十三 八岐大蛇

 松江。

 自身を祀る阿太加夜あだかや神社に姿を現した素戔嗚尊は揖屋に向けて駆けていく。

 道中、眷属のごとく権現した魔物を薙ぎ払い進む。有象無象には一瞥をくれてやるだけで見つめる先は大蛇のみ。



 事代主が酒造会社に着いた時、職人達はそこにいた。


「ああ、良かった。既に避難していても已むなしとは思ったが」


 事代主は杜氏に語りかけた。


「まさに今、そうしようかと思っていた所だがね」


 会社の名前の書かれたバンと、自家用車数台に荷物が運び出されている際中であった。


「申し訳ないが仕事を頼みたい。この地に住まう者なら、あれの鎮め方は知っていよう?」

「酒か」

「それも酒精の強いものを」


 杜氏は目蓋を閉じて、一息吐く。

 代々続いた酒蔵も今日を以て廃業、命あっての物種と覚悟を決めたばかりであった。

 しかし、あれに立ち向かう者達がいるならば、最期のひと仕事をするのも悪くなかった。協力するのに否やはない。


「わかった。市販の流通品よりも度数の高いものが欲しいんだな? あれがここに来る前にありったけ用意しよう」

「ありがとう。身の安全は保障するよ」


 杜氏が周囲で話をうかがう蔵人達に号令をかける。


「しゃあ、聞いたかお前ら! やるぞ」

「「おう!」」


 決意の光を宿した眼で、職人達は酒蔵へと戻っていった。



 出雲大社。

 出雲大社・拝殿にて、啓介は太玉命ふとだまのみことの指揮の下、神主・巫女達と共に注連縄を作っていた。 人の手によって編まれた注連縄を太玉が清め、権能を上げる。

 こうして作られた注連縄を避難経路や酒造会社の付近に張り、魔物の被害を防ぐ。


「これ、あとどれくらい作るんすかね?」

「まだまだ。いくらあっても足りないだろうから。あれが討伐されるまでずっとかも」

「うへえ」


 近くの巫女に話しかけ、啓介が駄弁を続けようとするも取り合ってはもらえなかった。



 松江。

 八岐大蛇は家々を踏み潰しながら進んでいく。その胴体からは自重に耐えきれないのか血が滲み町を汚している。

 逃げ遅れた人あらば、頭同士が争うように奪い合いひと呑みにしている。

 そこかしこで渋滞が起き、車での移動は叶わず、走り逃げ惑う人々の悲鳴が溢れる。

 また一人、逃げ遅れた女性が大蛇の餌食になろうかという時。

 素戔嗚は女性を後方に放り投げ、大蛇の舌を切り落とした。


「行け!」


 女性は振り返らずに一目散に走った。

 八岐大蛇の頭の間を飛び回り注意を引く。この場でこれ以上、悲しみや怨念が増えないように。



「えいや!」

「ふっ!」

 光と将史は天津神に借りた十拳剣を手に、道中現れた魔物を切り捨てて進む。

 出雲大社にて、建御雷の加護を得て力が漲っている。

 同様に加護を受けた二人だが、血の覚醒によって身体能力が向上した光に引けを取らないどころか僅かに上回るのではないかという動きを将史が見せる。

 光はこの戦いの後、少しは鍛えるべきか等と考える余裕があった。

 将史としても、襲われた記憶が蘇り、また、この旅においても、光が一人で戦うのを歯痒く思っていた。ここぞとばかりに力を振るう。

