十五 大蛇退治
── 島根県出雲市 出雲空港
八岐大蛇が宍道湖から滑走路へと上陸した。
首の一つが鼻を鳴らす。他の七つの首も漂ってくる酒の匂いに気づいた。
各々まっすぐに酒の入った大桶のもとに向かう。
一つの首に一カ所とはいかなかったようで、桶の酒を飲んでいると、ここは俺の場所だと追いやられた首もあった。
追いやられた首も空いている場所を見つけ桶に口を突っ込んだ。
得をしたとばかりに喜んで酒を飲む。結局のところ同じ腹に収まるので得かどうかは人間の感覚では知りえない。
「間に合ったか? 外界がうるさくてな、対応に追われてしまった」
「建御雷。これから出番だ」
建御雷が月讀のもとにやってきた。
出雲大社にて、光と将史に自身の加護を与えた後、一度高天原に戻っていた建御雷。
怪獣の出現に日本政府への問い合わせが殺到した地上と同じく、日本に出現した神代の怪物についての問い合わせが高天原にも殺到していた。
外務を司る建御雷は自慢の膂力を奮えるここぞという時に、その対応に追われていた。
すべての問い合わせに対応していてはキリがないと途中で、今までにきた質問に対する回答の定型文を作成し、以後類似の質問があればこの定型文を解答するよう部下に申し伝えて地上に降りてきた。
大桶の酒を飲み干した八岐大蛇は、その巨体をふらふらと揺らしたかと思うと、ゆっくりとアスファルトに伏して眠り始めた。
ここに、湖畔を駆けて大蛇を追ってきた素戔嗚と建御名方も合流した。
「ああ、いらしてたんですか建御雷様」
「うむ。頼むぞ建御名方」
高天原の武神に気づき、建御名方はひかえめに声をかけた。
かつて天孫降臨の折、高天原の使者であった建御雷に若気の至りで盾突き、殺される寸前まで脅されたのが、建御名方である。対面となると未だに背筋が伸びる思いがするのだった。
素戔嗚、建御雷、建御名方、そして月讀。この場に集った四柱の膂力ある神々が同時に四つの首を落とす。
大蛇の首回りは各々の身長を軽く超えるため、十拳剣を何度も突き立てる事になる。大蛇が痛みで覚醒する前にいくら首を落とせるかが重要になる。
「いくぞ!」
四柱が同時に剣を突き立てる。
素戔嗚は目にも止まらぬ速さでめった刺しにした。
建御名方は首の上に乗り全体重を乗せて側面を地面まで切り下ろした。
月讀は喉元を切り、まず大量に血を溢れさせた。
建御雷に至っては、両手両足を剣に変え、身体を回転させながら切り刻み頭を首から一気に切り離した。
「あんな芸当は真似できんな」
隣の首で建御雷が起こした惨状を目撃してしまった月讀が独りごちた。
── 黄泉の国 黄泉津大神の神殿
「何体いるんだ。」
「はあ……はあ……」
建御雷の加護があれど、尽きない黄泉の亡者の猛攻に、二人の顔には疲れが見える。
「大蛇、起きなさい! さっさと社を壊しに行きなさい!」
数に押されて自身に手も足も出ない二人には目もくれず、伊弉冉は鏡を通して地上の様子を探る。
「ちょっと、勘弁してくださいって! まだ彼女もできたことないってのに!」
「あら、そうなの?」
「あっ、いやその……」
縁結びの社を破壊せよとの命令に、自身の恨み節も添えて光は伊弉冉の説得にあたった。
そして、生まれてこの方知ることのなかった母の茶々を知ったのだった。
── 島根県出雲市 出雲空港
昏睡していた八岐大蛇が目を覚ます。
深酒によってふらついている内に月讀、素戔嗚、建御名方が対峙していた残り三つの頭を切り落とす事に成功した。
残るは四つの頭。四柱がそれぞれ対峙する。
怒り狂った大蛇は、四柱に襲いかかった。
砕いてしまおうと噛みつき、押し潰そうとのしかかり、へし折ってやろうと締め上げ、様々な手段で殺害を試みてくる。
