第28話
毎日探索者が出入りしているとはいえ広大な域外では日々魔物が発生している。大きな音を立てれば複数の魔物を呼び込むことも珍しくなかった。そんな事情もあって常日頃は静かな森が二個の軍団により稀に見ぬ騒々しさを帯びている。
その喧騒から少しだけ離れた場所に術師長と従卒の兵二名、宮廷魔術師一名の四人が立っていた。
相対するのは生み出したテーブルに付き、来訪者が見えていないように佇む女性。
「ラーヤ、本当に生きておったか!」
感極まった言葉にラーヤは薄らと瞼を開く。それからしばらく老人を眺めると、小さく首を傾げた。
「どちら様かしら?」
途端に硬直する空気。この場で彼女と直接面識があるのは術師長一人だ。
しかし、その口元が笑っていると見た老人は時間とともに変化してしまった己の容姿を揶揄したものと気付き盛大にため息を吐く。
断りを取らずに彼は対面に用意されていた椅子に座った。
「三十余年が経ったのじゃぞ」
「知っているわ。でもその間止まっていたのだから、貴方もそうなのかと」
続く痛烈な皮肉に老人は眉尻を下げた。
「そうじゃな。魔術しか見んおぬしにとっては停滞よな」
「愚痴りに来たのなら酒場女の前でどうぞ?」
「国に戻ってくれぬか?」
皮肉に反論なく、老いただけの男へ彼女は最低を下し終えていた。
「そうね、彼が持ち帰った王の核に触れさせてくれるなら、戻ってもいいわよ」
「……ッ!」
意味を察した宮廷魔術師が身構えようとするのを手で制する。
「そうせねば王都で存在できぬか?」
「ええ。今すぐと言うならそれしかないかもね」
「王都近隣の域外では駄目か?」
「試したことは無いわ」
漸くその意味を察し、宮廷魔術師は己の短慮に羞恥する。
そんな若くして宮廷魔術師の席を得た優秀な魔術師を見て魔女は綺麗な笑みを浮かべた。
「あら、そんな顔する必要はないわよ?
鬱陶しい連中を丸ごと域外に沈めれば静かになると思っているもの」
美しい容姿から放たれる悪意無き邪悪な言葉に男は凍り付く。国の中枢を「鬱陶しいから」で滅ぼすと発する真意を彼では読み切れない。
「魔術の深奥に辿り着いたとて、人が使わねば路傍の石と変わらんじゃろ?」
「だから自分たちに使わせろ?
流石に盗人猛々しいのでなくて?」
「国が憎いか?」
「耳元で煩いだけの蝿はお好きかしら?」
老人は深くため息を吐くと「大嫌いじゃな」と言い捨てて紙の束をテーブルの上に置いた。
「しかし、憎いとは違うか」と付け加えて。
「では交渉はどうかね?
各国から集めた術式集じゃ」
「……へぇ」
「いかにお主といえど、新たな術式を見出すのは困難極まりなかろう?」
「こう言うのはあの王子のやり口思っていたわ」
「……その通りじゃよ。お前を連れ戻す手段として代金がわりに各国からぶん盗ったものじゃ」
「あなたの手土産にしては気が利き過ぎていると思ったわ」
「ぬかせ。
それにありきたりな手土産を持ったところで物を食う体かも分からんしな」
如何にも老人の風体をした男と二十代前半にしか見えない女性のやり取り。二人の本来の歳の差は一つしかなかった。
「むしろおぬしの口から手土産などと言う言葉を聞くとは思わなんだ」
「厄介な立場に縛られていた時の名残よ。覚えた芸に喜んでもらえて嬉しいわ」
「そこをもう一歩学んで社会性を獲得しておればなぁ」
「疲労を通り越して嫌悪感と憎悪しかなかったわね。殺人犯を追う展開がお好みだったかしら?」
彼女を縛るのは魔術のみ。
術師長たる老人も魔術に取り憑かれた一人ではあるが、彼は圧倒的な才能が撒き散らした冷や水を浴びてしまった一人だ。熱狂に至った足も凍り付き、溶かすことも望めなかった。
「帰還が叶わぬなら継続的な取引をしたい」
「そちらに払えるものはあって?