 目指すは黄泉の神殿。



 八岐大蛇はまっすぐに出雲大社に向かっているようで、今は松江の市街地を逸れて田畑を荒らしながら進んでいる。

 頭八つに一人で対処するのは限界があったため人の多い所を外れてくれたのはありがたかったが、出雲大社までの直線上には所々に町がある。余談は許されない。

 突然、自身の対峙する頭とは別の頭が激しく威嚇しだした。


「おう! 遅かったな!」

爺様じさま、お待たせを!」


 建御名方が助太刀に現れた。

 父・大国主が素戔嗚の娘・須世理姫すせりひめと結婚し、素戔嗚を義父ちちと呼ぶのでならば自分はと爺様と呼んだ。

 だからと言って須世理姫が母かと言うと、そうでもないのが神々の複雑なところ。

 しかし素戔嗚としても祖父のように慕ってくる建御名方を邪険にはせず、むしろこうして手の足りない時に駆けつけてくるので、なんとも頼もしく思った。


「黄泉比良坂が亡者で詰まってるのが見えまして! 爺様の部下をあの二人のつゆ払いに遣ったんですが、宜しいですかい!」

「ああ、それでいい」


 建御名方に報告を受けた後、素戔嗚が声を張る。


「あまり怒りを買いすぎるなよ! 酒に目が行くくらいの余裕を残してやれ!」

「はっ!」



 出雲大社。

 彩音は大国主と共に負傷者の手当をして回った。

 人間の怪我は大したことはなかった。せいぜい、擦り傷、切り傷や捻挫などが大半であった。それ以上の怪我となると八岐大蛇の下敷きか胃袋の中かという、幾人か出てしまった手遅れの者のみ。

 しかし、素戔嗚に続き勇猛果敢に大蛇へ挑んだ神々からは痛ましい怪我人が出ている。足の折れ曲がった者、腕から先を食いちぎられた者などが歯を食いしばり痛みに耐えている。

 そこで、彩音は医薬の神の威光を目の当たりにする。

 怪我人を診るやいなや、材料箱をあさり瞬時に薬を作りだし処方する。傷はたちどころに塞がり、面影も残さず、失った手足でさえも再生を始めている。

 彩音は作り置きの薬を持って、専ら軽症の者の手当にあたったが、大国主の手元に幾度となく目が奪われた。



 黄泉の国。


「まさか、こんなに早く戻ってくるとはお母さんも思ってないだろうね」

「ほんと、どんな顔して会えばいいんだか」


 黄泉に住まう神々の助力を得て、黄泉の神殿へとたどり着いた光と将史。素戔嗚を慕う神々が、群がる亡者の軍勢を切り捨て、道を開いてくれた。

 ここから先は神々が怨念の新たな温床となるのを防ぐべく、光と将史の二人で進む。

 既に先程来たばかり、伊弉冉がどこにいるかは知っている。一直線に鏡の間に向かう。

 光の手には勾玉の首飾り。玉祖命と祓戸大神によって作られたこれが伊弉冉に取り憑いた憤怒の怨念を吸収するという。

 過去最大の魔物を解き放った直後、今が絶好の機会であった。

 ばんっ! と扉を開く。


「愚か者が戻ってきたか」


 振り向く事なく告げる伊弉冉。傍らには給仕する沙織がいた。物音に驚きそちらを見れば生者の国に帰ったはずの息子が立っている。


「光! なんで戻ってきたの!」

「ごめんね。全てを終わらせるために戻ってきた」

「終わらせるって……」

 