建御名方が、首を鞭のようにしならせた頭突きで弾き飛ばされた。
大蛇はふらふらとして、憎々しく睨みつける。
また、身体をくねらせ足もなく歩み始めた。
出雲大社まで半分を切った。
── 黄泉の国 黄泉津大神の神殿
将史は出雲大社が破壊されたら起こる可能性について考えた。
日本各地の神々を招き、受け入れる体勢がとれる場所がなくなり、再建まで神議が滞る。
縁結びの神議がなくなることで、出会いが生まれず新しい命も芽生えない。
また、様々な運を差配する神議も滞って、人生における運の助力も消える。努力する者に、ちょっとした幸運をもたらすこともなくなる。
富める者は常に富み、貧する者は常に貧する。怠け者であれば、社会的な格差も広がる一方となる。
「光、頑張り時だぞ。ここで失敗したら僕らの国はディストピアだ」
「ええ……? 恋愛関係だけじゃなくて社会問題にも影響するの」
「神議が行われないとそうなる」
これからまだ何十年と余生があるだろう子供らにとっては切実な問題であった。
「伊弉冉様! おやめください!」
「地上がどうなろうと知らぬ」
沙織が説得にあたるが聞く耳を持たず、伊弉冉は日本の各地に魔物を召喚していく。人々は理不尽に傷つけられ、怒り、怨念を生み出す。
回収された怨念は八岐大蛇へと送られる。
大蛇は凶暴性を増し、四柱を手こずらせている。
「はははは! 良いじゃない! ……っ」
伊弉冉は円鏡を覗きこみ映し出された出雲の戦いを見て笑う。
しかし一瞬、何かに視界が遮られたのか鏡面が黒く染まり、自身の顔が反射し写り込む。朽ち果て、風穴の空いた自分の顔は、いつだって気分を萎えさせる。
「死」というものの理不尽さ、冥界に囚われた自分の現況、愛する人に朽ちた身体を見られた羞恥心。様々なものが頭をよぎり怒りは燃え上がる。
膨れ上がった憤怒の怨念はまた八岐大蛇に注がれる。
── 島根県出雲市
「これはまた苛烈だな」
大蛇の牙を天羽々斬で受け止めた素戔嗚がそう愚痴た。
頭のない首も血を撒き散らしながら、力なくその身を振るい襲ってくる。
大蛇から感じる怨念の濃度が増した後、刃の通りが悪くなった。
上空ではいくつかの報道ヘリが八岐大蛇を囲むように旋回している。
「おい! どっか行ってろ! 死んでも知らねえぞ!」
建御名方が吠えるが、風切音で聞こえるはずもなく、ヘリコプターが離れることはない。
「ぐうっ……!」
先に4つ頭を落としたのは正解だった。
大蛇の頭と力比べの最中、首なしの首が横槍を入れてくる。力の落ちたものとはいえ、非常に面倒であった。これが万全の状態だったら更に厄介だったろうことは想像に難くない。
ひと際、悪意の波動が高まった時、つまりは、伊弉冉の憤怒が注がれた時、八岐大蛇の動きが早まり、力も増した。
四柱は八岐大蛇に押され始め、窮地に陥る。
建御雷は地面に押しつけられ潰されまいと抵抗する。
素戔嗚は口の中で噛み砕かれそうになる。
月讀は巻き付かれ締め上げられる。
建御名方は大蛇の穢れた血の海に押しつけられ呼吸をできなくさせられる。
── 黄泉の国 黄泉津大神の神殿
「十二年ずっと一緒にいた母さんの言葉でも止められないんだ。僕らの言うことなんか聞くわけない」
「でも、止めなきゃ。地上もおかしくなるし、伊弉冉尊だって怒りで狂ってしまうよ」
「もう、そうなってるように見えるけど」
首飾りを伊弉冉に近づけようにも邪魔が煩わしい。
亡者の屍が転がり足元も悪くなっている。
「ああもう、どうすれば」
「儂がやろう」
返事をするように、扉の方から声が響く。
一柱の男神が、こちらに向かってくる。
左手に小兎を抱え、右手に剣を携える。襲いかかる泉津醜女を事もなげに切り捨てて、優雅な散歩の如く光の目の前に歩いてきた。
