十 ヘスティアの助言

 ── オリンポス聖域


 オリンポスでは現在、建設工事が進められていた。

 ミューズの奏楽堂を今より広いものにするため移設、拡大が進められている。

 ヘパイストスとアポロンによって作られた設計図をもとに半神や鍛えられた人間達が建設を担っている。

 活気溢れる声が響く傍ら、光は一人とぼとぼと歩く。


「もうやだ、帰りたい……」


 そんな泣き言が漏れるほど、光は打ちのめされていた。

 仕事が遅いと詰められ、一部からは邪険にされる。

 そんな中でも、よく構ってくれるのがディミトラであったが、彼女も最近忙しいらしい。

 それに、光がイケメン女子と評する彼女は人気があるらしく、仲良くしてると嫉妬するものもいた。

 ついこの間も、浴場にて数人に牽制されたのだった。


「ちょっとあなた。ディミトラの時間を奪わないでもらえる?」

「と言いますと?」

「ディミトラは忙しいの! 本来、新人の相手なんかしてる暇ないんだから」

「ディミトラの優しさに甘えるのはやめて」

「ちょっとかわいいからって調子のってんじゃないわよ」

「いや、そんなつもりは」

「いい? ディミトラには今後近づかないでちょうだい」


 他の巫女達と仲良くしたいわけではないが、こうも悪感情をぶつけられると精神も摩耗する。

 本来の目的、天叢雲捜索も進展がない。

 そもそも与えられた仕事をこなすだけで精一杯であり、時間が捻出できない。


 男性宿舎へのお使いの帰り道。

 なんとか、耐えているが何かあれば涙がこぼれてしまいそうだった。


「どうしたの? お嬢ちゃん」


 その様子を見かねてか、女性に声をかけられる。

 十歳ほど年上に見えるその女性は、使用人に支給されるキトンなどより大分上等な物を着ているようだった。

 それに従者を連れている。

 おそらくお偉いさんだと考える。


「いえ、何でもないです。ありがとうございます」

「……そうは見えないなあ」


 女性は、困ったように笑うと光の手をとった。


「おいで」

「あの、まだ仕事が残ってて」

「いいから、いいから。大丈夫」


 女性は光にウインクして見せた。


「ヘスティアに仕事を申しつけられたから、この娘はしばらく戻らないってアレサに伝えてくれる?」


 ヘスティアは従者を巫女宿舎に向かわせた。

 その名を聞いて、相手が女神様だと気づかない光ではない。

 どこへ連れて行かれるというのか。


 手を繋がれて光は大人しく着いていくが、いまだ来たことのないエリアを歩いていた。


「ちょっと、やめ……うおおお!」

「馬鹿、こっち来るな!」

「きゃあ! きゃあ!」

「アハハハハ」


 キューピッドのような子供が人を矢で射って楽しそうにしている現場に出くわしてしまう。

 男が射たれたかと思うと、近くにいた男女を追いかけまわし始めた。


「ああ、またエロスが遊んでるみたいだねぇ。あれには気をつけるんだよ」


 エロスが持つ弓矢。

 黄金でできた鏃が突き刺さると激しい愛情に取り憑かれ、鉛でできた鏃が突き刺さると恋慕の情に激しい嫌悪感を抱くことになる。

 神エロスは、これで相手が人だろうが神だろうがよく射って遊んでいるという。

 オリンポスには来たものの人間社会の中で過ごしていたため、ここに来てなんとも神々の世界らしいものを見た気がした。


 連れて来られた先は巫女宿舎とは比べものにならないほど大きな神殿であった。

 人から見ればあまりに大きな神々のための建物だが、神々にとっては住む家である。宮と呼ぶのが正しいだろうか。

 正面の壁上部には炉とそこに灯った火のシンボルが彫られている。


「中へどうぞ?」


 宮の主は微笑んで光を招いた。



 ── オリンポス神域 ヘスティア宮


 居間に通され、ソファを勧められる。

 いかにもプライベートな空間に、はたして一介の使用人に過ぎない者が客のようにもてなされて良いのか逡巡する。

