十四 別れ

 伊邪那美命が浄化された後、真っ先に入ってきた速佐須良姫はやさすらひめが神殿内をくまなく歩き清めて回った。

 黄泉の国に持ち込まれた禍事、罪、穢れを祓う女神は、封印から十二年と十ヶ月の間で溜まりに溜まった神殿の瘴気を消し去るため忙しなく動く。


 傍ら、伊弉冉尊は沈鬱な表情で沙織に歩み寄り頭を下げた。


「沙織、貴女には本当に申し訳ないことをしたわ」


 沙織の目を見ることを、臆病になった心が僅かに躊躇わせる。しかし伊弉冉は頭を上げると、まっすぐに沙織を見つめた。

 沙織は何も言わずに、ただ次の言葉を待つ。

 自分の死因をつくった相手。失われた時間、ありえたかもしれない家族との生活を思えば、何も思わない筈がないだろう。


「貴女は生を終えた。本来ならば、安息の日々を過ごしているべきなのに、私に付き合わせてしまった。もうゆっくりすると良いわ」


 自分が、地上に放った魔物が奪ってきた命。当時、その様子を伊弉冉は鏡を通して見ていた。各地の様子を転々と見ていたが、一人の女に目が止まる。幼児を抱え、子供の手を引きながら魔物から逃げる母親。ついには神々も間に合わず地に伏した。

 伊弉冉は恨め怨めと笑った。

 しかし母親は、愛の前に微笑みを浮かべて死んだ。なんだか小癪に思い、その魂を自らの神殿に閉じ込めてやった。

 この女の絶望する顔を見てみたいと思った。

 しかし終ぞ、沙織はそんな表情を見せなかった。むしろこちらを慮るような、気遣うような顔をするのだ。

 それがなんとも生意気で、時に心地よかった。

 自分の命令に忠実な化け物しかいない神殿で、言葉が返ってくる唯一の人間は、癒やしであった。

 時折、返ってくる意にそぐわない言葉が自分以外の存在を強く認識させ、孤独をかき消した。

 彼女は十分働いた。これ以上、縛り付けるのは酷に思った。


「そうですか。ではお暇をいただいて夫や親族に会ってこようと思います」


 沙織は頷く。


「ええ、そうするといいわ」


 名残惜しいが、それが本来のあり方だ。

 優しい沙織が一切の引け目など感じる事が無いよう微笑んで答えた。

 しかし、沙織は言葉は続く。


「挨拶してまわったら、また戻ってきます。黄泉の神殿、それもかの伊弉冉尊の隣にいるなんて普通誰にもできないんですから。もう少し、いさせてください」


 そう言って、気遣うように微笑み返した。


 沙織は理解していた。

 怨念に取り憑かれなければ、伊弉冉は地上に混沌をもたらすような真似はしていない。

 伊弉諾との決別の日、二柱は互いに宣言した。伊弉冉は一日に千人を殺し、伊弉諾は一日に千五百人を誕生させると。

 神殿には、かつて伊弉冉が黄泉の国へ誘った人々の記録があった。閲覧してみれば、記録の中の人々は無作為にその宣誓の餌食となった訳ではなかった。対象は故意に選ばれていたのだ。

 生を十分に謳歌した老人、当時の医療では救えない怪我人・疾患者。それぞれを苦しみから解放し安らぎを与えるべく常世の国に旅立たせていた。

 残された者には悲劇だが、それを望む当人に取っては神の慈悲と言えるのではないか。


 そして、怒りの原因となった伊弉諾との悲恋。

 愛する人の愛を失う恐怖、失望に怯える乙女心も理解できないわけではなかった。

 沙織はこの十二年間、苦悶と苦痛に満ちた顔を見てきた。既に十分苦しんだのではないだろうか、そう思えた。

 他の誰か、きっと大勢に恨まれている。

 ならば私だけでも、許しを捧げようと。


「……いいの? 忙しくなりますよ」

「ええ」

「では、伊集院沙織命いじゅういんさおりのみこと。改めて、黄泉津大神の秘書職への任官を命じます」

「謹んでお受けします」


 二柱の女神は手を取り、会心の笑みを浮かべた。



 ……。

 地上に戻る前に光は母と別れの言葉を交わす最後の時間を得た。


「さて、この神殿の体制も立て直さなきゃね。この十二年、日本における冥府の仕事を閻魔庁に任せっきりだったから、地獄の閻魔様もかんかんかも」


 お地蔵様を見かけたら光も拝んどいて、そう言って沙織はおどけるように肩をすくめた。

 封鎖される前、この神殿にて黄泉の国の鬼籍の管理を行っていた。

 封印されたこの十二年間は機能していなかったため、地獄と極楽の住人だけでなく、黄泉の住人の帳簿作成も閻魔庁が代行していた。

 瘴気が祓われ、健全な姿を取り戻したのだ、元の鞘に収めるべきだろう。

 怨念によって出来た魔物ではない、地獄の本物の鬼達も慌ただしくしていることだろうから。


「じゃあ、光。元気でね。こんな無茶はもうしないでほしいな。母さん心配で命がいくつあっても足りないよ」


 既に残機のなくなった者の言葉は重い。

 これは冥界ジョークだろうか、光は笑うに笑えなかった。


「じゃあ輝にも、身体に気をつけるように伝えて。光も輝もこれからはずっと見守ってるからね」


 沙織は光を抱きしめた。


「輝もこうやって、この手に抱きしめたいけど。それは何十年か後の楽しみかな」

「……そうなるように頑張って生きるよ。僕も、兄さんも」


 思春期の少年としては、母親に抱きしめられる行為には少し恥ずかしさもあったが、今生の別れを終えた後、再び出会えたこの奇跡に感謝した。



 光と将史は、黄泉比良坂を上る。

 後ろを振り返りはしなかった。

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