九 溜まる疲労
──オリンポス聖域 巫女宿舎
ランドリールーム。
部屋の四隅の壁から日中は常に湯が湧き出ている。扇形の水受けに溜められて、一定量を過ぎたら端の溝から流れていく。
腰ぐらいの位置で溜まる水受けと膝ぐらいの位置で溜まる水受けがそれぞれ二カ所ずつ。
使用人頭のアレサに言われ、この湿度の高い部屋に光はやってきた。
「はい、これやっといてね」
「私たち他の作業があるから、これもよろしくー」
「はい!」
どさどさっと、洗濯袋が光の目の前に土嚢のように積み上げられた。
本日の監督役であるキシリア。そして同じく洗濯係であろう先輩使用人達はくすくす笑いながらランドリールームを出て行った。
先輩方を笑顔でお見送りしたのち、光は肩を落とした。
本日の光は洗濯係。先輩の作業を押し付けられるというシンプルないじめを受けていた。
「はあ。この二十一世紀に手洗いですか……」
積み上がった洗濯袋を一つ手にとった。
袋には個人の名前が刺繍されており、誰の衣類か分かるようになっている。
中身を取りだしてみるとチュニックとトーガといった古代ローマを思わせる物から、スウェット生地のルームウェアのような現代的なものまで入っていた。
衣類の方に名前はなく、袋ごとに洗わなければ間違いなく取り違えが発生することになる。
(で、どうやって洗うの?)
洗濯機に放り込んでボタンひとつで、とはいかない。
洗い方を教えてくれるはずの先輩方は既にいない。
途方に暮れつつ洗濯道具の置いてある棚から、とりあえず使いそうな道具を取りだしていく。
洗剤らしき物もあるがどれ位の量をどのタイミングで使うのか、さっぱりわからない。
他に有用な物はないかと、整頓されていない雑多な棚をあさるとマニュアルを発見した。
光はさっそくページをめくる。
オリンポスで支給される衣類について洗い方が記載されていた。
「踏み洗い?」
初めて知った洗濯方法。
生地を傷めないか心配しつつも、手でひとつひとつ擦るよりは効率が良さそうに思えた。
洗濯係は、洗って終わりではない。
干して乾かして、取り込み、畳んで、元の洗濯袋に仕舞い、指定の箇所に置く所までやらなくてはならない。
どの程度干せば乾くのかもわからない。
光は急いで作業に取りかかった。
……。
「あら、やっと終わったの? 遅かったわね。もう料理は全て片されたわよ」
その晩、談話室にて二人掛けソファに座るキシリアをみつけ声をかけた。
何十人分を一人で洗濯したのだろうか。洗濯物を畳み終え、全ての行程が終わったことをキシリアに報告すると返ってきたのは非情な言葉であった。
「そんなぁ」
「残念だったわね。次からはもっと速くなさいな」
用が済んだなら、とっとと消えろと言わんばかりに光は追い払われた。
去っていく様子を見てキシリアはくつくつと笑い、隣に座るシルヴァニアへと小さく声をかけた。
「シルヴァニア、見た? あの泣きそうな顔」
「くすくす。ちょっと可哀想でしょー?」
「何言ってんの。あんたも昨日清掃の方でこき使ってやったって言ってたじゃない。ああ、今日はすっごく楽できちゃった。明日もうちの班に来ないかなー」
キシリアとシルヴァニアは口元を手で覆って笑うが、品のなさはどうにも隠しきれないようだった。
そこに、二人の傍を少女が優雅に通りかかった。
少女に気づいたキシリアが声をかける。
「ああ、グラジア。あの新人、疲弊していってるわよ。任しといて、こっから追い出してやるんだから」
「みんなにも関わらない方が良いって言ってあるからね。そろそろ孤立するでしょ」
「……そう」
満面の笑みで告げるキシリアとシルヴァニアに、グラジアは微笑みで返した。
───
一方、追い払われた光は宿舎を出て浴場に来ていた。
ご飯が食べられないなら、お風呂に入ってさっさと寝てしまおうといった具合だ。
浴場は共同で古代ローマのテルマエを思わせる豪華なものであった。
身体を洗い浴槽に浸かる。
なるべく他の人を視界に入れないように浴場の隅の方で大人しくしている。
身体も温まり、ひと息ついて空腹を慰めるようにお腹をさする。
十六歳。男子であればいまだ成長期であり、食事抜きはやはり辛かった。
「はあ……」
「お疲れのようだね、光」
この場で、人と関わらないようにひっそりとしていたのに、わざわざ声をかけてくる者があった。
