第7話

「日が落ちる前に戻るんじゃぞ」


 最も『域外』に近い門の衛兵は私のことをしっかりと覚えていた。衛兵の中でも最古参で初老に差し掛かる年齢のドゥさんは一人で域外へ向かう私を心配そうにしながらも止めることなく見送ってくれた。


 街から出て歩くこと五分ほどで森の端、即ち『域外』との境界線に辿り着く。

 『域外』には色々なパターンがあるけど、最も多く知られているのが目の前の『森』型だ。

 鬱蒼とした木々に包まれ隔絶した世界。

 近づく前から覚える感覚。そして境界線を一歩間踏み越えるとまるで水に入ったような圧迫感に息が詰まる。

 魔力────魔物を産む要因にして、人類文明を腐らせた毒。その源泉にして湖────ここが『域外』だ。


『セラーーーーーー!!!!』


 そんな久々の感覚と震撼する心を台無しにするような『声』が脳内にガンガンと鳴り響く。

 それが来るのは〈魔力探知〉を使わなくても分かった。というか、街に到着する少し前からずっと視線を感じていたのだ。肌がひりつく位に。

 ようやく人目がなくなった為か、痺れを切らして茂みから飛び出したのは真っ白な毛並みの狼。


「え?」と、声が漏れる。

 応じようと広げた手と思考が凍り付く。

 ハタから見たら私は食い殺される寸前だろう。小柄な私の腕にも収まる二年前の姿を裏切り、茂みから飛び出したその姿は全長が私に匹敵していた。そして驚いているうちに見事に押し倒される。


「ウィロ?! 痛いって!」

『セラ!セラ!セラ!』


 尻尾をブンブンさせて口ではガウガウ言いながら頭に念話をガンガン響かせてくる。身体は二年前と比べ物にならないくらい大きくなったのに中身が全然変わってない。


『おちつきなさい』

『ぐぇっ?!』


 白い突風がウィロの横腹を薙いで弾き飛ばした。真横にすっ飛んだ狼は苦悶の声をあげつつも木に直撃する前に体勢を立て直して着地する。


『母様なにするの!』

『愚息の見るに堪えない行為を諫めたまで』


 身を起こせば、崇拝の念が湧き上がるほどに荘厳な白き巨狼があった。目前のその大きな口は私くらい容易に一呑みにできてしまう。伝説にある竜種とも下位であれば肉弾戦もできるかもしれない。


『久しいな娘』

「お、お久しぶりです。『王』」


 頭の中に響く声音は高貴な女性を思わせる。彼女こそがこの『域外』の『王』であり、人類の生存圏を脅かす天敵。そしてすすっと私の傍に戻ってきた狼の親だった。


『……ともすると決めたか?』

「はい」

『やったあ!!』


 ウィロが嬉しそうに遠吠えを上げる。


『落ち着きを学べぬなら、暫く岩の下に敷く』


 即座に伏せをする狼。それでも尻尾が大きく揺れていて威厳もあったものじゃない。


『母様の暫くだとセラが死んじゃうよ』


 魔物に寿命はないとされる。このウィロも開拓村ができた少し後に生まれたそうだから二十ウン才になるし、『王』に至っては百を優に超える。そんな時間感覚だから『暫く』で本当に数十年の可能性があった。


『娘。やめるなら今だが?』

「約束なので」


 実際は約束なんて軽い話ではない。

 幼い私と、精神性が幼いウィロが交わした契約。お互いその意味を知らず、理解せず、ただ寄り添っただけの、けれども取り返しのつかない契約。


 探索者未満の駆け出しが『域外の王』の前に立てるのは人にあらざる莫大な魔力保有があってのこと。でなければ私の魂はその圧に負けて消しとばされていてもおかしくない。そしてそれはウィロとの契約により貸し与えられたハリボテだった。


『ウィロはセラと一緒に居たい!』

『……』


 その沈黙が置き換わるべき言葉を私は知っている。勝手な想像だし知性があっても獣の表情は見て読めるものじゃない。でも、間違っていない気がする。


『お前の父は人間に殺されたのだぞ』


 三十年前の快挙。英雄が成し遂げた「王殺し」。背後の街はその首級のようなものだ。そこに嬉しそうに赴くと宣言した忘れ形見を黄金色の目が見つめる。


 その何とも言えない沈黙の中、二年間で学ぶ最中に何度も首を傾げた疑問が想起する。

 魔物は核を中心として構築される魔力生物だ。

 つまりその発生に生物的な生殖活動などなく、魔物に親子関係は存在しない。

 稀に雌雄一対や夫婦や群れを思わせる集団は確認されるけど、それら生じた後に、由来となった情報が性質を再現させているだけというのが定説だ。


 十年前。五歳くらいの私が出会ったのは小さくて可愛い毛玉だった。それこそ今の私なら片手で持てるくらいの。時間を経て大きく強大になることは確認されているけど、ウィロのような幼少期を持つ魔物も確認されていない。


 親子を称し、成長して見せたこの存在ははたして魔物なのだろうか?

 答えに至らない疑問を大きな思念が塗り潰す。


『娘。我は汝に託そう。それもまたあるべき道程と信じて』

「それは……?」

『定命なる汝には至れぬ果てだ。汝はただ己の道を征くがよい』

『母様?』


 私の疑問に答えは無く、伝えたいことだけ一方的に告げ、すっと立ち上がった巨狼を不思議そうに見上げる白狼。


『短き旅だ。それが祝福となるか、それとも呪縛か。汝らのみが定められる』


 ウィロも私もその言葉の底を理解できない。

 何もかもが不明で疑問だらけだ。


 ウィロとの『契約』とは何か。何故人の身に余る魔力を私は内包できているのか。人類の天敵、その極みにある域外の王が、何故人に子を託すのか。そもそも自然発生するはずの『魔物』の『子』とは何か。魔力の薄い外縁に何故『王』が足を運べるのか。

 何もかもが二年間で得た知識を、人類が数百年の時と命を域外に投げ打ち解き明かした知識を蹴飛ばしている。ここには例外しか存在していない。


 巨狼は森の深奥の方向へと音無く身を翻す。


『母様! えっと!』


 ウィロがこちらを見る。困ったように、焦ったように。


「行ってきます?」

『それ! 行ってきます!』


 域外から遠く離れることのない魔物が本能に持たない概念。それを強く森の奥にまで響かせて、不思議な魔物は私との同道を宣言したのだった。

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