ソルト&シトラス - リスタートを違う世界線で -
千花
第1話
salt side
違和感があった。最初はとても小さいこと。母がよく話す、私の幼少期の思い出が、前に聞いた時とは少し違っていた。記憶の食い違いはよくあることだ。そんな些細なことで一気に「ここはパラレルワールドだ」なんて普通は思わない。ただ、違和感があったのだ。小さい棘が刺さったような、チクチクと軽い痛みの混じった違和感が。
「詩音は昔から、片づけを適当にしがち」
鍵を探している時だった。それでなくてもイライラしてる時に、小言を言われると余計に腹が立つ。
「あの時もそうだったわよね。ほら、中学のお受験の時。前日に受験票を無くして、家中大騒ぎしたら結局、机とベッドの隙間に落ちていて」
母は能天気に笑う。
「今回もそういう感じじゃない? クローゼットの中を探してみたらどうかしら」
そう言って自らクローゼットを開けた。いくら娘だからといって、二十歳を越えている女性のクローゼットを平気で開ける神経に呆れると同時に、また何かが引っかかった。
机とベッドの隙間、ではない。私の記憶だと受験票は、その時読んでいた参考書に挟まっていたはずだ。
「お母さん、受験票は参考書に挟んであったんだよ」
振り返ると母の体が一瞬、固まった。
「あの時お母さん、受験票を栞にするなんて有り得ないでしょって、珍しいぐらい怒ってたよ。お母さんがあんなに怒ってるのを見たの、生まれて初めてだったからすごく覚えてる」
「……そう。私の勘違いかもしれないわね。ちょっと昔のことだから、記憶がうろ覚えで……」
ごめんなさいねと母は謝る。そして明らかに肩を落とした。そこまで落ち込まないでよ。責めてるつもりは無いのに。
結局、上着のポケットに鍵はあって、引っかかりを感じたまま私は家を出た。
今思えば、あの日が始まりだった。それから今まで何度か、同じような些細な食い違いがあった。
そして今日は、明らかに過去が違っていた。晩ご飯を食べていたら父が、
「そういえば、今週の土曜日に松波くんが来るよ」と、笑顔で私たちを見た。驚いた私は持っていたフォークを皿に落とし、ミートソースが服に飛び散った。
「あら詩音、服にソースが……」
慌てた母の声を遮って、
「お父さん、松波さんってあの、松波さんじゃないよね? 会計士の、来年の春に許嫁と結婚する……」
「そうだよ。その松波くんだけど。どうかしたのか詩音?」
目の前が暗くなった。自分の体が重く沈んでいく。意識を失う前にふと、これは夢なのかもしれないと思う。それならいい。だって松波さんは――。
半年前に自殺していたから。
次の日、私はカフェで柚子さんを待っていた。彼女の職場の近く、繁華街だけど静かで居心地のいい店だ。
「お待たせ」
元気いっぱいの笑顔で、柚子さんは前の椅子に座った。
「詩音ちゃん、何頼んだ?」
「たんぽぽコーヒーです」
「えっ、ご飯食べようよ。私お腹空いちゃった」
店員さんに日替わり定食を頼んでから私をチラッと見る。仕方ない。それ二つで、と言うと小声でやったーと言う。年上の女性を可愛いと表現するのは失礼だろうか。もうすぐ45歳だという彼女は、とても若く見える。そしていつも笑顔だ。
「ご家族の晩ご飯は、大丈夫なんですか?」
「大丈夫よ。ちゃんと連絡してるし。それにしても」
柚子さんは小声を出した。
「松波さんって、詩音ちゃんが前に話してた人でしょ? 自宅で亡くなられたって……」
「はい。そうです」
私は白湯を飲む。松波さんの話をするつもりで柚子さんに会ったというのに、緊張で喉がカラカラだ。
「半年前の話です。突然亡くなられて、私も家族と一緒にお葬式に行きました。だからもうビックリしてしまって……」
柚子さんが頷いて、次の言葉を促す。
「過去が変わっているんです。私の知ってる過去は、誰とも共有できない。そう思うと、この世界は何だろうって。違う世界に来たような気がして仕方がないんです」
日替わり定食がテーブルに置かれて、私たちはしばらく無言で食べる。美味しいはずなのに味がしない。この料理は物質として、確かにここにあるのだろうか。目の前にある人参や大根、柚子さんやこの店にているいる人全てが実在していると、私が信じているだけではないのか。
「詩音ちゃんの言う通り、私もここがパラレルワールドだと思ってる」
柚子さんの言葉で我に返る。
「元の世界と、ほんの少しズレている世界に、詩音ちゃんと私がやって来た。そう考える方が自然だと思うの」
軽く頷くが、納得した訳ではない。漫画やドラマじゃあるまいし。私の戸惑いが伝わったのか、彼女は明るい笑顔で、