 何をしでかすつもりなのか心配するような目つきで息子を見た。相手は黄泉津大神・伊弉冉尊である。無茶をしないでほしい。

 そして当の伊弉冉は今の会話に引っかかりを覚えた。


「沙織、あれを逃がしたのはお前か?」

「……ええ」

「何故じゃ。其方は長年わらわに尽くしてくれた。味方と思うてたが」

「ええ、私も貴女の味方でありたいです。しかしそれでも、貴女に息子を殺させる訳にはいきません」

「そうか、あれは息子か。月讀め、名を変えて隠しておったか。しかし息子が私より大事か、この裏切り者め!」


 伊弉冉は沙織の顔をはたき、突き飛ばした。


「何するんだ!」


 母を傷つけられ、頭に血が上る。

 咄嗟に沙織と伊邪那美の間に立ち、剣を向ける。


「おい、誰に向かって申しておる。それに剣を立てるなど、無礼者め!」

「光……」


 将史に起こされた、沙織はなんと言えば良いのかわからなかった。


「もう良いわ、親子そろって無となれ。醜女共、今夜の糧にしてしまえ」


 ぞろぞろと泉津醜女が入ってくる。将史と二人、十拳剣を構えた。



 松江。

 八岐大蛇は宍道湖の畔を進む。

 この頃になると、大蛇のけたたましい威嚇音の他に空を割る自衛隊機の風切音も辺りに響いた。

 民間人の護送に、怪獣の偵察にと忙しくしている。

 八岐大蛇が来待川の付近にさしかかった頃。素戔嗚に報告がくる。


「酒の準備ができました。この先、出雲空港に運ばれています」

「よし」



 出雲空港。

 空港内滑走路には西日本の各地から蒸留された酒精の強い酒が集められた。

 出雲近辺で製造された酒は、避難誘導にと酒蔵を訪れた陸上自衛隊が買って出た。

 事代主は、大蛇の巨体を少しでも長くその場に留めるべく、天鳥船あまのとりふねと共に西日本のあちこちを巡り酒を運んできた。

 昔ながらの大桶に入った酒が何十と並べられる。

 それらを八つに分けて設置するよう月讀が指示を出す。


「ご苦労だった鳥船。それと、もう一つ頼めるかい」


 楠の大船に再度、西に飛んでもらった。

 大蛇への対抗手段はいくつあっても良い。

 天鳥船が飛び立ったのを見送り、滑走路を見渡す。


「さあ再び八塩折を馳走してやろう」


 神代から時を超えた八塩折作戦が始まる。


 

