十六 別れ
── 黄泉の国 黄泉津大神の神殿
伊邪那美命が浄化された後、真っ先に入ってきた
黄泉の国に持ち込まれた禍事、罪、穢れを祓う女神は、封印から十二年と十ヶ月の間で溜まりに溜まった神殿の瘴気を消し去るため忙しなく動く。
傍ら、伊弉冉尊は沈鬱な表情で沙織に歩み寄り頭を下げた。
「沙織、貴女には本当に申し訳ないことをしたわ」
沙織の目を見ることを、臆病になった心が僅かに躊躇わせる。しかし伊弉冉は頭を上げると、まっすぐに沙織を見つめた。
沙織は何も言わずに、ただ次の言葉を待っている。
自分の死因をつくった相手。失われた時間、ありえたかもしれない家族との生活を思えば、何も思わない筈がない。
「貴女がずっと気にかけてくれたおかげで、私は独りではなかった。……貴女は生を終え、本来ならば安息の日々を過ごしているべきなのに、長いこと私に付き合わせてしまった。もうゆっくりすると良いわ」
自分が、地上に放った魔物が奪ってきた命。
当時、その様子を伊弉冉は鏡を通して見ていた。
日本各地で発生した瘴魔の様子が複数の円鏡に映し出される。
鬼の拳で潰された車、鎌鼬によって全身に深い傷を負った老婆、狼に襲われ首元を必死に手で隠す男、それらの様子を見て恐怖し必死に逃げる人間達。
神々が対応にあたっている様だが後手に回っており、全員は救えない。人間の怨みつらみが増えていく。
伊弉冉は満足げに頷いた。
ふと、一人の女に目が止まる。
幼児を抱え、子供の手を引きながら魔物から逃げる母親。ついには神々も間に合わず地に伏した。
伊弉冉は恨め怨めと笑った。
だが伊弉冉の期待とは裏腹に、母親は愛の前に微笑みを浮かべて死んだ。
なんだか小癪に思い、その魂を自らの神殿に閉じ込めてやった。この女の絶望する顔を見てみたいと思った。
しかし終ぞ、沙織はそんな表情を見せなかった。むしろこちらを慮るような、気遣うような顔をするのだ。
それがなんとも生意気で、時に心地よかった。
自分の命令に忠実な化け物しかいない神殿で、言葉が返ってくる唯一の人間は、癒やしであった。
時折、返ってくる意にそぐわない言葉が自分以外の存在を強く認識させ、孤独をかき消した。
彼女は十分働いた。これ以上、縛り付けるのは酷に思った。
「そうですか。ではお暇をいただいて夫や親族に会ってこようと思います」
沙織は頷く。
「ええ、そうするといいわ」
名残惜しいが、それが本来のあり方だ。
優しい沙織が、引け目など一切感じる事が無いよう微笑んで答えた。
しかし、沙織は言葉は続く。
「そしたら、また戻ってきます。多少、挨拶ができたらそれで。この冥府を立て直す、これからが大変な時でしょう? 貴女は無茶をする方だから誰かが側で見ていないと。もう少し、ここにいさせてください」
そう言って、気遣うように微笑み返した。
「それに! 黄泉の神殿。それも、かの伊弉冉尊の隣にいるなんて普通誰にもできないんですから。自慢になります」
おどけるように言葉を加えて、自身にもメリットがあるのだと背中を押す。
沙織は理解していた。
怨念に取り憑かれなければ、伊弉冉は地上に混沌をもたらすような真似はしていない。
伊弉諾との決別の日、二柱は互いに宣言した。伊弉冉は一日に千人を殺し、伊弉諾は一日に千五百人を誕生させると。
神殿には、かつて伊弉冉が黄泉の国へ誘った人々の記録があった。閲覧してみれば、記録の中の人々は無作為にその宣誓の餌食となった訳ではなかった。対象は故意に選ばれていた。
生を十分に謳歌し既に孤独の中にいる老人、当時の医療では救えない怪我人・疾患者。それぞれを苦しみから解放し安らぎを与えるべく常世の国に旅立たせていた。
残された者には悲劇だが、それを望む当人にとっては神の慈悲となった。
そして、怒りの原因となった伊弉諾との悲恋。
愛する人の愛を失う恐怖、失望に怯える乙女心も理解できないわけではなかった。
沙織はこの十二年間、苦悶と苦痛に満ちた顔を見てきた。既に十分苦しんだのではないだろうか、そう思えた。
他の誰か、きっと大勢に恨まれている。
ならば私だけでも、許しを捧げようと。
「……いいの? 忙しくなりますよ」
「ええ」
「では、
「謹んでお受けします」
二柱の女神は手を取り、会心の笑みを浮かべた。
……。
地上に戻る前に光は母と別れの言葉を交わす最後の時間を得た。
「さて、この神殿の体制も立て直さなきゃね。この十二年、日本における冥府の仕事を閻魔庁に任せっきりだったから、地獄の閻魔様もかんかんかも」
お地蔵様を見かけたら光も拝んで労ってね、そう言って沙織はおどけるように肩をすくめた。
封鎖される前、この神殿にて黄泉の国の鬼籍の管理を行っていた。
この十二年間は冥府として機能していなかったため、地獄と極楽の住人だけでなく、黄泉の住人の帳簿作成も閻魔庁が代行していた。
瘴気が祓われ、健全な姿を取り戻したのだ、元の鞘に収めるべきであろう。
怨念によって生じた魔物ではない、地獄の本物の鬼達も慌ただしくしていることだろうから。
「じゃあ、光。元気でね。こんな無茶はもうしないでほしいな。母さん心配で、命がいくつあっても足りないからさ」
既に残機のなくなった者の言葉は重い。
これは冥界ジョークだろうか、光は笑うに笑えなかった。
「じゃあ輝にも、身体に気をつけるように伝えて。光も輝もこれからはずっと見守ってるからね」
沙織は光を抱きしめた。
「輝もこうやって、この手に抱きしめたいけど。それは何十年か後の楽しみかな」
「……そうなるように頑張って生きるよ。僕も、兄さんも」
思春期の少年としては、母親に抱きしめられる行為には少し恥ずかしさもあったが、今生の別れを終えた後、再び出会えたこの奇跡に感謝した。
光と将史は、黄泉比良坂を上る。
後ろを振り返りはしなかった。
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