砂漠の非文明民だった俺が二つの帝国を相手取る最強の指導者になるまで。
原文ママ
第1話 絶対神
灼熱の昼、アンティオキアの野戦陣地に建てられた大きめのテントの中に、大柄のギリシア人が10名ほど、シリアのヤルムーク川周辺の地図が広げられた机の周りを囲んで座っていた。
8月の暑さ、屋内の高い湿度によって多くの者は服をはだけさせ、少しでも暑さを凌ごうとしていた。一人の男を除いて。
東ローマ帝国、もといビザンツ帝国皇帝、ヘラクレイオス1世である。彼だけは衣服の上から皇帝の証たるマントを取ることなく、ひたすら地図を睨みつけていた。
「陛下、少し休まれては?それにそんなに着込んでいては倒れてしまいます」
心配した家臣が声をかける。が、皇帝は少しその家臣の方を見ると、首を横に振って地図の一点を指さした。
「違和感を感じないか?」
家臣は訝しげな顔をする、恐らく何も感じないのだろう。
「おかしいのだ、敵の布陣が」
と言いつつ少し目を瞑る。
敵、即ちあのムスリム共だ。
恐れ多くも我らが東ローマ帝国の聖地を奪った男達である。
だが一方で彼らは身の程知らずだと言える。
我々は軍事大国たるローマ帝国の1500年近い血で血を洗う闘争の積み重ねの歴史によって圧倒的な文明と、国力を基礎とする数十万の動員兵力をもつ。
一方彼らムスリムは砂漠の商人に過ぎない。半世紀前まではろくな戦争をしたこともない。
だからこの違和感は気の所為であって、数日後には私の息子は勝利とオリエントの主権を携えて帰還してくる。
そのはずだ。
だが、自らの力で皇帝まで上り詰めたこの男は、そんな希望的観測がいい結果を生まない事を知っていた。
皇帝は再び地図に視線を落とした。
「敵は多くても我々の兵の五分の一ほどの兵力しか持たない。その場合騎兵で正面や側面から押し切られたら負けだ、だから普通騎兵は側面に配置する」
指で地図をなぞる。
「だが居ない、敵の側面に騎兵が居ない。いや、もしくは見えないだけ...」
目を閉じる、思考を巡らせる、自分が敵ならどう動くのか。
圧倒的に兵力ではこちらが勝る一方で、こちらの指揮官は互いに連携がとれていない。
だから攻撃に同時性や一貫性がないから、一部遊撃的な騎兵を作って個々の攻撃にあたるのが最善だ。
その場合、向こうに勝機があるとすれば、こちらの攻勢が弱まった時...
机の周りで家臣が扇を煽ぐ音が耳に入る。むわっとした熱気を感じて目をあけると、照り付ける太陽と、それを反射する砂の地面が窓から見えた。ビザンティンにいるうちは殆ど目にすることのない光景だった。
皇帝は急に立ち上がるとテントの外に歩み出て大声を上げた。
「伝令を出せ!!今すぐ撤退だ!軍と指揮官をまとめ直さなければ帝国軍は壊滅する!」
陣地に居た早馬が慌てて出立の用意を始めたが、同時に馬の蹄の音が響いた。そして戦地から帰ってきたであろう伝令が陣地に駆け込んで来た。
その伝令の姿を見た皇帝は、自分の判断の遅さを嘆いた。兵の数に驕って統率を放棄し、将軍達が手柄を取り合って対立するのを、離反されるのを恐れて放置した代償。思えば最初から勝敗など決まっていたのかもしれない。
伝令も馬も、身につけていたはずの鎧を脱ぎ、数か所に矢が刺さってまだ処置をしていない、皇帝の前にあっても額の血を拭かない焦り様、何より悲壮感と絶望感に溢れた表情が戦闘の結果を痛いほど物語っていた。
「...息子は死んだのか?生き残りは何人だ?」
皇帝は、かつてサーサーン帝国に勝利して聖地を手に収めたその皇帝は、今はもう、息子と属州を守る最低限の軍があればそれで十分だった。
しかし残酷にも、伝令はうつむいた。
「テオドロス様は戦死、戦闘で全軍の半数近くまでもが戦死し、その後の敵の追撃によってもはや生存勢力は把握できません」
皇帝は膝から崩れ落ち、皇帝の証であるマントを砂で汚した。
そうして独り、皇帝として自らの栄光の終焉を嘆くと共に、父親として自分の子の死を泣いた。
丁度同時刻、数日経過し、黒く染まったヤルムーク川の渓谷を崖の上から眺める大男は、名をハーリドといった。この歴史的勝利を演出したムスリム、その張本人であった。
だが勝利とはなんであろうか
ハーリドは空を仰いだ。
彼にとって勝利とは、部下や同僚からの羨望の眼差し、メディナの市民の歓声、湧き上がってくる無限の自信。
ハーリドはもう一度川に目を落とした。
だが同時に、勝利とは眼下に広がる死体の山々、指導者からの嫉妬と敵からの憎悪、狂信的な次の勝利への期待。
これまで勝ち続けてきた、預言者に神の剣とまで呼ばれた。だが所詮、剣はいずれ刃が綻び、捨てられる運命、神のような永遠ではない。
神の剣も、結局はメディナの市民が熱狂するような神の一部などではなく、使い捨ての備品に過ぎないのだ。だからもっと単純に、軍人として敵を殺して生きて、軍人として敵の刃の前に死ぬ。そんな人生が、今考えてみれば幸せだった。
なのに勝ってしまう、どんなに苦境に立たされようと、溢れ出る能力と周囲の期待が、敗北を許さない。
仮に私が絶対でなかったとしても、結局神は絶対なのだった。
神は絶対なのだった。同じような事を考えていたその男は、メディナにある彼専用の書斎で、ハーリドの降格を決定していた。第二代正統カリフ、ウマルである。
人生の大きな賭けが大方終わった彼は、静かに淡々と仕事が出来るゆとりを楽しむ気持ちと、元からの激しい気性に与える興奮と熱気が最早存在しない事に退屈を覚える感情を同時に抱えていた。
少し書類を書く手を緩めて思索に耽る。
思えば我々をここまで導いたのは神である。不思議なことだ。一生砂漠のしがない商人で終わるはずだった我々が、今や二つの大帝国を駆逐してアラビア半島の覇者にまで成り上がってしまった。絶対性が与える秩序と正義、強靭性によって我々は迷うことなく精力的に活動し、結果的に神は偉大になる。
神は最初から偉大だったのか、最初から絶対だったのかなど議論する必要すらない。我々に提示された結果、それそのものが全ての絶対性を証明する。
我々がそれに出会った頃から、一時の例外もなく、神は絶対なのだった。
そう、あの頃から。
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