 松江。

 「撤退だ!」素戔嗚が建御名方に叫ぶ。

 八岐大蛇が宍道湖に侵入した頃合いで、素戔嗚らは注意を引くのをやめ、その場を離れた。

 この先に出雲空港がある。



 出雲大社。

 境内に、置かれた光のリュックがもぞもぞと動き、僅かに開いたチャックの隙間から小兎が顔を出した。

 身をよじらせて、こてんと外に転げ落ちる。跳ねてまわり、境内のあちこちにある兎の像を巡る。

 こはくが一体の像の前で立ち止まり見つめていると、その兎の像が突如動き出し、声を発す。


『よーしよし良くやった、偉いぞぉ。帰ったらいっぱい遊んでやろうな』


 それを聞いて、こはくはその場で跳ね回った。


『そうか、そうか、愛いやつめ』


 白兎の声だった。自身を模した像を通して、こはくに声を送っている。

 白兎はこはくを自らの眷属とし、神の使徒としての役割を与えていた。

 何やらこそこそと出掛ける準備をする光の鞄に潜ませて同行させたのもその一つ。自身にその目的を伝えるため、危険があれば助力するために。

 思春期の少年達の逃避行なら気の済むまでやれば良いと思ったが、黄泉比良坂でこはくの気配が地上から消えたとなると話は違った。

 直前までこはくが現在地を白兎に思念伝達していたおかげで、子供らの危険を月讀に伝えることができた。

 黄泉では伝達が届かなくなったためか光を頭役と考えて、神殿に案内してしまったようだが、それは仕方がないだろう。

 与えられた役割は果たした。存分に褒めるに値する小兎であった。

 青銅の前脚で傷つけないように少しだけ撫でていると、そこに一柱の神が近づいてくる。

 その姿を見ると、兎の像は頭を下げ平伏した。

 こはくは小首を傾げるばかり。


「兎殿。そちらのかわいいお嬢さんを少しお借りできるかな?」



 出雲空港。

 八岐大蛇が宍道湖から滑走路へと上陸した。

 首の一つが鼻を鳴らす。他の七つの首も漂ってくる酒の匂いに気づいた。

 各々まっすぐに酒の入った大桶のもとに向かう。

 一つの首に一カ所とはいかなかったようで、桶の酒を飲んでいると、ここは俺の場所だと追いやられた首もあった。

 追いやられた首も空いている場所を見つけ桶に口を突っ込んだ。

 得をしたとばかりに喜んで酒を飲む。結局のところ同じ腹に収まるので得かどうかは人間には知りえない。


「間に合ったか? 外界がうるさくてな、対応に追われてしまった」

「建御雷。これから出番だ」


 出雲大社にて、光と将史に自身の加護を与えた後、一度高天原に戻っていた建御雷が月讀のもとに訪れた。

 怪獣の出現に日本政府への問い合わせが殺到する地上と同じく、日本に出現した神代の怪物についての問い合わせが高天原にも殺到していた。

 外務を司る建御雷は自慢の膂力を奮えるここぞという時に、その対応に追われていた。

 すべての問い合わせに対応していてはキリがないと途中で、今までにきた質問に対する回答の定型文を作成し、以後類似の質問があればこの定型文を解答するよう部下に申し伝えて地上に降りてきた。