これに相当するなんてそうある物ではないでしょ?」
「魔道具関連の設備や消耗品、論文の写し、望むなら飲食物も用意しよう。
国は豊かになった。嗜好品は君を君として留める要にはならんのかね。不死王」
魔物の体は魔力外殻で構成されており、つまり五感はすでに人と異なるとされている。しかし人の感性を失ったわけではないとすれば、五感を失った人間は果たして狂わずに居られるのか。
その探りの問いに魔女は僅かに不快そうに目を細めた。
「そも、あの子の前に現れたのは自我を保つ為ではないかね?」
「人質に取るつもりかしら?」
「それはやめにした」
あっさりと否定されて珍しくラーヤは不思議そうな顔をする。
「いや、若手一番の騎士団長があの子を好いておるようでな。
嫁に持っていかれたら困るのか、という探りの質問じゃ」
「へぇ……」
「お主が他人の関係に興味を持つなぞ珍しい限りじゃ。魔物になって人の心を得たか?」
「お言葉ね。魔術に執着しているのは事実だけど、人付き合いはしていたわ」
「素材を取り扱う者や資金提供者に対してのおざなりの対応を言っておるのか?
まともに会話もしてなかったじゃろうに」
「貴方とは話していたわよ?
あと、あの、えっと、王子?」
術師長は思わず頭を抱え、沈痛な面持ちになる。咎める視線に人でなくなった魔女が思わず怯む。
「……あの方は……陛下はおぬしを支えた一番の功労者じゃぞ」
既に王子の立場にあらずと強調した言葉に魔女視線を泳がす。
「だから覚えているじゃない」
付き添いの三人もこの扱いにどんな感情を浮かべて良いか分からず困惑する。彼らは世間に語られる風評でなく、正しく王の功績と苦労を聞き知っていた。彼女から受けた苦労も含めて。
「交渉だったわね。
私に嗜好品の類は無用だわ。論文にしても何一つ見るものがなかった。貴方は魔道から外れたのかしら?」
「資料館の主とか呼ばれておったそうじゃな、おぬしの弟子は。
されど、魔術師にも満たぬ学生に閲覧が許されるものなぞたかが知れておろう」
「むしろ」と老人はため息混じりに視線を鋭くする。
「まぁ、あの基礎論こそ秘匿すべきじゃったとあの弟子は言うたそうじゃがの」
「あの程度を?」
余りにも純粋すぎる疑問に沈黙が深くなる。
確かに今日現在それは正しく「基礎」である。しかし当時の、数百年の常識を前にしても彼女は「あの程度」と評価していた。破壊された常識は彼女にとっては最初から無いに等しく、あくまでもそれが最初から基礎であった。
「人は知識を積み重ね継承する生き物じゃ。その弊害として確固となった常識を覆すのは難しい」
言って老人は過去と変わらぬ姿の女性を見据える。
「おぬしは間違いなく天才じゃ。しかし、天より与えられた才は人の物でなかったようじゃな。
皮肉にもその姿こそが収まるべき形であったか」
「そうね。あなた達の世界は確かに窮屈だったわ」
果たして魔物に成ったのか、戻ったのか。
魔物の住処に居座る魔女の一挙一足に立ち尽くす三人の緊張が絶えない。
「騎士剣や魔道具に適した素材の開発、魔石と魔銀水の量産体制確立。此処では手に入らぬモノじゃ」
「やっぱり魔道じゃないわ」
「魔道を歩み続けてもわしにおぬしを超える才は無い。そして越せぬのなら追従して如何とする。その道は才ある者に任せるのが効率的じゃよ。
……結果論であるが魔道に注力したところで結局おぬしが遥か先に立っておった」
『国家最高の術者』の称号を持ちながら、老人はその道を放り出したと臆面もなく宣言した。
「おぬしが魔道の果てに何を見ておるのかは未だ分からんが、人は魔術に存続の道を見た。おぬしとわしらとではそこが大きく違う」
逃がした魚は大きい。そもそも魚でなく、網や囲いごときで捕らえておけない怪物という認識に欠けていた。
「わしが選ぶは数多の人類が踏み固めた先。生存、発展、その先にある未来。それら全てがおぬしの興味の外だったという無理解を認めよう。
しかしお互いの道が争うもので無いならば利用し合おうと、そう持ちかけに来た」
魔女は微笑む。その目にある怪しい輝きに悍ましさを感じたのは老人だけだったか。
しかし怯みはしない。未知は恐ろしい。それはとうの昔に思い知らされた。
すでに恐ろしいと知っている。
「良いでしょう。とても残念だけど、貴方の選択した道を他人が否定できるものでないわ」
「ぬかせ。この共存はかつても出来たはずじゃ」
「先に道を封鎖しておいて?」
遠すぎる道を往く魔女に己の道からの声は正しく伝わらない。その全てが煩わしく、ただの妨害にしか見做されていなかった。
「無理解をなるべく埋めたいものじゃな」
「……期待はしないわ。
生憎言葉は通じるから、相対でも構わないわよ?」
「断じて争う気はないからの!
