第9話

「失礼します」


 その日、ファスト魔術師学園教師に与えられる研究室に現れたのは生徒でも同僚でもなかった。


「何用かね」

「導師に確認を取りたいものがありまして」


 学園教師かつ宮廷魔術師の地位にある者には『導師』の称号が与えられる。一見名誉な事だが、宮廷魔術師でありながら学園に関わる『余裕』がある者というのが実態だ。


 その代表格とされている人物が脳裏に浮かび、来客に集中する事で平静を保つ。


「予算書の提出は済ませたはずだが」

「ええ、それとは別件です」


 総務からの用事など他に思い当たることが無い。生徒でも失踪したか。

 ……それならこんなに落ち着いては、いやこんな微妙な困惑はしてはいないだろう。


「先日退寮した生徒の部屋からこれが」


 言いながら差し出したのは何か小さなものが隅に入っていると見える封筒だった。忘れ物だろうか?


「そんなもの、そっちで処分すればいいだろうに」

「それが───こちらを見てください」


 なんだ、私への恨み言でも残していったのか?

 くだらん。私の態度に偏見が見えることは悪癖と指摘されるが、評価に公平を欠いたことはないと天地神明に誓える。

 つまり、退学になったのならそれは実力不足、努力不────


 裏返されて差し出された封筒を見た瞬間、思考は吹き飛び、頭は真っ白になっていた。


「導師、やはりこの押印は……」


どれほどの時間硬直していたのか、冷や汗が背を流れ、喉がひりついて痛みを訴える。


 蝋の封ではない。真円ひとつという紋章官を嘲笑う、意匠と言うにはあまりにも失礼な封は魔術によって成されている。


 保有魔力に維持されない魔力は空気中で霧散する。


 その法則を嘲笑うこれの再現に誰一人成功していないが故に、この封筒の差出人はただ一人と確信できてしまう。


 震える手でその印に触れようとして、手を止める。

 触れれば解ける。彼はそれを知っている。しかし三十年以上経過して奇跡的に残っていた実物を壊していいのか?

 研究所に回し、解析すべきではないのか?

 いや、しかし、何故、ここに持ち込まれるような事態になった?

 何故、今になって?

 何故この紙は古ぼけていないのだ?

 何故落ちこぼれの部屋から?


「誰だ?」

「え?」

「誰の部屋で見つけたと聞いている」

「セ……セラキスという名の───」


 ぞわりと悪寒が背を上る。

 あの熱意のかけらもない、名誉あるファスト魔術学園に僅かな未練もない目が想起され、あの人の我々を見る目と重なって喉奥を締め付ける。


「邪魔するぞ?

 おや? 来客中だった?」

「っ! 術師長?!」


 ノックすらしない無頼な来客に事務員が声を引き攣らせる。私もまた意識をなんとか現実に呼び戻し、礼を取った。


「忙しいなら出直すが」

「い、いえ! 私の方は終わりましたので! 失礼します!」


 慌てながらも礼節を守って退散する事務員を引き止めることはできない。

 残された私へ術師長───筆頭宮廷魔術師は怪訝な表情を向ける。


「なんじゃ? 痴情のもつれかね?」 

「違います」


 場違いかつ見当違いで下世話な問いに心が冷えて否定はするりと平坦に口から出た。


「なら、聞かせてもらおうか。

 それはなんじゃ?」


 軽口は私の動揺を鎮める為か。相変わらず食えない人だ。

 私は3つ数えるほどの時間沈黙し、その封筒をそのまま差し出す。


「おぬし宛じゃろ?」

「そうでしょうか?」


 私の問い返しに術師長は目を細めた。

 受け取り、眉を跳ねさせた老師は躊躇いなく印に触れた。それは薄氷が砕けるような音を立てて溶ける。


「どれ」


 引っ張り出されたのは紙が一枚。それから人差し指ほどの小物だった。


「なるほどのぅ」


 瞬く間に彼はそう溢す。手紙には大した分量がないことが伺えた。そして小物は恐らく鍵だろうか。


「何と?」

「返し忘れた学長室の鍵じゃと」


 学生が教師になり、宮廷術師の末席に名を連ねるまでになる期間を経て、今更に過ぎる。きっと鍵を失った錠などとうに取り替えられていることだろう。


「それだけですか?」

「……のう。この図面の制作者に心当たりはあるかの?」


 答えずに手にしていた別の紙を差し出され、私は理解の追い付かないまま受け取る。


「……騎士剣の図案ですか?