 大桶の酒を飲み干した八岐大蛇は、ふらふらと揺れたかと思うと、ゆっくりとアスファルトに伏して眠り始めた。

 ここに、湖畔を駆けて大蛇を追ってきた素戔嗚と建御名方も合流した。


「ああ、いらしてたんですか建御雷様」

「うむ。頼むぞ建御名方」


 天孫降臨の折、高天原の使者であった建御雷に若気の至りで盾突き、殺される寸前まで脅された建御名方は、この御方が苦手であった。

 素戔嗚、建御雷、建御名方、そして月讀。この場に集った四柱の膂力ある神々が同時に四つの首を落とす。

 大蛇の首回りは各々の身長を優に超えるため、十拳剣を何度も突き立てる事になる。大蛇が痛みで覚醒する前にいくら首を落とせるかが重要になる。


「いくぞ!」


 四柱が同時に剣を突き立てる。

 素戔嗚は目にも止まらぬ速さでめった刺しにした。

 建御名方は首の上に乗り全体重を乗せて側面を地面まで切り下ろした。

 月讀は喉元を切り、まず大量に血を溢れさせた。

 建御雷に至っては、両手両足を剣に変え、身体を回転させながら切り刻み頭を首から一気に切り離した。


「あんな芸当は真似できんな」


 その様子を目撃してしまった月讀が独りごちた。



 黄泉の国。


「何体いるんだ。」

「はあ……はあ……」


 建御雷の加護があれど、尽きない黄泉の亡者の猛攻に、二人の顔には疲れが見える。


「大蛇、起きなさい! さっさと社を壊しに行きなさい!」


 数に押されて自身に手も足も出ない二人には目もくれず、伊弉冉は鏡を通して地上の様子を探る。


「ちょっと、勘弁してくださいって! まだ彼女もできたことないってのに!」

「あら、そうなの?」

「あっ、いやその……」


 縁結びの社を破壊せよとの命令に自身の恨み節も添えて光は伊弉冉の説得にあたった。

 そして、生まれてこの方知ることのなかった母の茶々を知ったのだった。



 出雲空港。

 昏睡していた八岐大蛇が目を覚ます。

 深酒によってふらついている内に対峙していた残り三つの頭を切り落とす事に成功した。

 残りの四つの頭に四柱がそれぞれ対峙する。

 怒り狂った大蛇は、それぞれに襲いかかる。

 砕いてしまおうと噛みつき、押し潰そうとのしかかり、へし折ってやろうと締め上げ、様々な手段で殺そうとしてくる。

 建御名方が、首を鞭のようにしならせた頭突きで弾き飛ばされる。

 大蛇はふらふらとして、憎々しく睨みつける。

 また、足もなく歩み始めた。

 出雲大社まで半分を切った。



 黄泉の国。

 将史は出雲大社が破壊されたら起こる可能性について考えた。


「まずいね。運を差配する神議がなくなって、人生における運の助力も消えるとなると、社会的な格差も広がる一方だ」

「ええ……? 恋愛関係だけじゃなくて社会問題にも影響するの」

「神議が行われないとそうなる」


 これからまだ何十年と余生があるだろう子供らにとっては切実な問題であった。


「伊弉冉様! おやめください!」

「地上がどうなろうと知らぬ」


 沙織が説得にあたるが聞く耳を持たず、伊弉冉は日本の各地に魔物を召喚していく。人々は理不尽に傷つけられ、怒り、怨念を生み出す。

 回収された怨念は八岐大蛇へと送られる。

 大蛇は凶暴性を増し、四柱を手こずらせている。


「はははは! 良いじゃない! ……っ」


 円鏡を覗きこみ映し出された出雲の戦いを見て笑う。

 しかし一瞬、何かに視界が遮られたのか鏡面が黒く染まり、自身の顔が反射し写り込む。朽ち果て、風穴の空いた自分の顔は、いつだって気分を萎えさせる。

 「死」というものの理不尽さ、冥界に囚われた自分の現況、愛する人に朽ちた身体を見られた羞恥心。様々なものが頭をよぎり怒りは燃え上がる。

 膨れ上がった憤怒の怨念はまた八岐大蛇に注がれる。



 出雲。


「これはまた苛烈だな」


 大蛇の牙を天羽々斬で受け止めた素戔嗚がそう愚痴た。

 頭のない首も血を撒き散らしながら、力なくその身を振るい襲ってくる。

 怨念の濃度が増した後、刃の通りが悪くなったのを感じる。

 上空ではいくつかの報道ヘリが八岐大蛇を囲むように旋回している。


「おい! どっか行ってろ! 死んでも知らねえぞ!」


 建御名方が吠えるが、風切音で聞こえるはずもなく離れることはない。


「ぐうっ……!」


 先に4つ頭を落としたのは正解だった。

 大蛇の頭と力比べの最中、首なしの首が横槍を入れてくる。力の落ちたものとはいえ、非常に面倒であった。これが万全の状態だったら更に厄介だったろうことは想像に難くない。