まったく……おぬしとの交渉はわしが陛下から一任された。ハクロ男爵に権限を委任し、彼が直接的な窓口となる」
「へぇ」
「……そういえばハクロ男爵───『王殺し』の英雄の子もお主のことを知らんかったようじゃな」
「葬儀にも協力してくれたもの。周囲にも隠し通したのね。
他が知っていたらもっと前にあなた達は此処に来ていたでしょうね」
「……なるほどの。ヤツも平民の出じゃ。
国家への忠誠はおぬしへの義理に劣ったようじゃ」
「やっぱりあなた達の傲慢が原因と思わない?」
「反省はしておるよ。胃薬の研究は随分と進んだと薬師が言うくらいにの」
げんなりとしつつこれ見よがしに胸を摩る。
「魔力量は天井知らず。しかし魔術制御は下の下。
まさに天然の騎士であったな」
「そうね。魔導剣……騎士剣を渡したらおかしなことになったのよね」
「騎士剣という言葉は気に入らんかね?」
「名前なんてどうでも良いわ。会話のための共通記号でしかない。
ああそういえば。これも、あなた達は『魔石』と呼ぶのかしらね」
ごとりとテーブルに置かれた魔力結晶に全員が息を呑む。国の中枢に関わる人材だから魔石も魔銀水も見慣れている。しかし、こんな大きさの魔石など半分でも見た覚えはなかった。
「こ、これは……?」
「私から出す最初の代金としましょう。
私は魔晶と呼んでいるわ。魔石でも構わないけど」
世間に初めてお披露目されたそれを彼女は無造作に指で弾く。もちろん魔石とは隔絶した大きさのそれはそれくらいでは微動だにしない。
それを前にして術師長は驚きを次第に渋面へと変える。
「施設すら不要か」
「必要とする道を歩むからよ」
人の道、厄災前から存在する物質主義は魔術を知ろうとも無くなる理由がない。人は自由に動けど脆く弱い指先の代わりに道具を作り、掘りおこした物を加工して発展してきた。今の世とて道具を捨てて全てを魔術で賄うなど不可能だ。
その道を捨てるなど、ありえない。
「魔石や魔晶と言った擬似物質化すら余計な手間。そうは思わないかしら?」
「されど我らの体は、生命は魔力と一線を引く。我らに限れば必要な進歩じゃ」
「なら、進んだらどうかしら?」
老人は嘆息し告げる。改めて────立場も存在も変わっても、道は遠いと内心で嘆きながら。
「進むとも。
人間に発明などない。創造などありえない。ありとあらゆる物は最初から存在し、我らは発掘し発見し、加工するだけに過ぎん。加工手段すら試行錯誤という時間を掘って発掘するようなものじゃ。
故に、おぬしとのこの会話も、魔晶を引っ張り出したことも、等しく人の道。我らの発見よ」
「随分と都合の良い解釈だわ」
「魔術を得たとてわしらが人間でなくなったわけでない。今もわしらは人の道を歩いておる。
そうと称せねば原初の反魔術運動で魔術師は抹殺されておった。魔術は魔道に鞍替えする転機に非ず。人の道の途上にあっただけじゃ」
魔術は魔力と共にある。そして魔力は人類に突如として過酷な世界を押し付けた毒だ。それを忌み嫌い続け、魔術も放棄していたなら人の世はとうに終わっていたかもしれない。事実最初の魔術師達は『魔力に汚染された存在』として魔物扱いを受け、虐殺の憂き目にあったとも伝えられる。
「さて、今後の為の代金を工面せねばならぬな。持ち帰って検討させてもらおう」
言いながら術師長は腰を上げる。
「のぅ」
無駄でしかないと理解しながらも老人はその問いを口にしていた。
「わしの……いや」
魔女は目を細める。もはや目の前にいる老人が何者であるかも考慮の外にして。
だから老人はその問いを喉の奥に押し込め、代わりの問いを向けた。
「ぬしの弟子は魔道を歩いておるのか?」
「自分の歩む道すら見出せていないから、学園というこの世界の一つの現実を見せてみたのよ。それが教育機関の役目でしょ?」
なるほどと呟き振り返らぬままに彼らは去っていく。
その背を見送ることもなく、魔女は虚空をぼぅと見つめるのだった。
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