 それなら研究棟に……」

「学生寮のゴミ捨て場にあったんじゃが」


 続く言葉が凍てついた。

 まず騎士剣の図面を学生が引くなどまずない。新たな騎士剣の草案とばかり思っていたそれを改めて見ると、その異様さに眉根が寄った。

いくらでも苦言は重ねられる。しかしその手紙を前に差し出された意図を計ってしまえば、ただの妄想、落書きと切って捨てられない。


 覚えている。

 私が他の者と共に笑い飛ばした物は巨大すぎる絵の一端でしか無かった。


 その反応を見せた時の、あの目が想起される。

 魔道具という『絵空事』を唱え、それを『夢想』の一言に投げ捨てた者への落胆の目を。賢者の笑う『夢想』を『現実』と示し、その偉業を子供が玩具に飽きたかのように雑に放り投げ、肩を竦め去った時の目を。


 脳髄と胃をぐしゃぐしゃにかき混ぜられ、込み上げる吐き気をなんとか堪える。


「見当がつくなら、それを描いたのについて、おしえてくれんかのぅ?」

「老師は……これの作者をあの人とお考えですか?」

「そんなわけあるか」


 即答。しかし手紙の事といい、この余りにも常識の外にあって成立する現実が見えない図面といい、その影がちらついて仕方ない。


「アレがそのような素案を書いて残すものか。基礎論の原稿すら一発書きじゃぞ」

「ですが……」


 あの平民が描いた?

 与えられた情報が一人の落伍者を示すが、中級魔術の一つも成せない怠惰で無気力な落ちこぼれが、研究者と遜色ない図面を引けるとは到底思えない。内容に不可解な点が多くても、数学知識を始めとする授業では教えない物を含むいくつもの知識が必要になるはずだ。


「アレが関与しておる。しかしアレそのものではあるまい。

 そしてわしらはこの手掛かりを無視するわけにはいかん」


 言いながらこちらへと向けられた手紙には鍵のくだりとは別に、一言だけ大きく書かれていた。


『未熟』


 これを嘲笑と読めればまだ良かった。

 だが、私はこれを落胆として、かつての声と視線を想起してしまう。


 あの人は置いて行ったのだ。この最高峰の学園、術師としての最高峰の地位、知識も金も栄誉も、何もかもを置き去りにして、域外に消えた。残された物で我が国は栄華を得たが、真実を知る者には焦燥しかなかった。事実、我々は三十年もの年月を浪費して彼女の巨大な落書きが何を描いたものかも正しく把握できていない。


 消えたはずだった。

 多くの者は『王の討伐』に感嘆し、国の宝が失われたことを嘆き、そして悍ましき天才が散ったことに内心歓喜を上げていた。

 目標とするには余りにも高く、どんなに手を伸ばしても届かない。圧倒的な才は日照りのように天上にあって、我々を乾かし続けた。

 旱魃に苦しめば日が翳り落ちて歓喜するのも当然だ。

 そして当然のように続いた夜が明けぬことから目を逸らし、我々は闇に沈んだ。

 明けぬ夜に苦しむ。身勝手な葛藤。皆あの太陽を知っている。そして太陽に代わりは無いと知っている。けれども太陽が消えた理由から目を逸らし、昇らぬことに溜息を吐く。


「三十と余年経ってなおわしらは未熟。アレが基礎と謳った足元でまごついておる。

 進歩がない故に国に栄華を齎した技術を秘匿せざるを得ず、他国との格差と不和は悪化するばかりじゃ」

「ですが、老師は……!」

「言うな、恥ずかしい。

 新たな芽は出ておらん。それが全てであろうよ」


 尽力はして当然と老術師は言外に説く。頑迷な守旧派を廃し、基礎論を基軸とした新しい教育を敷いた男は瞳に力を込めて導師を見た。


「痕跡を追う。知っていることを洗いざらい出してくれ」


 私は即座に手持ちの資料を手に取るべく身を翻し、他の資料と関係者を集めるために助手を呼ぶ鈴を鳴らす。

 凡庸にしか見えなかった、そして落伍した。しかし確かにファスト魔術学園に潜り込んだあの少女は何者なのか。

 あの無気力は、彼女の落胆と同じだったのか。

 『目』に苛まれながら、彼は眉間の皴を濃くするのだった。

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