三 惑わせるひと
── 天之家
その日、天之家の夕食の食卓はいつにもまして静かなものだった。
鈿女、輝、光の三人の食卓ならば鈿女が率先して話し出すが、月讀の前で遠慮しているのか行儀よくしている。
各々が黙々と食事を口に運ぶ中、これはいけないと思ったのか月讀が口を開いた。
「輝、今日学校はどうだった?」
特に話題がない父親の常套句で尋ねる。
「ああ、今日は大学内でタランチュラが出たとかで大騒ぎだったよ。かわいそうに生物研究会が学務課にとばっちりを受けててね」
「そうか」
「うん」
またも、沈黙の空間に戻る。心ここにあらずといった様子の空返事によって会話のキャッチボールはいとも簡単に打ち切られてしまった。
二口三口、米とサラダを食す。そしてまた米を箸に取ったが口に運ぶのを途中でやめて、輝はどうしても気になっていた疑問を口にした。
「で、この娘はどちら様?」
自身の隣、光の席で夕食を共にしている女の子について。
「ひどいよ、 兄さん! 自分の妹を忘れるなんて! ねえ、姉さん」
「そうよ、可哀想に。 輝、謝りなさい」
「僕ぁ、パラレルワールドに迷い込んだんか?」
自分に妹などいないが、当の本人と姉から責められる。
味方を求めて父を見てみれば、虚ろな目をして食事を続けている。
「えーと……光ではあるのか?」
「そうだよ」
茶番は手短に終わった。面倒が少ないのは良いが、より大きな面倒ごとが残っている。
「なんでそうなった?」
「さあ? 神様のイタズラとか」
自分の事なのにあっけからんとしている弟を見るが安心して良いのやら悪いのやらわからなかった。
「戻れるのか?」
「もちろん戻れるわ。今すぐって訳にはいかないけど」
回答は鈿女が引き継いだ。
「女性の身体に変えたのが綾惶根尊なら、男性の身体に変えられるのが面足尊。頼めば元に戻してくれるだろうけど、今はちょっと神々の会合で日本を離れてるのよね」
「しばらくはこのままってこと?」
「そうなるわ」
なるほど、一応の解決方法が分かっているならばひとまず安心である。
輝は食べかけの白米を口に運んだ。
「明後日まで夏課外あったろ? 大丈夫か」
「大丈夫じゃないだろうけどね。でも明日は生徒会の仕事、明後日は進路選択に関わる講義的なので、休むと迷惑かけたり面倒になったりすんだよね」
「そうか……」
雷にあたるより珍しい災難に遭遇しているのだから、休むのも許されると思うのだが、本人が行くと言うのなら強く引き止めはしない。
「まあ、残り二日だからね。目立たないように頑張るよ」
いささか不安ではあるが、だからと言って自分に何が出来るわけでもなく、ただ見守ることにした。
───
── 鹿児島市 中心市街地・県立高校
翌日、中学生の体験入学の案内のため教室に鞄を置いた後、体育館に向かった。
こうして他の生徒が真面目に授業を受ける中、教室を抜け出すのが公式に許される瞬間は、生徒会執行部にいて良かったと光を悦に浸らせる。
仕事があるとはいえ、眠い目をこすりながら教室でジッと座っているより、かなりマシだった。
中学生や引率の教師が体育館に入ってきたので、予定通り出席確認を行う。
「お、僕の中学校の後輩だね。ええと、藤田さん藤田さん……あった。どうかした?」
女子生徒が不思議そうな顔で見てくるので聞いてみた。
「あの、女子もズボンでいいんですか?」
「いや、うちの高校は女子はセーラー服、男子は学ランって決まってるよ」
「?」
「?」
何を言ってるのだろうと互いに頭に疑問符が浮かぶ。
認知の歪みか、ふと現状を忘れているのか、光は眼前で女子であろう高校生がシャツとスラックス姿をさらしていることに気づいていなかった。
「じゃあなんで、 先輩はズボン履いてるんですか?」
「そりゃ、 男だからね」
それを聞き女子生徒は、光の顔や手を見直し、胸部を見つめて困惑の表情をして固まった。
「ごめんね、 この子はちょっと事情があってね。 ややこしいんだ、気にしないで」
将史が止めに入るまで、光とその中学生は首を傾げたまま向き合っていた。
続きを促され、出欠確認を行っている途中で光は「あっ」と自分の姿を思い出し、思わず笑いそうになりながら、戸惑わせた中学生に申し訳ない思いになった。
……。
「ここが中庭。たまに昼休みに音楽部が演奏会を開いたりしてるよ。もともとはプールがあってね、ほら記念に飛び込み台が残ってる」
中学生の列を先導しながら校内を案内する。列もそれなりに長いので、補助に入ったクラスの正副委員長が半ばと後ろの方で似たような説明をしている。
初めのうちは静かに着いてきて大人しく説明を聞いていた中学生達だが、緊張がほどけてきたのか小声での私語が増えてきた。
「くすくす」「背ぇ小っちゃ~い」「かわい~」「声変わりまだなのかな?」
最前列の子達はふんふんと真面目に話を聞いているが、三番目、四番目の辺りからはくすくすと笑い声が漏れている。
なまじ体育館の舞台が見えるようにと女子男子の身長順で整列しているため、結果として年下の女の子たちにからかわれている。
(好き勝手言いやがって、本来はもっと背も高いし声も低いよ!)
真面目に職務をこなすが、内心ではそれなりに恥ずかしく感じていた。
中でも羞恥心を際立たせたのが、
「光ちゃん、本当に女の子になってる……ぷふっ。かわい。ふふふ」
「も~、笑っちゃかわいそうだよ遙歌……ふふ」
三番目に並ぶ事の元凶、彩音の妹・
姉達と同じこの高校を志望校と決めたようで本日の体験入学に参加していたのだった。
堪えようとしているようだが笑い声は確かに届いてくる。
(あいつらは後で泣かす。絶対泣かす……!)
羞恥心を隠すように、泣かせ方も知らないくせに光は心の中でイキった。
だが今は私情を表に出せる訳もなく、ただ耐えるのみ。
早いとこ男の身体に戻りたいと光は強く思うのだった。
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