第2話 メッカの硬骨漢

 洞窟の岩壁は外界の日光を遮り、世俗の輝きから心を守る。


 ここでなら彼は、彼が何をすべきか気付くであろう。


 それは我々に必要なもの、ひいては人類に必要なもの。


 彼は限られた社会の価値観に束縛される必要はなく、ただただ自然に、他の者がそうであったように、考える事ができる。



 彼は特別な「人間」なのだ。

・・・

 ムハンマドは栄華を極めた祖父ムッタリブの待望の初孫として産まれた。

 成長後は商人となり、年上で富裕であった嫁を取り、経済的に自由な立場で40になった。

 そうした中で、彼は思い詰めたように瞑想に耽る機会が多くなり、やがてヒラー山の洞窟に籠もるようになった。

 彼はそこで、大天使ジブリールの啓示を受けたという


 そこまで言われたところで私は話を遮った。

「ちょっと待て」

私は顔をしかめて目の前に跪いた男を睨んだ。

 ジブリールといえばキリスト教に於いても重要な天使である。聖母マリアに受胎告知を行い、キリストの神性を保障する存在であると言っても過言ではない。

 それが何故、こんな砂漠の辺境の、自らの富のみを追い求めるクライシュ族ハーシム家の御曹司に、啓示を授けたというのか。

 畢竟私には胡散臭いとしか思えなかった。そもそも私は、一神教自体をあまり好まない。世の中には様々な宗教を信じる民族が居て、それらと協調する事が平和や繁栄への道であるはずなのだ。しかしキリスト教やらユダヤ教は、自分達の神のみが唯一の神であるがゆえに、他の信仰を見下し、まるで人間でないかのような扱いさえ行う。ユダヤ教徒に関して言えば、彼らの民族を至高だと信じている。

 私はそこに、世俗的な繁栄を望めなかった弱者達の負け惜しみのようなものを感じていた。

「我々クライシュ家は、他の信仰を受け入れる事によって繁栄を築いたのだ。その信仰を否定する事は我々の先祖の努力と我々の出生の正当性そのものを否定する事ではないか、それなのに貴様らは一体なぜ、ムハンマドの言葉を信じるのか」

 目の前の男は痛みに悶えながらうずくまっていた。私の義理の弟である。

 するとその妻、すなわち私の妹が鼻から血を流しながら何かを唱えているのが聞こえた。彼らの言う、アッラーの祈りといったやつだろう。

「妹よ、ではそのアッラーの言葉とやらを私に少し聞かせてくれ」

「し、しかし、沐浴をされていない方にこれを読むわけには...」

と消え入りそうな声で答えた。

私はその場にあった水桶を頭から被った。

「これでよいだろ、さぁ読め」

妹は少しためらったが読み始めた。


 私はメッカに第一の硬骨漢とも呼ばれる。家畜の世話に長けていたのが高じ、畜産品をシリアまで売り歩く生活を営んでいた。武芸にも精通し、メッカの武術大会では優勝した経験もある。メッカの繁栄の根拠であるカーバを重んじる保守本流の権化のような存在とまで年上の友人、アブーには言われる。

 のだが、妹の読んだクルアーンの数葉は思いがけず私の心を揺さぶった。なるほど、確かに言葉としては異様に美しい、本当に神のものであるかのようだ。

 わがアディー家の人間が改宗するのもわかる。

「なるほど、ムハンマドは詩人なのだな」

調子づいてクルアーンを読み進める妹を遮って言った。

 そう理解して自分を納得させようとした。一度自分の主張を決定した手前、それは男である限り死んでも貫かねばならない。しかし出来なかった。本当の強さ、格差の正当性、人間の限界。言葉は私がこれまで人生を歩む中、うやむやにしてきた疑問を鋭く突き刺し、それでいて優しく真実を諭すように聞こえたのだ。

 正直私の心はこの時点でかなり乱れていた。少なくとも今日、ムハンマドを殺すために家を出発し、その道中で友人から妹夫婦が改宗したと聞き、激昂してこの家に殴り込み、義弟や妹にまでも鉄槌を下した時の気持ちは、先程頭からかぶった水に流され消え去ってしまったかのようだった。