「ディミトラ」
「探したんだよ? 一緒に夕食を食べようと思って。食堂にいなかったのかい?」
ディミトラは光の隣に座った。
「任された仕事が長引いちゃってね。食べ損ねちゃった」
「おいおい、それじゃお腹が空いてるだろ。他の洗濯係は手伝ってくれなかったのかい?」
「先輩方は他の作業もあって忙しいってね」
「そんな筈ないぞ。まず洗濯業務を終わらせる事が彼女達の仕事だ。二の次にするなんておかしいよ」
ディミトラは光以上に憤慨したが、出張られたらそれはそれでややこしいことになりそうだと感じた光は話題を逸らすことにした。
「僕のことはいいよ。ディミトラは日中どんな事をしてるの?」
「ボク? ボクは簡単に言えば、アレサの使いっ走りかな、へへ。あれやって、これやってーってね。あっ、でも最近は侍女の勉強もしてるんだ」
ディミトラは照れくさそうな、それでも嬉しそうな面持ちで語る。
「ボク、アルテミス様に憧れてて、お仕えできたら良いなって思ってるんだ」
「アルテミスというと、確か狩猟の女神の」
「他にも司ってるけど、そうだよ。実はボク、弓の練習もしてるんだ」
ディミトラは弓を引く所作をしてみせた。
身体も鍛えているようで、様になっているように見えた。
「ははっ、かっこい。上手くいくといいね」
「うん! 光は? どの神様にお仕えしたいとかないの?」
「え、そうだなあ……」
偽らずに言えばポセイドンであろう。
幼い頃から父を通じて面識があり、人となり、人柄──「人」という字を当てるのが適当かどうかは置いておくとして──を知っている。
遊んでもらったこともままあり、楽しい思い出しか残っていない。
現状、他の神々の人柄を知らず、またポセイドンを選びたくない理由もないので一択である。
しかし、光は別に神々に奉仕したくてオリンポスに来たわけではない。
ゼウスの娘が天叢雲剣を持ち去った疑惑があり、調査・奪還のために潜入したのだ。
そのためには、やはりゼウスの神殿に忍び込みたい。
むしろ、そのためにデルフィやパルテノン神殿ではなくゼウス神殿で儀式を行ったのだ。
養成所でレッスンしながら審査に合格するのを待ち侘びるなんて生活は想定外だ。
光としては一刻も早くゼウス神殿で目的の物を捜索したい。
「……ゼウスの神殿で働いてみたいかな」
「なるほどなあ、光はそっちかあ!」
「ん? 『そっち』って?」
ディミトラの含みのある、物言いに少し引っかかった。
「おっと、変な意味じゃ無いんだ。ゼウスの元で働くのは競争が激しいぞ~? なんせオリンポスの王様だからね、みんなゼウス様の神殿で働くのに憧れるのさ」
「やっぱり王様の元で働いてるって凄いもんね。自慢したくなるよ」
「ここにいることだって凄いことなんだぞ。さっき、『そっち』って言ったのはゼウス様と同じか少し上回るくらいヘラ様も人気なんだ。こちらは最高位の女神様。やっぱり同性な分、憧れる気持ちが強いんだね」
「ディミトラがアルテミスに憧れるのも一緒かな?」
「そうかも。力強い女性に憧れる気持ちはあるね」
でも、と続く。
「一番は、狩猟のためにあっちこっち旅して回るのが羨ましいかな。世界を見て回るのって楽しそうじゃない?」
ディミトラは夢を語るような笑顔を見せた。
彼女はオリンポスでの生活が長いことを思い出す。それこそ物心ついた頃からだという。
地上での生活は知らなくとも、外の世界への興味があるのだろう。
「きっと楽しいよ。日本からギリシャに来た時も、ギリシャからオリンポスに来た時も、知らない街の風景を見るのはやっぱり面白かった」
「そっか……そっかあ!」
ディミトラはざばっとお湯から立ち上がった。
「よし! アルテミス様のお眼鏡にかなうようにもっと頑張るぞ! 光、お腹が空いてるなら、後でボクの部屋においで。お菓子かなんかあげるから」
「あ、それは本当に助かります」
ディミトラはやる気に満ちた様子で浴室を出て行った。
せっかくおやつをもらえると言うのだ、さっそくご相伴に預かろうと浴槽をでた所で、光は女子数名に声をかけられた。
光がその日、ディミトラの私室を訪れることはなかった。
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