「預かろう」
男神は、光から勾玉の首飾りを取り上げ、
「それからこれは君に」
反対にこはくを渡してきた。
「案内、ご苦労だったな」
そう言って、小兎の頭を撫でた。こはくは目を細めて気持ちよさそうに悦んでいる。
「
「無論、お前に会いに来た」
現れたのは伊弉諾尊であった。
伊弉冉は自身の欠けた頬を隠すように少し俯く。しかし、思い直したのかすぐに正面から睨みつけた。
泉津醜女に伊弉諾を襲うように号令する。
「ふーん、それだけの力があるなら、あの日私から逃げる必要もなかったんじゃない?」
「いや、あの頃は無理だったろうな。儂も変わったのよ」
「そうみたいね。すごく老けたわ。おじさんよ」
伊弉諾尊は額や目尻にシワができ、ほうれい線も目立つようになっていた。
「お前は変わらんな。あの日見たままの姿だ」
一方、伊弉冉尊はかつてこの場所で別れたままの姿。下半身に火傷の痕が目立ち、身体のところどころが朽ちている。
「喧嘩を売りにきたの?」
「まさか。しかしそうか。怖ろしいと思っていたその姿の中に、美しいお前の面影がはっきりと見えるじゃないか。これに気づいておればな」
「……」
「お前と袂を分かち、長い年月が経った。もはや正確には測れないが、何千年にも何万年にも感じる……」
真っ直ぐと目を見つめ、言い放つ。
「すまなかった。お前を深く傷つけた」
伊弉諾は伊弉冉の肩を引き寄せ抱きしめた。
「何を今更……!」
突き放そうとするが、強く抱きしめられ離れられない。
「怒れ。好きなだけ儂に怒りをぶつけろ。しかし、誰かに乗せられた怒りじゃなく、お前自身の心のままに」
伊邪那美に首飾りをかける。
「存外似合っておるな」
伊弉諾ははにかんだ。
勾玉が眩く光を放ち、伊邪那美に取り憑いた憤怒の怨念を吸収していく。
身体から溢れた黒いもやが最後の一粒まで吸収されたとき、伊邪那美の目から一筋の涙が流れた。
「私、貴方の隣にいたくない。どうしたってこの醜い姿を好きにはなれない。貴方に見せたくないもの」
「そうか。こうやって抱きしめていたらその姿は見えぬが。儂はお前を見ていたい…… 光!」
伊弉諾に呼びつけられるた光が恐る恐るといった様子で尋ねる。
「はい。何でしょ?」
「若変水を出せ、ありったけな」
「は、はい。わかりました…… どこに出しましょうか?」
「伊弉冉を包み込み、悪しきものを全てを洗い流してしまえ」
「えっと、はい。承知しました。では、息を止めてくだ…… あっ、ごめんなさい」
既に息絶えた方であることを思い出し、咄嗟に謝った。
空中に若変水を球のように出して伊弉冉を包み込む。そして渦を生み出した。
建御雷の加護も使い果たす勢いで力を出し尽くす。
全身に若変水が染み込み渦が消えた時。伊弉冉は美しい姿を取り戻した。
恐る恐る頬を擦る。朽ち落ちて欠けていたところだ。
そこには確かにハリのある肌が甦っていた。
「か、鏡を」
沙織が鏡を持ってきて伊弉冉に差し出した。
「あ、ああ……」
伊弉冉の目から、ぽたぽたと止めどなく涙が溢れる。
「せっかく、顔を見せてくれるんだ。笑った顔を見せてくれ」
「だって、だって!」
伊邪那美は伊邪那岐の胸元を濡らし続けた。
「よくできた飾りゆえ名残惜しいが、これには近づかん方が良かろ」
伊邪那美から勾玉の首飾りを外して光に預けた。
「ふう…… ふっ!」
ひとしきり泣き、ようやく涙も収まり、ひと心地ついた伊邪那美は伊邪那岐の頬に張り手を食らわせた。
「え」
「見るなって言われたら、見ちゃ駄目でしょ! これは私の本心の怒りだからね」
怨念に思考を支配された時とは違い、心の底から湧き出る自身の怒りを伊弉冉は伊弉諾にぶつけた。言われた通りに。