 ひと際、悪意の波動が高まった時、つまりは、伊弉冉の憤怒が注がれた時、八岐大蛇の動きが早まり、力も増した。

 四柱は押され始め、窮地に陥る。

 建御雷は地面に押しつけられ潰されまいと抵抗する。

 素戔嗚は口の中で噛み砕かれそうになる。

 月讀は巻き付かれ締め上げられる。

 建御名方は穢れた血の海に押し入れられ呼吸を困難にさせられる。



 黄泉の国。


「十二年ずっと一緒にいた母さんの言葉でも止められないんだ。僕らの言うことなんか聞くわけない」

「でも、止めなきゃ。地上もおかしくなるし、伊弉冉尊だって怒りで狂ってしまうよ」

「もう、そうなってるように見えるけど」


 首飾りを伊弉冉に近づけようにも邪魔が煩わしい。

 亡者の屍が転がり足元も悪い。


「ああもう、どうすれば」

「儂がやろう」


 扉の方から声が響く。

 一柱の神が、こちらに向かってくる。

 左手に小兎を抱え、右手に剣を携える。襲いかかる泉津醜女を事もなげに切り捨てて、優雅な散歩の如く光の目の前にたどり着く。


「預かろう」


 光から勾玉の首飾りを取り上げる。


「それからこれは君に」


反対にこはくを渡される。


「案内、ご苦労だったな」


 そう言って、小兎の頭を撫でた。こはくも目を細めて悦ぶ。


伊弉諾いざなぎ……何しにきたの」

「無論、お前に会いに来た」


 現れたのは伊弉諾尊であった。

 伊弉冉は自身の欠けた頬を隠すように少し俯く。しかし、思い直したのかすぐに正面から睨みつけた。

 泉津醜女に伊弉諾を襲うように号令する。

 天之尾羽張を一閃し泉津醜女を薙ぎ倒す。


「ふーん、それだけの力があるなら、あの日私から逃げる必要もなかったんじゃない?」

「いや、あの頃は無理だったろうな。儂も変わったのよ」

「そうみたいね。すごく老けたわ。おじさんね」


 伊弉諾尊はおでこや目尻にシワができ、ほうれい線も目立つようになっていた。


「お前は変わらんな。あの日見たままの姿だ」


 一方、伊弉冉尊はかつてこの場所で別れたままの姿。下半身に火傷の痕が目立ち、身体のところどころが朽ちている。


「喧嘩を売りにきたの?」

「まさか。しかしそうか。怖ろしいと思っていたその姿の中に、美しいお前の面影がはっきりと見えるじゃないか。これに気づいておればな」

「……」

「お前と袂を分かち、長い年月が経った。もはや正確には測れないが、何千年にも何万年にも感じる……」


 真っ直ぐと目を見つめ、言い放つ。


「すまなかった。お前を深く傷つけた」


 伊弉諾は伊弉冉の肩を引き寄せ抱きしめた。


「何を今更……!」


 突き放そうとするが、強く抱きしめられ離れられない。


「怒れ。好きなだけ儂に怒りをぶつけろ。しかし、誰かに乗せられた怒りじゃなく、お前自身の心のままに」


 伊邪那美に首飾りをかける。


「存外似合っておるな」


 伊弉諾ははにかんだ。

 勾玉が眩く光を放ち、伊邪那美に取り憑いた憤怒の怨念を吸収していく。

 身体から溢れた黒いもやが最後の一粒まで吸収されたとき、伊邪那美の目から一筋の涙が流れた。


「私、貴方の隣にいたくない。どうしたってこの醜い姿を好きにはなれない。貴方に見せたくないもの」

「そうか。こうやって抱きしめていたらその姿は見えぬが。儂はお前を見ていたい……光!」


 伊弉諾に呼びつけられるた光が恐る恐るといった様子で尋ねる。


「はい。何でしょ?」

「若変水を出せ、ありったけな」

「は、はい。わかりました……どこに出しましょうか?」

「伊弉冉を包み込み、悪しきものを全てを洗い流してしまえ」

「えっと、はい。承知しました。では、息を止めてくだ……あっ、ごめんなさい」


 既に息絶えた方であることを思い出し素直に謝る。

 若変水を空中に玉のように出して伊弉冉を包み込む。そして渦を生み出した。

 建御雷の加護も使い果たす勢いで力を出し尽くす。

 全身に若変水が染み込み渦が消えた時。伊弉冉は美しい姿を取り戻した。

 恐る恐る頬を擦る。朽ち落ちて欠けていたところだ。

 そこには確かにハリのある肌が甦っていた。


「か、鏡を」


 沙織が鏡を持ってきた。


「あ、ああ……」


 ぽたぽたと止めどなく涙が溢れる。


「せっかく、顔を見せてくれるんだ。笑った顔を見せてくれ」

「だって、だって!」


