第6話 朧げな記憶
陽がすっかり高くなってから、葵はやっとベッドから抜け出した。向日葵は葵の看病のために2日間仕事を休んでいたので、朝早くから出かけていた。出がけに向日葵が言った言葉を葵は思い出していた。
「駐在の伊東さんが昼頃訪ねてくるそうよ」葵はなぜ警察官が訪ねてくるのだろうと思った。その時、玄関の呼び鈴が鳴った。葵は冷めてしまった味噌汁をご飯にかけると急いでかきこんだ。テーブルの食器を台所の洗い桶に乱暴に放り込むと玄関に向かった。引き戸の曇りガラスの向こうに警察官の姿があった。
駐在の伊東さんと呼ばれる男は定年間近な頭髪がさびしくなりかけている気のいい警察官だった。伊東巡査の顔にはいつものにこやかな表情が無かった。
「葵君、君が熊に襲われた時のことを思い出してくれないか」
「朧げな記憶しかないんです。でも熊に襲われたとは言っていません」
「君がうなされている時に言ったと聞いたのだが。やはり違うのか」
「大楠山で男性の死体が見つかったそうですが」伊東巡査の表情は一層険しさを増した。葵に話した方がいいのかどうか迷っているようだった。
「今まで見た死体とはまるで違っていた。熊が爪や歯で引き裂いた傷じゃなかった。君のシャツとズボンと同じように鋭利な刃物で切り裂いたようだった」
「君を襲ったのは刃物を持った人間だったんじゃないか」
「朧げな記憶しかないんです。その記憶も本当に自分が見たものなのか。自信がないんです」葵は霧の中にあるような記憶を呼び戻そうとしていた。
「曖昧な記憶でもいい。覚えていることを話してほしい」
「あれが幻覚でないなら、人間でも熊でもありません。鏡の中から何かが襲って来たんです」
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