第2話

citrus side


 詩音ちゃんとカフェで別れてから、急にお酒を飲みたくなった。

 ブリティッシュパブがあったのでそこに入り、カウンターで生ビールを頼む。一人でこんな風に飲むのは初めてで、ちょっとワクワクする。歳を重ねても私の精神年齢は高校生ぐらいで止まっていて、そういう性分が案外気に入ってるから修正なんてしない。ただ、現状は厳しくて、心から楽しむことはさすがに難しい。

 楽しいことが一番、楽しくないことは後回し。それでも案外、なんとかなるって思いこんでた、過去の自分を殴りたい気分。

 カウンターチェアに座り、小さなテーブルに肘をついて、なんとなく店内を見回す。イギリス風のオシャレな店には、外国人がたくさんいた。だからといって、イギリスにいるような錯覚は起こさない。何故ならちゃんと分かってる。ここは日本だと、何の疑いもなく知っているから。

 でも私や詩音ちゃんは感じてる。ここは、私が生まれてからずっといた世界じゃないってことを。似ているけど微妙にズレていて、トレースしたくても上手く重ならないのだ。

「お姉さん、お一人ですか?」

 顔を上げると青い目をした若い男性がいた。お姉さんじゃなくてオバさんだよ、と思ったけど言わない。自虐ネタばかり言う知り合いを見て思ったことは、誰も笑わないネタなんか誰も得しないよってこと。

「一人だよ。一緒に喋る?」

「はい。僕の名前はケンタです。カナダから日本に、勉強しに来てます」

「何の勉強?」

「日本の歴史です。僕のおばあちゃんは日本人で、昔の話をよく話してくれました」

 それから小一時間ぐらい、ケンタの話を聞いた。正直つまらなかったけど、気が紛れたので助かった。

 店を出て家路を歩く。正直言うと、帰りたくない。詩音ちゃんが少し羨ましかった。比べたって仕方ないけど、死んだ人が生きてる世界より、家族が変わってしまった世界の方がずっと酷いはずだ。

「ただいま」

 玄関を開けると、おかえりとユキオが走ってきた。まだ三歳の可愛い甥っ子だ。

「ゆずちゃん、ユキオはお風呂入ったから、もう絵本の時間だよ」

「あーごめん。今日はママに読んでもらって」

「やだ。ゆずちゃんがいい」

 なんて可愛い子。でもちょっと頭痛がする。明日読んであげると言ったら、ヤダヤダとゴネ出した。妹の麻里奈がやって来て、今日は私だよとユキオを抱き上げた。ホッとしてリビングに入ると母がいて、

「明日のごはんは何がいい?」と尋ねた。何でもいいけど、一人になりたい。魚とだけ告げて、私は風呂の追い焚きボタンを押す。そしてバスルームに入り、頭からシャワーを浴びた。

 ここは私の実家。まさかまた、ここで暮らすことになるとは。

 本来の私は働くお母さんで、高校生の希菜子と中学生の風雅、会社員の夫と四人暮らしをしていた。それがこの世界では夫と離婚し、実家に帰って今後の身の振り方を考えてる状況で、なんでこんなことになったのか未だによく分かっていない。

 夫には会いたいと何度か連絡した。でも奴は頑なに拒んだ。普段はとても温和で優しい人なのに、手のひらを返したように冷たい。

 子供たちもそうだ。会いたくないの一点張りで、LINEもブロックされている。そこまでされると、さすがの私も落ち込んでしまった。

 そして、どういう噂が流れたのか分からないが、数人の友達からもハブられた。一番仲の良い鈴恵と、今度会うことにしたけど、彼女も相当怒ってると別の友達から聞いていた。

「お姉ちゃん、ビールでも飲む?」

 髪を乾かしてリビングに入ると、麻里奈がグラスを私に見せた。その提案に乗って、二人でテーブルを挟む。おつまみのナッツを食べながら、

「それにしても。私の次にお姉ちゃんまで出戻りするなんて。なかなか親泣かせの娘たちだね」

 麻里奈が笑った。そうだねと相槌を打つ。

「事故に遭ってからもう、散々な目にあってるよ。どうせなら、もっといい世界線に移りたかったな」

 妹には私の悩みを打ち明けていた。どこまで信じているかは不明だけど、とりあえず話を聞いてくれるので助かってる。

「確かに。ハッピーな世界線から、急降下で落ちてるよね」

「ちょっと、それは言い過ぎ」

「ううん。偉いよ、お姉ちゃん。しょぼくれずにちゃんと会社行って、まともに生活してるんだから。私なんて、離婚してしばらくは何も出来なかった。ユキオの面倒が見れなくて、お姉ちゃんにもサポートしてもらってさ」

