタンをえいっと押す。早まったかな、と思わないでもない。とりあえず高春に会わなきゃ。まだ建て直せるなら、二人の離婚を止めたかった。泉に会うには、もう少し時間が必要だろう。でも高春なら会ってくれそうだ。

 写真フォルダを開いて勇気をもらう。

 希菜子、風雅。二人の笑顔を見るだけで会いたくて涙が出る。でも待たないと。裏切ってしまった私を許してもらえるまで、私は子供たちに会いに行ってはいけない。

 ぽこんとスマホから音がした。

 高春からの返信、俺も会いたいと書かれていた。何だよこいつ。本当に私と付き合ってたのかな。これは未だに信じられない。家族や友達より大事だったかもしれない要素が、全く想像できない。

 寝返りしたユキオの腕が当たったのを合図に、私はそっと立ち上がる。リビングに入ると麻里奈がいて、一杯やる?と誘う。仕方ないので椅子に座り、

「ユキオの子守代、払ってもらおうかな」とビールをグラスに注いだ。

「お姉ちゃんは子育てが上手だよね。扱いが慣れてる」

「褒めても無駄。それより私の話を聞いてよ」

 ビールを一口飲んで、ふと詩音ちゃんのことを想った。彼女には、私の他に話を聞いてもらえる人がいるんだろうか。おとなしい子だから、友達は少なそうだ。もっと会う機会を増やした方がいいかもしれない。お節介だと思うけど、違う世界線から来た唯一の人だし、大事にしなきゃ。

「お姉ちゃん、話って何?」

「ああ、ごめん。ちょっとね、色々整理して何となくこの世界が分かってきたんだけど。肝心のさ、私の不倫って奴がどうも解せないっていうか」

「うん、それは本当にそう。私も信じられなかった」

「でしょ? 私今でも自信あるけど、涼介のことはずっと大事にしてきたんだよ。働いて家計も助けて、子育ても頑張ってた。再来年の受験に向けて貯金もしてたし。そんな私が、他の人に目を向けるかな。しかもよりによって、あんなタラシ男が相手だなんて。ほんと有り得ない」

「うん。私だけじゃなくて、みんなも一番有り得ないって言ってた。お姉ちゃんの家族って、なんて言うか理想を絵に描いたような感じで。すごく幸せそうだなってずっと思ってたから」

「えへへ。そうなんだ」

 ちょっと照れる。

「まあでも、高春くんはタラシのスキルが高そうだしね」

「男は顔じゃないよ。スルメみたいに味のある人がいいんだよ」

 スルメを持ってそう言うと、麻里奈が笑った。

「でも高春くんはお姉ちゃんのこと、前から好きだったよ。私、結婚式の時に聞いたもん。本当は柚子さんが好きだけど、高嶺の花だから泉さんで手を打ったって」

「はあ? そんなの冗談に決まってるじゃない。あのタラシ男」

「……お姉ちゃんって、確かに前はこんな感じだった。泉は見る目が無いって、すごく心配してた。でもいつからか、何も言わなくなったんだよね」

 そうなんだ。何があったんだろう。

 私と高春の間に、この世界では何が生まれたんだろう。


 待ち合わせ場所に行くと高春はもう店にいて、私の顔を見て手を上げた。

 久しぶりに見たけど、最初に会った印象とほぼ変わらない。10コ下だから35歳のはずなんだけど、パッと見は20代後半ぐらいに見える。背も高くて優しそうに笑ってて、確かにモテそうな奴だ。

「柚ちゃん、ごめんね」

 馴れ馴れしい呼び方がカンに触る。

「俺のせいで離婚させて。でも安心して。俺も別れるから。そしたら一緒に暮らそう」

「悪いけど」

 自分でも驚くくらい低い声が出た。

「そんな気無いから。今日はあなたに、泉と離婚しないでってお願いしにきたの。まだ修復できるよね? 泉はあなたのことが、とても好きだったよね?」

 変な感じだと、心の中で笑う。私がいた世界では別れてくれとお願いするために、高春に会いに行く途中だった。それがここでは、別れないでと言わなきゃならない。

「ちょっと待って。意味がわからない」

 目を何度か瞬きして、私の手を握った。その手を振り払い、

「私は、あなたが知ってる私じゃない。気安く触らないで」

「柚ちゃん?」

「気持ち悪いって。その呼び方もやめて」

「……何があったの?」

 店員が近づいて来たので注文しようと口を開いた。その前に、

「ミルクティー、ホットで」と高春が言った。

「勝手に頼まないで」

「それより、何なんだよ。ずっと着信拒否されて、やっと連絡来たと思ったら離婚すんなって? 確かに、俺たち一度もそんな話はしなかったよね。柚ちゃんが旦那さんと別れたくないって言うから、俺はずっと待ってた。でも、別れたんなら。それは俺を選んだってことだろ? 違うの?」

 急にまくし立てられて驚いた。高春ってこんなに喋るんだ。

「それともまだ俺のこと、信用してないの? 前に言ってたよね、デストロイヤーだって。円満な関係を壊すのが楽しい変態とかさ。あと何だっけ。クモ男?」

「もう、うるさいな」

 耳を塞ぐ。何なのこいつ。

「ちゃんと聞いてよ」

 私の手を取って、

「俺は本気なんだよ。ずっと言ってたはずだよ。好きだって。そばにいたいって」

 ああ、もう耐えられない。

「だから私は、あなたの知ってる柚ちゃんと違うの。姿形は一緒でも、心が全く違う人間なの」

 財布から千円出して、もう二度と会わないと告げて店を出た。あー疲れた。こんなのもう無理と思ってたら、後ろから腕を掴まれた。

「え?」

「逃がすかよ」

 高春は私を引っ張って、近くのパーキングに止めていた車まで連れて行き、助手席に乗せた。

 しばらく無言で、車を走らせていた高春だったけど、赤信号で止まった時、俺は別れたくないと小さな声で言った。

「ごめんなさい」

 とりあえず謝る。すると嗚咽が聞こえてきた。見上げると子供みたいに、だらだらと涙を流していた。

「ちょっと。運転中に危ないじゃない」

 車を路肩に止めさせて、私は彼にティッシュを渡す。

「あなた本当に、私が好きなの?」

「やっぱり疑ってる」

「だって信じられないよ。あんたって、女なら誰でもいいって感じだったじゃない。うちのグループ全員を口説いたし、ほぼみんなと関係持ってさ。なんか魂胆があるのか、ただの女好きか知らないけど、存在がもはや理解不能なの」

 さすがに言い過ぎたかも。と、思ってたのに高春は笑い出した。

「懐かしいじゃん、この感じ。付き合う前の柚ちゃん見てるみたい」

「そう。その通りです。私ね、違う世界線から来たの。あなたと不倫なんてしてない世界。そこでは私、離婚もしてないし、あなたは泉と付き合ってるの」

「え、何それ」

「信じなくていいけど」

 ふうっとため息をつく。

「とにかく、私のことはもう忘れて。泉と離婚しないで」

 そう言うと、高春はハンドルに頭をぶつけた。

「……俺のことはもう好きじゃないってこと?」

「そう受け取ってもらって結構です。では、ごきげんよう」

 高春の車を降りて、スマホのマップアプリを立ち上げる。最寄りの駅を調べて歩き出し、むず痒い気持ちを振り払う。

 どうぞ高春が私を嫌いになりますように。

 彼には気の毒だと思うけど、私はもう恋愛とかどうでもいいし、そんなことをしてる時間も無い。失った家族を、どうにかして取り戻すために、私は何をすればいいのかをちゃんと考えなくては。

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