 私は人間に言葉が与える影響を強く認識した。だがその時の私はそれでも、ムハンマドはただの詐欺師だと信じたかった。

「”人に慈悲をかけない者には、アッラーも慈悲をかけないであろう”」

妹は、そんな私の心の葛藤を優しくほどくかのように語り始めた。

「預言者の言葉です」

妹はまだ顔を引き攣らせて細々と喋っていた。

「それは、俺がお前らに寛容に接するべきだと、そう言いたいのか」

傍らに於いた剣を握りしめて凄む。

「そうではありません」

珍しく鋭い目で睨み返してきた妹は続けた。

「私達があなたに慈悲をかけるのです」

なるほど、この状況で凄い事を言うものだ。

「預言者様はその教えを信じられないものにも理解をしてくださります。私もそうありたいのです。兄さんが預言者様の言葉を信じられないならそれでも良い、たとえここで私達を切り捨てたとしても、私達はあなたを許します」

妹は一度凄んだ目を閉じ、未だ悶ている夫のそばに寄り添った。

「綺麗事だな」

 仮にムハンマドが本気でその信仰をこのヒジャーズに広げたいと考えるなら、それに武力を用いない事などできないはずだ。

 それほどまでにメッカの信仰や文化風習は根が深い。支配階級がその利や既得権益のためにこれを守る。そしてそれを否定する人間を排除してきた。

 イエズスのように非暴力で信仰を広められるとするなら、それはさらに大きな力がそれを利用しようと考える時だけ。

(それがわかっていても)

 私は項垂れた。それでも言葉は私を魅了してやまないのだ。例え綺麗事だとしても、信じてみたくなる。同時に自分には今のメッカの繁栄の不完全性を危惧する感情があるのだと認識させられた。やはり私はどこかで、感情を押し殺してこの街のイデオロギーに順応していたのである。

「相変わらず頭が硬いなお前は」

後ろから声がした。振り返ると窓から顔をのぞかせる美しい壮年の男が居た。私の年上の友人、アブー・バクルである。

「アブーじゃないか」

頭に降りかかるあらゆる衝動と感情を退け、目の前の友人に心の救済を求める。

「妹夫婦がイスラムに改宗してたんだ、我がアディー家の人間がだぞ」

彼は苦笑した。

「そうか、それがどうしたというのだ?」

私は眉を曇らせた。

「まさか改宗したとか言わないよな、お前の本名アブドゥル・カアバ(カアバの奴隷)だったろ」

「あぁ改宗した、本名もアブドゥッラー(アッラーの奴隷)に改名した」

私は困惑した。この男は、メッカで有力な商人の一人であり、普段はただの明るい羊飼いであるものの、リアリストで秩序の安定を最重要視し、法学に通じ、いざという局面では高い能力を発揮して事を収めるため、メッカでも一目置かれていた。因みに年の割に若く、よくイジられるほどの美形である。

そんな彼がイスラムに改宗していたのだ。

「ウマルよ」

彼は不敵な笑みを浮かべて話しだした。

「預言者はお前が考えているより遥かに規格外な存在だ、あの人ならこのヒジャーズを変えられる、あの人なら未だかつて為し得なかった偉業を達成する、あの人なら」

アブーはニヤけ顔を浮かべて私の耳元で囁いた。

「お前を理解してくれるかもな」

アブーの顔は気に触ったが、その言葉は確かに魅力的だった。

 私はメッカで一目置かれている。腕っぷしが強く、経済的にも成功し、硬派で人望がある。が、それでも私の本当の価値はそんなところにはないと考える自分が居たのは事実だし、アブーなどの一部の友人にはそんな話をしては笑われていた。

「あの人は常に考えているのだ、このメッカを是正する術を、ヒジャーズの民全員を幸福にする術を、ひいては」

「この世界全体を幸福にする方法を」

 私は思い出した、メッカの貧しい人々が僅かな穀物すら得られず野垂れ死ぬ様を見ながら、豪勢な食事を貪る名家の人間への違和感を、利権のために争って死んだ男達の妻の表情を。

 アブーはまた笑った。洞察力に優れるアブーは、私の顔に出やすい感情など簡単に読み取れてしまう。

「お前は今日、ムハンマドを殺すために出掛けたと言っていたそうだな」

彼は意地の悪い笑みを浮かべて

「行かなくていいのか」

と聞いてきた。

「ああ、わかった。行ってくる」

今日の目的を思い出して、出立の準備を始めた。妹夫婦が不安そうな目でこちらを見ている。しかしそれは杞憂であろう。

 その日、彼が家を出た時には、変えないためにあったはずの剣は、今は変えるための剣になっていた。

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