 伊邪那美は伊邪那岐の胸元を濡らし続けた。


「名残惜しいが、これには近づかん方が良かろ」


 伊邪那美から勾玉の首飾りを外して光に預けた。


「ふう……ふっ!」


 ひとしきり泣き、ようやく涙も収まり、ひと心地ついた伊邪那美は伊邪那岐の頬に張り手を食らわせた。


「え」

「見るなって言われたら、見ちゃ駄目でしょ! これは私の本心の怒りだからね」


 怨念に思考を支配された時とは違い心の底から湧き出る自身の怒りを伊弉冉は伊弉諾にぶつけた。言われた通りに。


「……すまなかった」

「それに今の貴方、なんかすごく偉そうな喋り方! 癪にさわった」

「そりゃ儂だって高天原じゃあそれなりに上の方の立場だから……すまんかった」


 伊弉諾の苦笑した顔に、髭も生えていない若い頃の面影が見えた。それは何とも懐かしく、愛おしかった。


「ふふ、今は気分が良いから許してあげる」

「感謝する」


 今度は、伊弉冉から伊弉諾を抱きしめた。


「ああ、でもまたそろそろお別れね」

「何故じゃ?」

「私は死者。貴方は生者。私の国は黄泉の国。貴方の国は高天原。一緒にはいられないでしょ?」

「なんじゃ、そんな事か。儂は既に隠居の身。どこにいようが関係ないわい。お前さえ良ければだが、ここにおっては駄目だろうか?」


 縋るような目つきについ許したくなるが、譲れない点があった。


「それなら条件があるわ」

「なんじゃ」

「黄泉の国の食事を摂らないこと。まだ貴方をここの住人にはしたくないわ……」

「お前と同じ食事を味わえないのは残念だが承知した。黄泉大神殿」


 伊弉諾は胸に手を当ててお辞儀をした。


「よろしい」


 不老不死の霊水と言われる若変水と言えど黄泉の国の住人となった者を蘇らせることはできない。しかし、かつての姿を取り戻した女神は、満ち足りた心で生を実感していた。



「ねえ、力ある神様は取り憑かれた時の被害が大きいから接触禁止じゃなかった?」

「う、うん。そう聞いてたけど」

「黙ってた方が良いかな?」

「すぐばれるんじゃないかな」


 光と将史の懸念は後に現実のものとなり、伊弉諾は天照から後にこっぴどく怒られることとなる。



 出雲。

 黄泉の国の事件は収まったが、地上の混乱は続いていた。


「ぐうう」


 力負けし、身動きが取れない最中、ふと呼吸が楽になる瞬間があった。

 みるみると八岐大蛇を押し返し、そして解放されるに至った。

 何が起こったかは四柱にはすぐにわかった。日本中から祈りの声が届けられたのだった。

 鎌倉時代、北条泰時によって制定された御成敗式目には、神は敬われることによって霊験あらたかになるとある。

 さて、どうだろう。人の如何によって神の力が左右されるなどあるのだろうか。

 しかし今この時、テレビ中継やネット上で八岐大蛇と戦う者達が報道されたことによって、人々が彼らの必勝を祈願し、その声が神々自身に届いたことは事実であった。

 力を奮い立たせて、再び大蛇に立ち向かう。

 すると上空に報道ヘリとは別の影が現れた。


『月讀様。誉田別尊ほんだわけのみことから借りてきましたよ』

「助かった」


 月讀は天鳥船が落とした刃渡り三メートルを越える巨大な刀を受け取った。

 破邪の御太刀。山口は花岡八幡宮に所蔵される大太刀を、ここぞ使い時であると借り受けた。

 今や日が昇ろうとしている。月讀は夜が明ける前に夜の王の力を尽くして、首の一つを一刀両断した。


「兄上!」


 月讀は太刀を素戔嗚に投げてよこした。


「ほう、こりゃ良い」


 その刀身の長さと、邪気を祓う性質と、見事にこの状況に噛み合った刀は、また一つを大蛇の首を落とした。


「建御名方、使え!」

「おわっ! 爺様、危ねえじゃねえですか!」


 また一つ。

 残るは一つ、建御雷が対峙する一頭のみ。

 建御雷は首の間を駆け回り、建御名方とのすれ違い様に破邪の御太刀を掠め取った。


「見事なものよ」


 刀身を見つめる建御雷に首なしの七つの首が襲いかかる。主導権を得た最後の一頭が一振りで首を落とした太刀を警戒し、それらを差し向けた。

 迫り来る首なしの首を次々と輪切りにし、最後の首に迫る。

 そして一振り。

 八つの首が落ちた時、八岐大蛇は動きを止めた。

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