第3話

salt side


「離婚、されてたんですね」

 柚子さんの話を聞いて驚いた。前回と同じカフェで、午後の柔らかい日差しがコーヒーカップに当たっている。

「そうなの。ここでの私は、友達の旦那と不倫してたらしくて。それで他の友達とも縁が切れちゃって、孤独感が半端ない状況です」

 笑顔を見せたけど、明らかに前より元気がない。

「みんな仲が良くて、遠慮もなくて。でも楽しかった。いい仲間だったのに」

 柚子さんは遠い目をした。今回初めて聞いたけど、私なんかよりも全然過酷な世界線で驚いた。

「詩音ちゃんにはハード過ぎるかなと思って、なかなか言えなかったんだけど。さすがに荷が重すぎて。ちょっと話をきいてほしかったの」

 前に会った時より柚子さんは少し痩せて、肌も荒れていた。可哀想に。愛する家族や友達に縁を切られるなんて、とても辛いだろう。

「泉さんと高春さんは、離婚されたんですか?」

「……そういう方向に進むだろうって鈴恵は言ってたけどね。とりあえず、状況の擦り合わせが出来てホッとしてる。気持ちの方は、まだ全然落ち着かないけど」

「ですよね。私もまだ全然です」

「松波さんには会ってないの?」

 はいと頷き、私はたんぽぽコーヒーを飲む。

「じゃあ今日は、自分の気持ちを吐き出す日にしましょう」

 柚子さんは笑って、

「詩音ちゃんが松波さんに会わない理由を教えて」

「え、嫌です」

「即答!」

「だって。意外と私もハードなんですよ」

 そう言いつつ、柚子さんよりは全然ソフトだと思い直して、

「……でも、やっぱり言います。誰かに伝えなきゃ、夢みたいに思えてくるし。松波さんには、何度かごはんをご馳走になりました。彼には小さい頃からの許嫁がいたし、歳の離れた兄みたいな気持ちで会ってたんですけど、三度目のごはんの時に告白されて驚きました。その時は丁重に断って、もう会わないって言いました。そしたら次の日、私の家に来て土下座したんです。仕方ないので家に上がってもらって、話を聞いてる間に薬を盛られたみたいで。目を覚ましたら彼の部屋で、私は裸でした」

「え!」

 柚子さんが絶句する。

「写真を撮られたんです。ちなみに手は出されていません。すぐに婦人科で診てもらったから確かです」

「……良かった。それでも最悪だけど」

「不幸中の幸いです。でも、色んなポーズの写真を撮られたんですよ。レイプされたようなもんです」

 松波さんは、足を広げた私の写真を見て、綺麗だろって言った。気持ち悪くて、その場で胃液が出るまで吐いた。

「すぐに写真を削除させて、もう二度と関わらないと告げました。本当は訴えようか、悩んだんです。このことが公になれば、社会的に罰せられるし。彼の結婚も当然白紙になる。でも、それよりも。私のことを忘れてほしかった。私も忘れようと思った」

 それなのに。

「赦してあげたつもりだった。でも彼は、ストーカーになったんです。それもSNSで、私の隠し撮りを公開してた。私は彼の会社に電話して、上司に被害を訴えたんです。そしたら次の日、自宅で……」

 私の沈黙を察して、柚子さんは酷いねと呟いた。

「だから私は、お墓参りに行こうと思ったんです。文句を言ってやりたくて。死ぬ必要ないじゃん。全部、私のせいみたいにしないでよ。犯罪者はあんただろって」

 泣きたくなんてないのに、涙が出てきた。辛かったねと、優しく言われて余計に心が震える。

「世界線が変わっても、もう二度と会いたくないです」

「そうだよね。でも一つ救いはあるかも」

 柚子さんは人差し指を立てた。

「この世界では、彼は生きてる。ってことは詩音ちゃんはもしかして、まだ被害に遭ってないのかもしれない」

「そうでしょうか。私が上司に相談してないだけかもしれませんよ」

「証拠になるSNSは見つけたの?」

「……いえ、まだです」

 うーんと柚子さんは唸って、

「埒があかないね。どちらにしても、状況がどれほど違うのか確認できたらいいんだけど」

「そうですよね。松波さんに会うのが一番早いと思いますが、それだけは絶対に嫌なんで、難しいです」

 ため息をつきそうになったので、慌ててコーヒーを飲む。ため息一回につき、寿命が一分縮まるって母がしきりに言うので、つまらないと思いつつ気にしてしまう。そしたら、柚子さんがはあーと大きなため息をついたのでおかしくなった。

「本当に大事な物って、失ってから気づくんだよね」

「そうですよね。柚子さんは本当にお気の毒だと思います」

「いいのいいの。なんかこうなると、もうなるようになってくれって感じ。ほら、降り始めの雨に当たって傘もなくて、家まで歩かなきゃならない。雨足もどんどん激しくなって、頭も服もびしょ濡れ。ツイてないなって思って、諦めた途端にこの状況ドラマかよって楽しくなってくる、みたいなの分かる? 私、今がそれなんだよね」

「やけになってる、ってことですか?」

 私の心配をよそに、柚子さんは強い笑顔で、

「違う違う。まあ、多少はそれもあるけど、要は心の切り替えってこと。私はそれがめちゃくちゃ得意なの。それで今まで生き延びてきたっていうか」

 つまり、と言って、また人差し指を立てる。

「今までとは違う世界線で、やれるだけやってやろうと思ったのよ。切れた縁を繋ぐように努力するのも良し。また新たな縁を求めて、友達作りを始めるのも良し。他に家族を作るのも良しってね。過去には戻れない。元の世界にも戻れないなら、潔くここで頑張るしかないなって思った。リスタートを違う世界線で」

「リスタート、ですか」

 柚子さんと別れて雑踏を歩く。切り替えるなんて、私にはまだ全然無理だ。とりあえず松波さんの問題が片づくまでは、前には進めない。

 それと、バスに乗った理由が分かれば、少しは楽になれるだろうか。

 柚子さんと違って仲のいい友達がいない私は、この世界の自分を知る機会がない。せめて日記でも付けていたら、SNSでもやってたら――。

 ふと閃いた。そう、SNSだ。家に帰って早速、そのアプリを開く。簡単なメモを残せるこのアプリに、私は松波さんのことを何度か書いていた。もちろんざっくりとした覚え書きだが、無いより全然マシだ。

 念の為に一年前のメモから遡った。少し時間がかかったが、いくつか目的のメモを見つけることができた。


 ◯月◯日、MさんにBという店で夕食をご馳走になる。これで三度目。

 ◯月◯日、Mさんからプレゼントの箱を渡される。Tのネックレス。趣味じゃないけど受け取る。

 ◯月◯日、Mさんから婚約者を紹介される。無口で地味な女の人。

 ◯月◯日、Mさんから結婚祝いに絵を描いてと言われる。前に大学の課題で描いた物を渡そうと思う(性格悪い?)


 驚いた。どうやらこの世界では、柚子さんの言うとおり、まだ事件は起こってない。というか、もしかすると起こらないかもしれない。

 ホッとしてベッドに横になる。だからといって、松波さんに会うつもりは無い。何かのタイミングで、彼が私に執着する可能性はまだあるからだ。私が彼の好みであることは間違いないし、用心するに越したことはない。

 この世界線、元の世界よりマシかもしれない。

 柚子さんじゃないけど、急に気持ちが明るくなってきた。バスに乗った問題だけ片づいたら、もう普通にここで、今までみたいに暮らしていけそうな気がした。

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