「なかなか認めづらいけど、この考え方の方が楽にならない? 自分が変なのか、世界が変なのか。それなら世界が変って思った方が楽だし、辻褄が合うんだよね」
私はまた目を伏せる。
散々考えた。母の記憶違いではなくて、自分の方がおかしいのではないかと。
あの時、あのバスの事故で頭を打ったから。それで記憶を司る脳の部分にダメージを受けて、自分の記憶が曖昧になったのかもしれない。母の記憶こそ正しくて、私の記憶は改竄されている。そんな風に思い始めていた矢先に、亡くなった人が生きていると言われたのだ。パラレルワールドという解決案に乗った方が、楽になれるのは確かだ。
「もしパラレルワールドに入ったとなれば……」
柚子さんが箸を置く。
「きっかけはあのバス事故だろうね」
「そうですね。柚子さんと私の共通点は、それしか無いですし」
「やっぱりそうだよね」
あーあと大袈裟にのけぞって、
「あのバスに乗らなきゃ良かったね。そうすれば事故にも遭わなかったし、違う世界線に飛ばずに済んだのに」
そう。その通りだ。
私と柚子さんは三ヶ月前、乗っていたバスが横転するという事故に遭った。運転士を含む三人が重傷で、私と柚子さんともう一人は軽傷で済んだが、ニュースで取り上げられるくらいには大きな事故だった。
柚子さんとは運ばれた病院で親しくなり、連絡先を教えていた。
「あ、でも。松波さんって人が生きてる世界線の方が、詩音ちゃんにとっては良いよね」
「まあ……。そうですね」
つい歯切れが悪くなる。松波さんとは正直、色々あった。ありすぎた。
「どうしたの、そんな顔して。なんかあった? この際だから吐いちゃえば?」
「違いますよ。松波さんのお墓参りに行くつもりであのバスに乗ったから。なんか、相性が悪いというか」
「ああ、そう言ってたね。変な話。彼が存命なら、詩音ちゃんがあのバスに乗る理由なんて無かったのにね」
確かに、ここで矛盾が生じる。
松波さんが生きていたら、私はそもそもあのバスに乗らなかったはず。
なら、この世界線で、私は何のためにあのバスに乗ったのか。
「お母さん。私、三ヶ月前に事故に遭ったじゃない?」
恐る恐る聞いてみる。この事実が食い違ってたら、また気絶するかも。
「そうね。あれは私も辛かったわ」
母は目を閉じた。
「あなたは打撲と少し腕を切ったぐらいで済んだけど、斜め前に座ってらしたお婆様が足を骨折して、しばらく入院してらしたって聞いたわ。座席が違うだけで、こんなにも差があるのだと知って、心底怖かった。あなたが無事で本当に良かったと、神様に感謝したわ」
その時の心境を思い出したのか、母は涙を浮かべた。
「心配かけてごめんね。ちょっと思い出せなくて。私はあの時、何が目的であのバスに乗ったのかなって。お母さん、何か知ってる?」
母は不思議そうな顔になって、
「ええ。聞いたけど、理解できなかったわ。今でもそうよ。あなたあの時、松波さんのお墓参りに行くって言ったの」
ああ、やっぱりそうなんだ。
「事故に遭って、朦朧としてたんでしょうね」
母に、松波さんが亡くなった世界から来たと言っても、おそらく力になってもらえない。お嬢様育ちの母は、言い方が悪いかもだけど許容範囲がとても狭い。自分の知ってる常識の範囲外に、強い拒否反応を示すタイプだから、私の話はきっと受け止められないだろう。
何にしろ、私がバスに乗った目的は必ずある。それを突き止めるには、どうしたらいいのか。
「そういえば、松波さんが来られるのは明日だけど。あなた大丈夫?」
「大丈夫って、何が?」
内心ドキドキしながら聞き返す。松波さんが生きている世界なら、私とあった色々なこともきっと食い違ってるはずだ。
「……前に、しばらく会うのやめようかなって言ってたでしょ? ケンカでもしたんじゃないかと思って」
「別に、何度かごはんを食べたぐらいで親しくもないし、ケンカもしてないよ」
嘘はついてない。
「お父さんが招待したんだから、来るのは構わない。でも私は会いたくない」
明日は一日中、ネカフェにでも行こうと思ってそう言った。すると母は、わかったわと微笑んだ。
「詩音の意思を尊重します。お父さんには前からの予定があると伝えておくわね」
何も言ってないけど、何かが伝わったようでホッとした。人を嫌うには、ちゃんとした理由がある。生理的に嫌いとか、そんな曖昧なものではない。嫌いになるような状況を作った相手だから、私はその人を避けるのだ。
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