 しかしこの場に及んで、好意を無碍にほっぽりだして帰るようなメンタルも持っていない。

 大人しく座っていると飲み物を侍女が持ってきた。


「まずは飲んで。話はそれから」


 ワイングラスに入っている赤い飲み物。

 酒を口にするのは躊躇われたが、ヘスティアは飲むまで待つといった様子。

 思い切って口に含むとアルコールの匂いはしない普通のぶどうジュースのようだった。

 二口、三口と飲むうちになんだか心が落ち着く感じがした。


「リラックスできたみたいだねぇ。よかった、よかった」


 オリンポスにはネペンテという飲み物がある。

 神々の酒であるネクタルをカップに注ぎ、忘却の川レーテの水一滴を混ぜた魔法の飲み物。疲労と苦痛を和らげ、しばらく憂さを忘れさせる効果がある。

 光が飲んだものはこれを模したもので、ディオニュソスのぶどうで作ったジュースにネクタルとレーテの水を一滴ずつ入れたものであった。


「それで? お嬢ちゃんはどうして暗い顔をしてたの?」


 ネペンテジュースは光の気を緩ませたのか、遠慮の気持ちも消え去って、光は悩みを打ち明けた。

 仕事が中々上達しないこと、周囲によく思われていないこと──さすがに密偵が上手くいっていない事を喋らない理性は残っていたが──。

 ヘスティアは時折頷きつつ静かに話を聞き、


「なるほど、なるほど。そうだなぁ……うん、まずはお友達を増やしてみよう」


 そう提案した。


「友達ですか」

「そう、相手の懐に飛び込んでごらんよ。人間、情が湧くと非道なことはできないもんさ」


 窮鳥懐に入れば猟師も殺さず。

 そうしてまず一人、味方を増やしてみろという。

 味方を増やしていければ周囲を取り巻く環境は自ずと良くなっていくだろうとヘスティアは続ける。


「ひとつ歯車が良い方向に動き出せば、他の事態も好転してくるもんだぜ~?」

「そういうものですか」

「うん! 後は、お嬢ちゃんだけの武器があるといいなあ」

「僕の武器……」

「例え、相手が嫌いでもね。これだけは、適わないって所が一つでもあると、『侮り難し!』ってなるからね~。それが増えていくと、いつの間にか尊敬や友好に変わっているものさ」

「なるほど」


 一つ歯車が良い方向に動き出せば、他の事態も好転してくる。

 その言葉を信じて、まずどれか一つ状況を変えようと光は決意した。


「顔色が変わったねぇ。そうだ。お仕事に関しては、ここにも習いにおいでよ~」

「いいんですか?」


 仕事ぶりが認められる。これも事態を好転に向かわせる一手になりうる。

 マニュアル読んで見様見真似より、直接教われるならありがたかった。


「うちは、他より侍女も少ないからね~、お手伝いは助かるよ~。いじわるしちゃダメだよ?」

「そんなことしませんよー。ふふっ」


 ヘスティアはその場に控える侍女に声をかけた。

 侍女との関係は良好なようだ。

 きっと良い職場なのだろうなと感じた。


「ありがとうございました」

「なんの、なんの~。私は皆の女神様だからね~」


 ヘスティア宮から宿舎に戻る最中、光は考える。

 自分だけの武器は何か。

 仲良くした方が良いと思わせられるものはないか。


 ……。


 ── オリンポス聖域 巫女宿舎


「うおおお! 先ぱぁい!」


 宿舎に戻り、光が真っ先に向かったのはヘレナのもとだった。

 仕事っぷり、格の違いを見せつけてくれた女。

 しかし、責任感の強さからか見放さず面倒を見てくれた先輩。

 懐に潜り込み、しがみついた。


「はあ!? なに! なんなの!? ちょっ、このガキ…… 放しなさいよ……!」

「ヤダ! 優しくしてくれるまで放さない!」

「意味わかんないんだけど!」


 三分に及ぶ格闘の末。


「わかった! わかったから放しなさい!」


 光はまず一人仕留めた。

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