五 アテネ・ゼウス神殿

 ── 天鳥船 甲板


 天之輝、天之光の兄弟はユーラシア大陸の上空を船に乗って飛んでいた。


「ほとんど拉致みたいに連れてこられたかと思えば、今度は密入国だ。犯罪の被害者と被告人を一遍に体験できて嬉しいよ」


 投げやりな様子で輝がぼやいた。

 空を進む木造船は吹き荒れる乱気流など物ともせず、安定した飛行を見せる。

 甲板に立っていても吹き飛ばされないのは神の御業の一端であろう。

 向かう先はギリシャ・アテネ。

 様々な遺跡の残るこの地だが、目指すはゼウス神殿。


「なんか、僕ひとりじゃオリンポスまで行けないんだってさ」


 今回、光がオリンポスに潜入する手段は単純明快。

 光自身を捧げ物として神々に献納するのである。

 果物や米、酒とともに生贄として捧げられる。

 肉親である妹を神々に捧げるというシナリオのため輝も往路に同行させられることとなった。


「敵地ってわけじゃないけどさ、なんだってこんな姿でアウェーな空間に一人乗り込まなきゃいけないんだ」


 女物の服を身につけて今度は光がぼやいた。

 女物とはいえ、Tシャツに七分丈のパンツといったボーイッシュなアイテムが選ばれている。

 いかにも女の子な格好は光が落ち着かないというのもあるが、取り繕っても男の口調が漏れ出るため服装も寄せてしまえという発想である。


「まあ、日本武尊やまとたけるのみことみたいなもんだろ」

「ヤマトタケルだって別に女装はしたけど、女体化はしてないだろ」


 光は、夏季休暇ということもあり、男に戻るまで家に引きこもっていようと考えていた。

 初っ端から、表に引きずり出されるのは想定外である。


「それがお勤めだってんだからしょうがないだろ? 国際犯罪に巻き込まれた僕の方がかわいそうだ」

「ん゙~……たしかに」


 なにか言い返してやろうと思ったが、全くもってその通りなので言葉は出てこなかった。


『そもそも光は、なんで黄泉なんか言っちゃったの?』


 兄弟のものではない、少女の声が会話に参加してきた。突然、十二か十三歳くらいの少女が半透明で姿を現す。


「それは…… 色々理由はあったよ。友達が危ない目にあったから事態を解決したいとか、父さんの肩身が狭いって聞いたから力になりたいとか」

『ふーん。誰に聞いたの? うさぎ?』

「まあ白兎と、別の神様。父さんの兄貴だって」


 会話の相手は鳥之石楠船神とりのいわくすふねのかみ。別名、天鳥船神あまのとりふねのかみであった。

 船の姿で飛行中であるため、人の姿は擬似的に顕現したものである。

 始めの方は、敬意をもって丁寧に話すべきと敬語で相手をしていたが、そんなに構えないでほしいと断られる。ついには天鳥船の幼子のような口調につられて段々と砕けた口調になってしまっていた。


『へ~。そそのかされちゃったんだあ?』

「そうなんだよぉ。僕ぁ悪くないんだあ」

「いや、反省しろよ」


 天鳥船のくすくすとした笑い声が響いた。


『そうだ! 反省してみっちり働いてきなさい!』

「はっはっは、抜かるなよ。その髪は他の人に……あ、いや女神様か? に、やってもらったんだろ? 一人でセットできるのかあ?」

「綾惶根尊が加護をくれたんでね。伸ばすのも巻くのも指先一つで自由自在だよ。まあセンスがあるかは知らんけど。はあ……」


 輝が茶化すので光はぶっきらぼうに答える。

 左耳の横で髪をくるくると弄ると胸元の勾玉が輝き、片方だけこめかみの毛が螺旋状に巻かれた。

 「ほお」と輝が感心したような声をあげた。


「オリンポスが実際どんなとこかは知らないけど、やることは住み込みのメイドみたいなことだろ? 女社会では美しさは武器になるんじゃないか?」

『そうだね。いじめられないように、しっかり技術を磨くといいよ』


 一般人を装って潜入する以上、誰かに神力を見られては疑われることになるので他者に施して取り入ることは出来ないが、自身を飾って侮られようにすることは大事だと天鳥船は説く。

 なるほどと思う反面、幼い声でそれを言うので、年下の子にたしなめられるようなむず痒さがあった。実際には何百、何千年と生きる年上も年上なのだが。


「わかった。わかったよ。ええっと、現地とは時差があるんでしょ? 備えて寝るから、着いたら起こして」

『そお? わかった、おやすみー。輝も寝てていいよ。することないでしょ?』


 天鳥船は光が船室に入って行くのを手を振って見送り、輝にも声をかけた。

 着の身着のままといった状態で連れてこられたので暇潰しの道具などなく、国際線機内サービスのWi-Fiなどもあるはずがない。


「そうだね。僕も休ませてもらおうかな」


 そう言って、輝も船室に入っていった。



───



 がたがたと揺れる振動で光は目を覚ました。


『あっ、起きた! もう少しで着くからねー』


 船体全体が揺れるマナーモードの目覚ましで起こされた光は、眠い目を擦りながら甲板に出ると既に輝が待っていた。

 船はエーゲ海の海面すれすれを飛行している。

 右側には港町が見えている。

 快適な空の旅はそろそろ終わろうとしていた。


 ── ギリシャ ピレウス


 ピレウスの港に天之兄弟はこっそりと降り立った。

 常人に視認できないようにオーラを纏っていた天鳥船から降りたため、もし目撃者がいれば突然人が現れたように見えただろう。

 ギリシャ国内への密入国が相成った。


「暑っつ」


 天鳥船の力によって快適だった船上を離れ、炎天下に晒されるとじわりじわりと汗が染み出してきた。


『じゃあ光、頑張ってねー。輝はまた後でね』


 人の姿になった天鳥船がぺかっとした笑顔で手を振る。天鳥船はギリシャの神々にみつからないように、しばらく人ごみに紛れることになっている。


「はあい。じゃあ行ってきます」


 小さく手を振り返した後、ついにこの時がきてしまったと言わんばかりに、とぼとぼと駅に歩き始めた。


 ── アテネ


 ゼウス神殿の遺跡に到着してみれば、思ったほど人はいなかった。観光客がまばらに見える程度。

 遺構は円柱がいくつか遺っている程度。アテナのパルテノン神殿の方がやはり目を引くのかもしれない。


 神殿を前に兄弟が立つ。


「ここでいいのかな?」

「たぶんね」


 輝が、背負っていた荷物を下ろした。

 一応、儀式の主催者なので捧げ物を一人でここまで運んできたのだった。

 お互いに汗が滴っていた。光のお気に入りのワークキャップにも汗が滲んでいる。


「ほら」


 輝がタオルを光に投げてよこした。

 汗を拭き取りタオルを返却する。


「じゃあ、始めるか」

「……はあ、行かなきゃダメかな?」

「そりゃ、ここまで来たしな」


 光は自分の沈んだ顔をぺちぺちと叩き気合を入れた。


「よし。いいよ」


 輝はその様子を見て小さく息を漏らしたあと、軽く光の肩を叩き、微笑みとともに激励した。

 ゼウスの神域に立ち、捧げ物も用意した。


「父の言葉に従い、神ゼウスに贈ります。これらの捧げ物を是非お受け取りください」


 輝がそう告げると、呼応するように一瞬、神殿の境内全体が光を放った。

 光が消えると同時に捧げ物も消えた。


「……頑張れよ」


 一人残った輝は天を見上げてそう呟いたあと、名残惜しそうに駅へと引き返して行った。

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