呼吸とは何か?
地球上の生物の大半が、酸素を吸って二酸化炭素を吐き出す呼吸を行っている。呼吸ができない場合、生物は生命活動を維持できなくなってしまうことは周知の事実だ。
人間も例外ではない。呼吸ができない水中や宇宙空間で、生きていくことができないことを経験から知っている。これは痛みや恐怖が生きようとする意思の表れのように、遺伝子に刻まれた常識だ。
しかし地球の中ですら、呼吸という概念を覆す例外が存在する。分かりやすいところでいえば、植物が行っている光合成だ。植物はその身体に持っている葉緑素を使い、光を浴びている間だけという限定的な期間とはいえ、二酸化炭素を吸って酸素を吐き出している。ただ異世界の事象は、そういった例外範疇を飛び越えてくることを理解しなければいけない。
そもそも空気というものが存在しない異世界だってあるのだ。
空気がない異世界と、空気がある酸素の星・地球における大きな違いは何か。それは気圧の有無だ。気圧とは地球に生きている全ての物体にのしかかる空気の圧力のことであり、標高が高くなればなるほどにのしかかる空気の総量は減り、つまり気圧が小さくなる。
この気圧が存在しない世界から、地球に来た生物は押しつぶされて死ぬ。我々はその結果を漠然とした常識から導きだし理解することができるが、それが異世界人にはできなかった。過去に観測された異世界からの生命体の何割かは、ポータルから肉体を出した瞬間に潰されて死んだ。死体でしか存在を確認されていない異世界は、数百に上るとされている。
気圧という存在を知らない、想像できなかったが故に起きた事故である。しかし彼ら異世界人を責めることはできない。我々とて気圧の存在しない世界に行ったとして、生命を維持させることはできない。
なにせ酸素もないのだから。
酸素がなければ何を持って生命を維持させるか? 地球に来た異世界人の延命処置を施すこととなる事件が、かつて日本で起きている。知っている者も多いかもしれないが、少しばかり、その話をしよう。※1
2010年。12月24日。
クリスマスイブ真っ盛り、綺麗に彩られたネオンが煌めく街中に、一体の異世界人が落ちてきた。ポータルが開かれたのは、上空3776メートルだった。日本最高峰の富士山と同じ高さであり、その高さからコンクリートの地面にたたきつけられた異世界人は肉体が潰れ、体液を周囲にまき散らせた。
夜ということもあり、その落下に巻き込まれた人間はいなかったことは不幸中の幸いか。すぐさま警察が派遣され、その異世界人の特定作業が始まった。しかしその作業は難航した。その最も大きな理由が、散らばった肉体を集める作業が困難を極めたからである。
そんな中、地球との通信が成立していたアルラウネ世界から連絡が入った。なんとその異世界人の正体は、アルラウネの中心にある王国の王子だと判明したのだ。地球側はすぐさま、王子は死んだことを伝えた。しかし相手は激昂し、すぐさま王子を引き渡さなければ世界間戦争も辞さないと強気の姿勢を見せてきた。
すぐさま対策チームが発足され、戦争となった場合の戦力を世界各地から集結させることが決まった。もう散らばった肉体は、死んだものと見なされていたのである。しかし、それは常識に囚われていた我々の思い違いであった。
集められた肉体は、東京にある最大の異世界研究所に預けられた。その散らばった肉体が徐々に固まって形をなし、一つの塊となっていることに気付いたのは、地球時間にして三日も経ってからだった。
もしや……肉体がバラバラにはじけ飛んだとしても生きているのでは?
戦争の準備に入っていた対策チームは、すぐさまアルラウネ世界に連絡を取り、延命処置の手段や技術体系の聞き出し作業を開始した。それにより、その世界には空気がないということ、表皮から吸収した魔力により生命を維持していることが判明した。
これは延命治療を進める上で大きな進展であり、しかしながら絶望的な状況でもあった。我々が呼吸するように、アルラウネ世界では魔力を表皮から吸収することで生命を維持させている……つまり、肉片となった王子は三日もの長きにわたって呼吸を制限されていたということになる。
王子であるという肉片の生命を維持させるには、なによりも先に魔力を与えることが必要とされた。しかし、地球には魔力は存在しない。もう戦争という選択肢しか残っていないという状況で、一人の科学者が可能性を提示した。
その科学者の名は、有沢著目木。
彼は上空3776メートルに開かれたポータルに目を付けた。そこには異世界と地球が繋がった際に、地球に流れ出した魔力が残っているのではと指摘したのだ。それを確かめるべく、王子の肉片を持った研究者達はヘリコプターへと乗り込んだ。
そして指摘は正しかった。肉片は徐々に形を取り戻し、人に近しい姿をした異世界人が現れたのだ。そのまま彼はポータルを作りだし、異世界へと帰って行った。
この事件を境に、異世界から魔力を取引によって入手し、各地で保管することとなった。異世界から来た存在が、呼吸もできずに死んでいくことを見ているだけでは不味いと考えたのである。
もしかしたら宣戦布告の使者かもしれない。なにか良い取引を持ちかけてきたのかもしれない。そのどちらであるにせよ、対話を成立させるため、相手が呼吸できるように最低限度の準備を整えることが求められたのだ。
我々が異世界に行ったとして、そのような準備がその世界でなされている保証はない。しかしあなたの前に異世界人が現れ苦しんでいた場合、この話を知っていれば近隣の異世界研究所、もしくは魔力保管庫に連絡することを約束して欲しい。
※1 ここで記した事件の内容は、かなり詳細を省いた概略となっている。詳しく知りたいという方は、異世界研究所職員が記した記録『空から王子が落ちてきた』をおすすめしたい。関係者からの取材した内容を事細やかに記した内容は、勉強になるし面白い。本著は映画化もされている。映画はかなり仔細を省いており、エンタメ色も強くなっているため、学習には向かない。
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