 麻里奈はビールを飲んで、

「もうちょっと時間が経てば、お義兄さんも会ってくれるよ。うちの場合も一年経つけど、まだしばらくは旦那の顔を見たくないしね」

 と、意味深な言葉を吐いた。

「待って、麻里奈。あんたの旦那って、若い子と浮気してたんだよね?」

「そうだよ。え、お姉ちゃん。私が何にも知らないと思ってる?」

 驚いたように目を開いて、

「お姉ちゃんも浮気してたんだよね? 鈴恵ちゃんの妹から、たまたま聞いたんだよ。五年ぐらい不倫してたって。それも泉さんの旦那さんと」

「……ちょっと待って。情報についていけない」

 麻里奈の顔の前で手を立てて、私は深呼吸した。とりあえず、一旦落ち着こう。

「泉の旦那と私が不倫? てことは、手嶋くんとだよね。そんなの有り得ないよ」

「えっ、何言ってんのお姉ちゃん」

 麻里奈はまた目を丸くした。

「五年前、泉さんは手嶋さんと別れてから、違う人と結婚したんだよ。で、結婚当初からお姉ちゃんと二股してたことがバレて、みんなが怒ってるんじゃん」

「……その若い人って?」

「高春って人だけど。お姉ちゃん、知ってる?」

 知ってる。なるほどね。この世界では泉と結婚したんだ。

「理解したよ。もっと複雑なことになってることを」

 本来の世界なら高春は独身で、私の友達を次から次へと渡り歩くクモみたいに嫌な奴だった。

 それにしても、私が不倫か。

 高春が魅力的だってことは認める。ほどほどにイケメンで、背も高くて物腰が柔らかい。オバさんキラーだと聞かされた時は、人を見る目の無さに呆れたほどだ。

 とりあえず、もう少し情報が欲しい。

 元の世界に戻る方法は見つからないし、そうなったらどんな辛い状況でも、ここで足掻くしかないんだ。


 友達の鈴恵に会った時、私は妙にホッとしていた。鈴恵も最初は冷たかったが、私のやつれている様を見たせいか、少しずつ優しい言葉をかけてくれるようになった。

「鈴恵は泉から、どんな話を聞いているの?」

 そう質問してみると、眉を八の字に下げてしばらく黙った。そして小さい声で話し始めた。

「レシートを見つけたって。ビジネスホテルのレシートで、特に何にも疑わずに会社で必要でしょって旦那に渡したら、ものすごく驚かれたって。それで不審に思ったんだって。あの子、行動早いから。すぐに興信所に行って、浮気現場を撮影してもらった。それで相手が柚子って分かって、本当に驚いたらしい」

 鈴恵は私を見て、

「旦那に問い詰めたら、柚子のことが好きだって言われたらしくて。でもね、私は正直まだ信じてないの。だって柚子は、家族をとても愛してた。子供をとても可愛がってたし、みんなとても仲が良かった。だから、不倫もそうだし、離婚したことも信じられなくて」

「うん。ありがとう、鈴恵」

 やっぱり彼女は優しい。この世界でも信用して大丈夫だ。

「申し訳ないんだけど、私ね、何も言えないの。三ヶ月前に事故に遭って、それから今までの記憶が少し入れ替わってしまったみたいで」

 口を開けた鈴恵に、私は畳み掛ける。

「ねえ、逆に教えてくれない? 私と鈴恵、泉、あとノンに麻美。この五人は高校の友達だよね。それから私の元夫の棚橋と手嶋くん、駿河くん。この八人でよく遊んでた。これは合ってる?」

「……うん。合ってるよ」

「高春は手嶋くんのいとこで、六年くらい前にみんなと出会った」

「それも合ってる」

「最初は鈴恵が口説かれた」

「……うん」

「鈴恵が断ると、次はノンに声をかけた。ノンとはワンナイトで終わって、次は麻美。これは数ヶ月続いた」

 私は麻美の時に話を聞いて、手嶋くんに相談した。ノンも麻美も独身だから、そこまでする必要は無かったと、今では思う。でも見境なくみんなを食い散らかす高春に、どうしても一矢報いたかった。

 手嶋くんは明らかに困った様子で、

「柚子の気持ちはわかるけど、恋愛沙汰に口を挟むのは難しいよ」と逃げられた。だけどそれも束の間、泉と高春との不倫疑惑が持ち上がり、手嶋くんは私に報告しに来た。

 私があのバスに乗ったのは、高春に会うためだ。

 離婚したいとまで言うようになった泉と別れてほしい。そうお願いするために、あのバスに乗ったのに。

 その先が、この結果とは。

「高春が次に付き合ったのは泉。これも合ってる?」

「合ってるよ。そして同時に柚子と始めたんでしょ? その話を聞いて本当に失望した。高春は信用出来ないって、泉の結婚をずっと反対してた柚子が、高春と付き合いだしてたなんて」

 それは違う。でもこの世界の、自分の気持ちまでは分からない。

 私は高春を好きになったのだろうか。

 あんなに愛しい家族や、信頼してる友達を裏切ってまで、五年も関係を続けたんだろうか。

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