第3話 優しき人

 メッカにおけるムハンマドの権威は、私やアブー・バクルの改宗によって高まった。だが同時に、それまでイスラムを嘲笑するに留めていたクライシュの有力者達が、本格的にムハンマドを危険視するようになったとも言える。

 とはいえその迫害はまだ水面下のものに留まった。関係者の商売を邪魔したり、キャラバンから除籍したりなどである。

 ヒジャーズには血の復讐と呼ばれる不文律がある。もし仮に、ある一家の人間が別の一家に殺されれば、殺された一家は殺した方の一家の人間を殺して復讐を行う。これは連鎖的に発生するので、いずれは抗争になる。これを恐れ、力のある家の人間を武力的に襲撃することはあまりなかった。どこかの誇り高き熱血漢は別として、

 ムハンマドの育ての親である叔父ターリブは当時最も栄えていたクライシュの一家であるハーシム家の長であった。そのターリブが甥のムハンマドの活動を保護していたため他のクライシュ族の人間は表立ってムハンマドに手が出せないでいた。

 しかし先日、そのターリブが死んだ。ムハンマドは実業を持っていなかったため、ハーシムの家督は別の叔父ラハブに引き継がれた。

 最初は保護を宣言していたこの叔父も、ムスリム嫌いだったために最終的にはムハンマドへの保護を取り下げた。これによりムハンマドやムスリム達への迫害は過激になっていった。

 特に敵意をむき出しにしたのがウマイヤ家である。ハーシム家とならんでクライシュを代表する繁栄を築いていた彼らもまた、多神教の破壊によって齎される経済的な負の側面を危惧していたと言えるだろう。

なのだが...

ふと、コーランを嬉々として読誦する、歯を金の針金で縛ったダンディーな男に目をやる。

この男はウマイヤ家でもトップクラスの富豪、ウスマーンである。

ウマイヤ家どころかクライシュ族でも有数の富豪である彼は何故かムハンマドに帰依していた。

「あなたは」

こちらが話しかけると、彼は読むのをやめて人懐こい表情をこちらに向けてきた。

「どうしてムハンマドに帰依しているのですか?カーバの恩恵を最も受けている人間といっても過言ではないのに」

ウスマーンが不思議そうな表情をする

「メッカで経済的な成功を収めるには、カーバを信じていなければならないのですか?」

なるほど、確かにそのとおりだ。多神教はあくまで結果であって、手段ではない。

 だが、カーバ神殿を中心とするメッカの繁栄の象徴と言ってもいい彼がムスリムとなるのは、やはり違和感があった。

 そんな私の悶々とした感情を察してか、彼は少し気後れしたような表情で語り始めた。

「私の妻、預言者の娘で、ルカイヤって言うんです」

「私は昔から彼女のことが好きだったんですけど、なかなか言い出せなくて、気付いたら別の家に嫁いでおりまして」

彼はバツが悪そうに頭をかいた。

「諦めて生活していると預言者がイスラムの活動を始められまして」

「結局それに反対したルカイヤの嫁ぎ先がルカイヤを送り返して来たんです、そしたら前から私の気持ちを知っていたアブーに勧められて」

(ああ、なるほど)

 不純だなぁと感じた。ここにいる人間は皆、メッカの体制を憂い、ムハンマドに協賛している連中のはずだ。そんな中、こんなにも人間的な理由でここに居るのは私としては不愉快であった。なまじ覚悟も信仰もあったものではないと思われるのである。しかし、

(金持ってんだよな〜この人)

 正直言って現在のウンマの財政状況はあまりよろしくない。そもそもウンマはメッカでの生存競争に敗れた反体制派の受け皿でもあり、社会的弱者が多いと言わざるを得ない。元は商業的に成功していた大商人であるムハンマドの妻ハディージャが支援していたために、そういった人間を食わせることが出来ていたが、ハディージャの死とクライシュ族の迫害によってそれもままならなくなっていた。

 そんな中、アブーの紹介でムスリムとなった彼の存在は重要だった。彼一人の持つ資産だけで、当面のウンマの運営は十分賄えると言って良い。だからまぁ、我々としては有り難い存在なのだが、組織の運営における妥協をどこかに感じ、あまりいい気分ではなかった。

 私が怪訝そうな顔をしているとウスマーンはそれをも察したのであろう。

「お気持ちはよくわかります。私は皆さんみたいに意志が強い訳でも、なにかの能力に秀でている訳でもないですからね」

彼は申し訳無さそうに苦笑した。

「ウマル、ちょっといいか」

いつから聞いていたのか、アブーが顔をのぞかせていた。

未だ気弱そうな顔を浮かべるウスマーンを尻目に部屋を出た。

「お前はあの人についてどのくらい知ってる」

部屋から少し離れると、アブーが険しい表情で私に聞いてきた。

「我々のパトロンだろ」

私は少しため息を付いた

「まぁ仕方ないよな、結局組織は組織だ。運営には金が掛かるし、あーゆー人間が居るのも致し方ない」

するとアブーはさらに顔をしかめた

「お前は知らないのか?彼は初めてこのウンマの中で直接的な迫害を受けた人間だ」

聞かされていなかった新事実に驚く。

すると彼は呆れたように

「彼はウマイヤ家で一番の稼ぎ頭だ。そのウマイヤ家は、今一番表立って我々を迫害している一家なんだぞ」

「そのウマイヤ家からムスリムになるのが、どれほど覚悟の要る事か、想像できるか?」

確かにそうであった。

 聞けば彼がムスリムに改宗したと知ったウマイヤ家長老や彼の両親は三日三晩彼を縛り上げ、改宗を勧め(脅し)たという。

 しかし、彼は一切その意志を曲げず、しまいにはウマイヤ家側が諦め、勘当処分にし、彼を解放したという。

「それに留まらない」

アブーは語る。

「彼は、改宗する前からメッカの奴隷を自分の資産で買っては開放していたんだよ」

アブーはウスマーンのいる部屋を眺めた。

「彼もまた、我々と同じく今のメッカに疑問を抱いた一人なのだよ」

またウスマーンはルカイヤを娶ってからそれ以外の妻とは離縁したらしい。

 ようやく私は、自分の見方が間違っていた事を認める事ができた。

 やはり謙虚な人間というのは紛らわしい、本当に能力がないのか、能力があるのに自信がないのか、他人を欺こうとしているのかが判別できないのだ。

「わかっただろ」

アブーは得意気な顔を浮かべた。

「預言者は彼を、最も恥を知り、信頼がおける人物としている、”我々”よりもだ」

私は何も言い返さず、さっきの部屋を覗いた。

するとまたコーランの読誦を始めた人の良さそうなおじさんが、さっきと同じ場所に座っていた。ただ私には、その額に残る傷がさっきよりも鮮明に見えたのだった。

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