「……すまなかった」
「それに今の貴方、なんかすごく偉そうな喋り方! 癪にさわった」
「そりゃ儂だって高天原じゃそれなりに上の方の位だから…… すまんかった」
伊弉諾の苦笑した顔に、髭も生えていない若い頃の面影が見えた。それは何とも懐かしく、愛おしかった。
「ふふ、今は気分が良いから許してあげる」
「感謝する」
今度は、伊弉冉から伊弉諾を抱きしめた。
「ああ、でもまたそろそろお別れね」
「何故じゃ?」
「私は死者。貴方は生者。私の国は黄泉の国。貴方の国は高天原。一緒にはいられないでしょ?」
「なんじゃ、そんな事か。儂は既に隠居の身。どこにいようが関係ないわい。お前さえ良ければだが、ここにおっては駄目だろうか?」
縋るような目つきについ許したくなるが、譲れない点があった。
「それなら条件があるわ」
「なんじゃ」
「黄泉の国の食事を摂らないこと。まだ貴方をここの住人にはしたくないわ……」
「お前と同じ食事を味わえないのは残念だが、承知した。黄泉津大神殿」
伊弉諾は胸に手を当ててお辞儀をした。
「よろしい」
不老不死の霊水と言われる若変水と言えど黄泉の国の住人となった者を蘇らせることはできない。
しかし、かつての姿を取り戻した女神は、満ち足りた心で生を実感していた。
「ねえ、力ある神様は取り憑かれた時の被害が大きいから接触禁止じゃなかった?」
「う、うん。そう聞いてたけど」
「黙ってた方が良いかな?」
「すぐばれるんじゃないかな」
光と将史の懸念は後に現実のものとなり、伊弉諾は天照から後にこっぴどく怒られることとなる。
……。
── 島根県出雲市
黄泉の国、怨念の大元は絶たれたが、地上の混乱は続いていた。
「ぐうう」
力負けし、身動きが取れない最中、ふと呼吸が楽になる瞬間があった。
みるみると八岐大蛇を押し返し、そして解放されるに至る。
何が起こったかは四柱にはすぐにわかった。日本中から祈りが捧げられたのだ。
鎌倉時代、北条泰時によって制定された御成敗式目には、神は敬われることによって霊験あらたかになるとある。
さて、どうだろう。人の如何によって神の力が左右されるなどあるのだろうか。
しかし今この時、テレビ中継やネット上で自衛隊の力も及ばない怪獣・八岐大蛇と戦う者達が報道されたことによって、人々が彼らの必勝を祈願し、その声が神々自身に届いたことは事実であった。
力を奮い立たせて、再び大蛇に立ち向かう。
すると上空に報道ヘリとは別の影が現れた。
『月讀様。
「助かった」
月讀は天鳥船が落とした刃渡り三メートルを越える巨大な刀を受け取った。
破邪の御太刀。山口は花岡八幡宮に所蔵される大太刀を、ここぞ使い時であると借り受けた。
今や日が昇ろうとしている。月讀は夜が明ける前に夜の王の力を尽くして、首の一つを一刀両断した。
「兄上!」
月讀は太刀を素戔嗚に投げてよこした。
「ほう、こりゃ良い」
その刀身の長さと、邪気を祓う性質と、見事にこの状況に噛み合った刀は、また一つを大蛇の首を落とした。
「建御名方、使え!」
「ぬ! 爺様、危ねえじゃねえですか!」
また一つ。
残るは一つ、建御雷が対峙する一頭のみ。
建御雷は首の間を駆け回り、建御名方とのすれ違い様に破邪の御太刀を掠め取った。
「見事なものよ」
刀身を見つめる建御雷に首なしの七つの首が襲いかかる。主導権を得た最後の一頭が、一振りで首を落とした太刀を警戒し、それらを差し向けたのだ。
迫り来る首なしの首を次々と輪切りにし、最後の首に迫る。
そして一振り。
八つの首が落ちた時、八岐大蛇は動きを止めた。
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